正涪県でためらって先鋒を破られ、綿竹で大敗蜀書 巻5 §61蜀書 巻13 §10
諸葛瞻
人物紹介
諸葛瞻は字を思遠といい、諸葛亮の子で、父の爵位を継いだ。公主を娶り、侍中・尚書僕射を経て、景耀4年(261)に行都護衛将軍となり、董厥とともに尚書の事を処理した。 正史 蜀書 巻5 §43 · 59–60
景耀6年(263)冬、魏の鄧艾が陰平から間道を通って入ってくると、諸軍を率いて防ぎに出たが、涪県から綿竹へ退き、大敗して陣中で死んだ。時に三十七歳で、長男の諸葛尚もともに死んだ。 正史 蜀書 巻5 §60–61
陳寿はその伝で、蜀の人々が諸葛亮を慕って彼を愛したため「美声溢誉、其の実に過ぐる有り」(美しい名声とあふれる称賛が実際を上回った)と記した。演義では第105回に諸葛亮の喪主として初めて登場し、全120回のうち3回に登場するが、回目に名が載る回はない。第117回で綿竹に出て鄧艾と戦い、自ら首をはねて死ぬ。 正史 蜀書 巻5 §59–60演義 第105回 §24演義 第117回 §44
正史の記録
諸葛瞻は字を思遠といい、諸葛亮の子である。建興12年(234)、諸葛亮は武功に出たとき兄の諸葛瑾に宛てた手紙で、「瞻は今八歳で、聡明で愛らしいのですが、早熟すぎるのが気がかりで、重器とならないのではと恐れています」と書いた。諸葛亮の爵位は諸葛瞻が継いだ。 正史 蜀書 巻5 §43 · 59
十七歳で公主を娶って騎都尉となり、翌年には羽林中郎将となり、たびたび遷って射声校尉・侍中・尚書僕射となり、軍師将軍を加えられた。諸葛瞻は書画に巧みで記憶力に優れ、蜀の人々は諸葛亮を慕って、みな彼の才と聡敏さを愛した。朝廷に善政や佳事があるたびに、諸葛瞻が立案・提唱したものでなくても、民は「葛侯のなさったことだ」と互いに伝え合った。陳寿はそれゆえ、彼の美しい名声とあふれる称賛は実際を上回っていたと記した。 正史 蜀書 巻5 §59–60
呉の太傅諸葛恪が魏軍を破ったのち大軍を起こそうとすると、張嶷は侍中であった諸葛瞻に書簡を送った。諸葛瞻は諸葛亮の子で、諸葛恪の従弟であった。張嶷は、太傅が幼い君主のもとを離れて敵地を踏むのは良策ではなかろうとし、郎君が太傅に忠言を進めなければ、ほかに誰が心を尽くして言う者がいようかと述べた。諸葛恪は結局このことで一族を滅ぼされた。 正史 蜀書 巻13 §58–61
景耀4年(261)、諸葛瞻は行都護衛将軍となり、輔国大将軍・南郷侯董厥とともに尚書の事を処理した。都護諸葛瞻が初めて朝政を総べるようになると、廖化は宗預とともに彼を訪ねようとしたが、宗預は「どうして若輩に何かを求めて、わざわざその門を訪ねる必要があろうか」と言って行かなかった。陳寿は、諸葛瞻・董厥・樊建が政務を総べてからは、姜維は常に外で征伐し、宦官黄皓がひそかに権力を弄んだが、みなともに彼をかばうばかりで正すことができなかったと記した。 正史 蜀書 巻5 §60 · 64正史 蜀書 巻15 §21–22
景耀6年(263)冬、魏の征西将軍鄧艾が陰平から景谷道を経て間道から入ってきた。諸葛瞻は諸軍を率いて涪県に至って留まった。尚書郎黄崇は、急いで進んで険要を押さえ、敵を平地に入れないようにすべきだと再三勧め、涙まで流したが、諸葛瞻はためらって受け入れなかった。先鋒が破られると、諸葛瞻は退いて綿竹に留まり、陣を布いて鄧艾を待った。 正史 蜀書 巻5 §60–61正史 蜀書 巻13 §10正史 魏書 巻28 §71
鄧艾は書簡を送って「降伏するなら、必ず上表して琅邪王としよう」と誘ったが、諸葛瞻は怒って鄧艾の使者を斬った。鄧艾は子の鄧忠を右に、司馬の師纂を左に出したが、二人は戦いが不利で戻ってきて、敵は撃てないと言った。鄧艾が怒って二人を斬ろうとすると、二人は再び戦って大いに破り、諸葛瞻と尚書張遵らの首を斬った。諸葛瞻は時に三十七歳であった。長男の諸葛尚もともに死に、黄崇と李恢の甥の李球も綿竹で戦死した。 正史 蜀書 巻5 §61正史 魏書 巻28 §72正史 蜀書 巻13 §10 · 18
軍勢がみな離散すると、鄧艾はまっすぐ成都に至り、後主(劉禅)は降伏を願い出た。剣閣にいた姜維らは諸葛瞻が敗れたと聞いて東の巴に入った。魏の鍾会は漢城に至ると、蒋琬の子蒋斌に宛てた書簡で、蒋斌と諸葛思遠を「私と同類」と呼んだ。諸葛瞻の次男諸葛京は、諸葛攀の子諸葛顕らとともに咸熙元年(264)に河東へ移された。 正史 蜀書 巻5 §61正史 魏書 巻28 §72 · 114正史 蜀書 巻14 §14
演義の描写
演義第105回で諸葛亮の柩が成都に入り丞相府に安置されると、子の諸葛瞻が喪主として喪に服する。 演義 第105回 §24
第117回で鄧艾の軍が涪城に至ると、郤正は後主(劉禅)に、武侯の子を召して敵を退ける策を議するよう奏上する。演義はこの場面で諸葛瞻の来歴を明かす。字は思遠で、母の黄氏は黄承彦の娘で、容貌はひどく醜かったが、天文と地理、韜略と遁甲の書に通じて諸葛亮の学問を大いに助け、死に際してはただ忠と孝によって子を励ました。諸葛瞻は幼いころから聡明で、後主の娘を娶って駙馬都尉となり、父の武郷侯の爵位を継ぎ、景耀4年に行軍護衛将軍となったが、黄皓が権勢を振るうと病と称して出仕せずにいた。 演義 第117回 §27–28
後主が詔を立て続けに三度下して召し、「先君の顔に免じて朕の命を救ってくれ」と泣いて訴えると、諸葛瞻は成都の兵をすべて出してくれれば死を覚悟して戦うと言い、将兵七万を受ける。十九歳の長男諸葛尚が先鋒を願い出ると、大いに喜んで彼を先鋒とする。 演義 第117回 §28–30
戦場で鄧忠と師纂は、蜀の陣中で諸葛孔明が兵を率いているのを見て逃げ帰るが、車上に座っていたのは木で彫った諸葛亮の像であった。再び出てきた二人を諸葛尚が退け、諸葛瞻は両翼の兵で魏の陣中を数十回にわたって突き崩し、二十余里を追撃する。鄧艾が書簡を送り、帰順すれば上表して琅邪王にしようと言うと、諸葛瞻は書簡を引き裂いて使者を斬り、その首を魏の陣営へ送り返す。 演義 第117回 §35–39
鄧艾が敗走すると諸葛瞻は追撃したが、両側から湧き出た伏兵に大敗して綿竹へ退き、魏軍は綿竹を鉄桶のように包囲する。諸葛瞻は彭和に書簡を持たせて東呉に救援を求める。援軍が来ないので、子の諸葛尚と尚書張遵に城を守らせ、自ら三つの城門を開いて出撃したが包囲され、矢を受けて落馬すると「わが力は尽きた。一死をもって国に報いよう」と叫び、剣を抜いて自ら首をはねて死ぬ。諸葛尚も後に続いて出撃して戦死し、鄧艾はその忠義を哀れんで父子を合葬する。 演義 第117回 §40–41 · 43–46
第118回で後主は、鄧艾が綿竹を奪い、諸葛瞻父子がすでに死んだと聞いて大いに驚き、文武の官を集めて協議する。 演義 第118回 §1
演義と異なる点
母の黄氏:演義第117回は諸葛瞻の母を黄承彦の娘とし、その才能と遺言を長々と記す。正史の諸葛瞻伝には母に関する記録はない。 演義 第117回 §27–28正史 蜀書 巻5 §58–61
官職:演義第117回では後主の娘を娶って駙馬都尉となり、景耀4年に行軍護衛将軍となる。正史では十七歳で公主を娶って騎都尉となり、羽林中郎将・射声校尉・侍中・尚書僕射を経て軍師将軍を加えられ、景耀4年(261)に行都護衛将軍となって董厥とともに尚書の事を処理した。 演義 第117回 §28正史 蜀書 巻5 §59–60
黄皓との関係:演義第117回で諸葛瞻は、黄皓が権勢を振るうと病と称して出仕しない。正史で陳寿は、諸葛瞻・董厥・樊建が政務を総べてから黄皓が権力を弄んだが、みなともに彼をかばうばかりで正すことができなかったと記した。 演義 第117回 §28正史 蜀書 巻5 §64
涪県でのためらい:演義第117回で諸葛瞻は後主(劉禅)の召しを受けて七万の兵で出陣し、すぐに鄧艾と戦う。正史では諸軍を率いて涪県に留まり、黄崇が急いで険要を押さえようと涙ながらに勧めてもためらい、先鋒が破られると綿竹へ退いた。 演義 第117回 §29 · 35正史 蜀書 巻5 §61正史 蜀書 巻13 §10
最初の戦いと木像:演義第117回では諸葛亮の木像を見て鄧忠と師纂が逃げ、諸葛瞻父子が魏軍に二度勝つ。正史の鄧艾伝では、鄧忠と師纂は最初の戦いが不利で戻ってきたが、鄧艾が斬ろうとすると再び戦って大いに破り、諸葛瞻を斬った。木像は陳寿の本文にない。 演義 第117回 §35–37正史 魏書 巻28 §72
呉に求めた救援:演義第117回では諸葛瞻が彭和を派遣して呉主孫休に救援を求める。正史の三嗣主伝には、永安6年(263)冬10月に蜀が魏の侵攻を知らせてくると丁奉らを派遣して蜀を救わせようとしたが、劉禅降伏の知らせでやめたと記されているだけで、諸葛瞻が人を送ったという話はない。 演義 第117回 §41正史 呉書 巻3 §43–44
死:演義第117回で諸葛瞻は矢を受けて落馬すると自ら首をはねて死ぬ。正史の諸葛瞻伝では大敗して陣中で死に、鄧艾伝は鄧忠と師纂が諸葛瞻と尚書張遵らの首を斬ったと記す。 演義 第117回 §44正史 蜀書 巻5 §61正史 魏書 巻28 §72
諸葛尚と葬儀:演義第117回で十九歳の諸葛尚は先鋒として活躍し、父が死ぬと出撃して戦死し、鄧艾が父子を合葬する。正史には長男諸葛尚が諸葛瞻とともに死んだという一行があるだけで、年齢と葬儀は記されていない。 演義 第117回 §30 · 44–46正史 蜀書 巻5 §61
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能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率3566+31
- 武力4060+20
- 知力3240+8
- 政治4040±0
- 魅力7055−15
- 徳6692+26
- 処世3050+20
- 文芸7045−25
- 弁舌4040±0
- 用人3550+15
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
正敵が迫るのにためらって進まなかった蜀書 巻13 §10
演黄皓が権勢を振るうと病と称して出仕しなかった第117回 §28
正黄崇が涙ながらに勧めても最後まで受け入れなかった蜀書 巻13 §10
演十九歳の諸葛尚を先鋒とした第117回 §30
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正険要を先に押さえよという黄崇の勧めを受け入れなかった蜀書 巻13 §10
スペシャル — 才能 正史 +25 · 演義 +0
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書道
正名手 +25 書画に巧みであったと記録蜀書 巻5 §59
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。