演義の場面

入西川二士争功 入西川二士爭功

事件紹介

この場面は演義第118回の回目「入西川二士争功」の場面で、鍾会の乱の発端となるくだりである。後主の勅命で剣閣の姜維が鍾会に降って兄弟の契りを結び、成都を得た鄧艾が功を誇って独断で事を処理すると、姜維にそそのかされた鍾会が鄧艾に謀反の意があると上奏し、司馬昭が自ら軍を率いて出ることになる。 演義 第118回 §17–21 · 24 · 29–33

陳寿はこの事を魏書巻28鄧艾伝・鍾会伝と蜀書巻14姜維伝に記した。鄧艾伝は、鄧艾が皇帝の名において後主に驃騎将軍を授け、司馬文王に呉を討つ準備と後主を扶風王に封じることを求める書を送り、鍾会・胡烈・師纂らがその行いを悖逆だと申し立てたため檻車で召還されたと記す。 正史 魏書 巻28 §73 · 77–80 · 115–121正史 蜀書 巻14 §47–48

演義の描写

演義第118回で太僕蒋顕が剣閣に後主の勅命を伝えると、将たちは刀で石を斬りつけて泣き叫び、姜維は漢室を復興する計があると耳打ちした後、剣閣関に降伏の旗を立て、張翼・廖化・董厥とともに鍾会に降る。なぜこんなに遅れたのかと問う鍾会に、姜維は国の全軍が自分の手にあったのだから今日来たのも早い方だと言い、鄧艾が相手なら死ぬまで戦っただろうと持ち上げる。鍾会は矢を折って誓い、姜維と兄弟の契りを結ぶ。 演義 第118回 §17–19

成都の鄧艾は師纂を益州刺史とし、綿竹に台を築いて戦功を誇示し、蜀の官員たちに自分に出会ったからこそ今日があると誇ったが、姜維が鍾会に降ったと聞いて鍾会をひどく憎むようになる。鄧艾は司馬昭に、疲れた兵を休ませつつ船を造って呉を討つ準備をし、後主を扶風王に封じようという書を送り、事を報告して返答を待てという司馬昭の自筆の書状には、将が外にある時は君命も受けないことがあるとして再び書を送る。 演義 第118回 §20–26

鄧艾を疑った司馬昭は賈充の言に従って鍾会を司徒に封じて牽制させ、姜維は鍾会に、鄧艾が蜀の人々の心を得ようとしていると言って、武侯が先帝に献じたという益州の地図を渡し、鄧艾の謀反を上奏するようそそのかす。鍾会は上表し、鄧艾の上表を途中で奪って書き換え、激怒した司馬昭は鍾会に鄧艾を捕らえるよう命じ、賈充に3万を与えて斜谷へ送った後、魏主曹奐とともに自ら出征する。 演義 第118回 §27–35

演義と異なる点

姜維の降伏:演義第118回で姜維は剣閣で勅命を受け、計を胸に降伏の旗を立てて鍾会のもとへ行く。正史姜維伝では、姜維らは諸葛瞻が敗れたと聞いて後主の意図が分からず、広漢・郪の道を通って事実を確かめ、後主の勅令を受けてようやく戈を投げ鎧を脱いで涪県の鍾会の軍前に赴いたので、将兵はみな憤って刀で石を斬りつけた。 演義 第118回 §17–18正史 蜀書 巻14 §47

賈充の兵:演義第118回で司馬昭は賈充に3万を与えて斜谷に入らせる。正史鍾会伝に載る司馬昭の書簡は、賈充が歩兵・騎兵1万で斜谷に入って楽城に駐屯し、自らは10万で長安に駐屯すると記す。 演義 第118回 §33正史 魏書 巻28 §123

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

演義の登場回 (1)

正史の登場巻 (2)