戦い

段谷の戦い 段谷之戰

事件紹介

段谷の戦いは、魏の甘露元年(256、蜀の延熙19年)、再び出てきた蜀の姜維が魏の安西将軍鄧艾と険しい地を争った末、夜に上邽へ向かう途中で段谷において大敗した戦いである。姜維は鎮西大将軍胡済と上邽で落ち合う約束をしていたが胡済は来ず、蜀軍は星のように散り散りになり、死者は非常に多かった。姜維は過ちを謝して自ら降格を願い、後将軍として大将軍の職務を代行した。姜維の北伐のうちの一戦である。 正史 魏書 巻28 §65正史 蜀書 巻14 §38正史 魏書 巻4 §76

陳寿はこの戦いを魏書巻28の鄧艾伝と巻4の三少帝紀、蜀書巻3の後主伝・巻14の姜維伝に記した。演義は第111回「鄧士載智敗姜伯約 諸葛誕義討司馬昭」の前半でこの戦いを描く。 正史 魏書 巻28 §63–66正史 魏書 巻4 §76正史 蜀書 巻3 §36正史 蜀書 巻14 §38演義 第111回 §1–23

正史に見る経過

正元2年(255)に狄道の包囲が解けた後、鄧艾は安西将軍・護東羌校尉となった。議論する者の多くは姜維の力はすでに尽き、再び出てくることはできないと言ったが、鄧艾は洮西の敗戦は小さな失敗ではないとして5つの点を挙げた。彼らは勝ちに乗じており我々は弱く、彼らは上下が慣れ親しみ武器が鋭いが我々は将兵が新しく、彼らは船で進み我々は陸を行き、我々は狄道・隴西・南安・祁山を分けて守らねばならず、彼らは南安・隴西で羌の穀物を、祁山で熟した麦を食べられるので、必ず来るというのであった。 正史 魏書 巻28 §63–64

蜀では延熙19年(256)春、姜維を大将軍に昇らせた。姜維は兵馬を改めて整え、鎮西大将軍胡済と上邽で落ち合う約束をした。 正史 蜀書 巻14 §38正史 蜀書 巻3 §36

ほどなく姜維は果たして祁山へ向かったが、鄧艾がすでに備えていると聞いて方向を変え、董亭から南安へ向かった。鄧艾は武城山を占拠して対峙した。姜維は鄧艾と険しい地を争って勝てず、その夜、渭水を渡って東へ行き、山沿いに上邽へ向かったが、鄧艾は段谷で彼と戦って大いに破った。 正史 魏書 巻28 §65

姜維伝は、胡済が約束を破って来なかったため、姜維は段谷で鄧艾に破られて星のように散り散りになって流浪し、死者は非常に多かったと記す。日付は巻ごとに異なる。三少帝紀は甘露元年7月癸未の日に安西将軍鄧艾が上邽で姜維を大いに破ったとし、後主伝は秋8月に姜維が上邽で鄧艾に破られたと記す。 正史 蜀書 巻14 §38正史 魏書 巻4 §76正史 蜀書 巻3 §36

魏の朝廷は詔を下し、斬首と捕虜がともすれば万をもって数え、近ごろの戦勝でこれに及ぶものはないとして、将兵をねぎらい宴を開かせた。鄧艾については、将十数人を斬り首級は千をもって数えたとして、鎮西将軍・都督隴右諸軍事とし、鄧侯に進封し、500戸を分けて息子の鄧忠を亭侯に封じた。蜀では民衆が恨み、隴以西が騒がしくなり、成都に戻った姜維は過ちを謝して自ら降格を願い、後将軍として大将軍の職務を代行した。 正史 魏書 巻4 §76正史 魏書 巻28 §65–66正史 蜀書 巻14 §38正史 蜀書 巻3 §36

演義の描写

演義第111回で、狄道の包囲が解けた後に安西将軍となった鄧艾は、陳泰に蜀軍が必ず再び出てくる5つの理由を挙げた。鍾提の姜維も樊建の諫めに対して魏に勝てる5つの理由を挙げ、鄧艾を警戒するよう言う夏侯覇を叱りつけてから祁山へ進んだ。祁山にはすでに魏軍の陣営9つが長い蛇のように連なっており、姜維は鄧艾が師の諸葛丞相に劣らないと感嘆した。 演義 第111回 §1–9

姜維は祁山の谷口に鮑素を残して毎日鎧と旗を替えながら偵察させ、自らは大軍を率いて董亭を経て南安を急襲しに行った。同じ馬が行き来しているのを見抜いた鄧艾は、陳泰に祁山の陣営を攻めさせ、自らは夜通し進んで武城山を先に押さえ、息子の鄧忠と師纂を段谷に伏せさせた。 演義 第111回 §9–14

武城山の前で伏兵にかかって前軍を失った姜維は、山上の魏軍に昼夜悩まされて陣営を築けず、夏侯覇を武城山に残して上邽を攻めに向かった。道案内が段谷だと言うと、姜維は段谷とはすなわち谷を断つ「断谷」だと言って忌んだが、師纂・鄧忠と鄧艾の三手の挟撃に大敗した。 演義 第111回 §14–19

夏侯覇が救いに来て魏軍は退いたが、祁山の陣営はすでに陳泰に破られ、鮑素は戦死していた。間道を通って戻ろうとした姜維は陳泰に囲まれたが、蕩寇将軍張嶷が数百騎で突入して脱出でき、張嶷は乱れ飛ぶ矢に当たって死んだ。将兵の死を姜維の罪とされると、姜維は武侯の街亭の前例に倣って自ら後将軍に降格して大将軍の職務を代行し、魏では鄧艾の子鄧忠が亭侯に封じられた。 演義 第111回 §20–23

演義と異なる点

戦いの経過:演義第111回では、鄧艾が武城山を先に押さえ、段谷に鄧忠と師纂を伏せて三手から姜維を討つ。正史の鄧艾伝は、鄧艾が武城山で姜維と険しい地を争い、姜維が夜に渭水を渡って上邽へ向かうと段谷で戦って大いに破ったと記すのみである。 演義 第111回 §12–14 · 19正史 魏書 巻28 §65

敗戦の理由:演義第111回は姜維が鄧艾の計略に陥ったものとして描き、胡済は登場しない。正史の姜維伝は、姜維が鎮西大将軍胡済と上邽で落ち合うことにしていたが、胡済が約束を破って来なかったために敗れたと記す。 演義 第111回 §12–19正史 蜀書 巻14 §38

陳泰:演義第111回では、陳泰が祁山の陣営を破って鮑素を殺し、退く姜維を包囲する。正史でこの戦いを記した鄧艾伝・姜維伝・三少帝紀には陳泰は登場せず、陳泰伝は狄道の戦いの後、彼が召されて尚書右僕射となったと記す。 演義 第111回 §20正史 魏書 巻28 §65正史 蜀書 巻14 §38正史 魏書 巻4 §76正史 魏書 巻22 §54

張嶷の死:演義第111回では、張嶷は段谷の戦いの後、包囲された姜維を救って死ぬ。正史の張嶷伝では、張嶷は2年前の延熙17年(254)に姜維に従って隴西に出て、狄道で魏の将徐質と戦って死んだ。 演義 第111回 §21正史 蜀書 巻13 §62–63

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

交戦勢力

区分甲乙
勢力魏蜀
指揮官鄧艾姜維

勢力・指揮官・兵力・死傷者は原文と照合(3KDEX)。兵力・死傷者は原文に記された数値のみ掲載。 出典:魏書 巻28 §65

下位事件・演義の場面(1)

演義の登場回 (1)

正史の登場巻 (4)