関平 關平

正史演義 Guan Ping관평关平

プロフィール
職業演武将 · 副将所属
登場正演収録
出生正? 演? 推定出身地河東郡 解県 推定
死去正220年 演(同じ) 推定死去地正臨沮県
死因正処刑 演処刑 推定
実在実在言及正4回

人物紹介

関平は関羽の子である。正史には独立した伝がなく、関羽伝と呉主伝・潘璋伝に、父とともに捕らえられ死んだことが一行ずつ記されるだけである。建安24年(219)12月(西暦220年初め)、潘璋の司馬馬忠に章郷で父・都督趙累とともに捕らえられ、臨沮で関羽とともに斬られた。 正史 蜀書 巻6 §12正史 呉書 巻2 §28正史 呉書 巻10 §92

陳寿の評は彼を個別には扱わない。演義では第28回に、関羽と同姓の老人関定の次男として初めて登場して関羽の養子となり、全120回のうち15回に登場する。回目に名は見えないが、関羽の副将として常にそばを守り、第77回で父とともに捕らえられて死ぬ。 正史 蜀書 巻6 §44演義 第28回 §52–53演義 第73回 §36演義 第77回 §9 · 13

正史の記録

建安24年(219)、関羽は樊城で曹仁を攻め、秋の長雨で漢水があふれて于禁の七軍が水没すると、于禁は降伏し関羽は龐徳を斬った。曹操は司馬懿と蒋済の進言に従い、孫権に関羽の背後を討たせた。江陵の麋芳と公安の士仁は人を遣って孫権を迎え入れ、徐晃が曹仁の救援に来ると、関羽は勝てずに退いた。孫権が江陵を占拠して将兵の妻子をことごとく捕らえると、関羽の軍は離散した。 正史 蜀書 巻6 §10–12

呉主伝によれば、閏月、孫権は関羽を討つにあたってまず呂蒙を遣って公安を襲わせ、南郡太守麋芳は城をあげて降伏した。関羽は当陽に戻り、西の麦城を守った。孫権が人を遣って誘うと、関羽は偽って降伏し、城の上に旗と人形を立てたまま逃走したが、兵はみな離散し、残ったのは十余騎だけであった。 正史 呉書 巻2 §27–28

孫権はあらかじめ朱然と潘璋にその道を断たせていた。潘璋は朱然とともに関羽の逃げ道を断つため臨沮に至り、夾石に駐屯した。12月、潘璋の司馬馬忠が章郷で関羽とその子関平、都督趙累らを捕らえ、孫権はついに荊州を平定した。関羽伝は、孫権が将を遣って関羽を迎え撃たせ、臨沮で関羽とその子関平を斬ったと記す。 正史 呉書 巻2 §28正史 呉書 巻10 §92正史 蜀書 巻6 §12

関羽はのちに壮繆侯と追諡され、子の関興が跡を継いだ。正史は関平の字と官職、生年を記さず、陳寿の評も彼を個別には扱わない。 正史 蜀書 巻6 §13 · 44

演義の描写

演義第28回で、関羽が泊まった荘園の老人関定は、自分も姓は関であると言って二人の息子を引き合わせる。関羽は劉備に、長男関寧は学問を、次男関平は武芸を学んでいると紹介し、劉備は十八歳の関平を、まだ子のない関羽の子にしようと言う。関平は関羽を父として拝し、劉備を伯父と呼ぶ。 演義 第28回 §46–47 · 52–53

第31回では関羽・周倉とともに兵三百を率いて来て張郃を退ける。第39回の博望坡では諸葛亮の命で劉封とともに火を放つ準備をし、第49回には関羽・周倉とともに華容道に伏兵する。第57回では劉封とともに巴丘の上流で水路を塞ぎ、周瑜の行く手を阻む。 演義 第31回 §34演義 第39回 §31演義 第49回 §39演義 第57回 §1–2

第60回で劉封とともに劉備に従って西川に入り、第62回の涪関では幕の後ろから躍り出て楊懐と高沛を一人ずつ捕らえる。第63回では張任に追われる劉備を劉封とともに救い、龐統の死を知らせる劉備の手紙を夜を徹して荊州へ届ける。諸葛亮はこれを関羽に荊州を任せよという意味と解し、関平は関羽を補佐して荊州に残る。 演義 第60回 §52演義 第62回 §21演義 第63回 §22 · 24–25 · 28–29 · 32

第66回では、魯粛が関羽を宴に招くと、「万金の御身で、虎狼の巣窟に自ら踏み込まれるのですか」と諫める。関羽は聞き入れず、彼に快速船十隻と水軍五百を選んで江上で待たせ、周倉が赤い旗を振ると関平の船団が江東へ渡ってくる。 演義 第66回 §17–20 · 26

第73回で副将となって廖化とともに曹仁の軍を背後から突き、逃げる翟元に追いついて斬る。第74回では棺を担がせて出てきた龐徳を「主に背いた賊」と罵り、父に代わって出て三十合戦う。龐徳が刀を引きずって逃げるふりをして弓を引くと、関平が先に見つけて叫ぶが、関羽は左腕に矢を受け、関平が父を救って陣営に戻る。 演義 第73回 §36 · 42–44演義 第74回 §11–13 · 19

第76回では偃城に駐屯していたが徐晃の計略にはまり、偃城と四冢の陣営を失う。兵が離散した関羽を廖化とともに包囲の中から救い出して麦城に入るよう勧め、麦城では降伏を勧めに来た諸葛瑾を剣を抜いて斬ろうとして関羽に止められる。 演義 第76回 §7–9 · 13–14 · 33 · 45

第77回で関羽に従って麦城の北門を突破し、趙累が乱軍の中で死んだと知らせ、関羽の命で殿を務める。関羽が潘璋の部将馬忠に捕らえられると救いに駆けつけるが、潘璋と朱然に包囲され、ただ一人で戦って力尽き捕らえられる。孫権が左咸の言に従って関羽を引き出させ、関羽父子は建安24年冬12月にともに殺される。 演義 第77回 §6 · 8–9 · 12–13

演義と異なる点

関羽との関係:演義第28回の関平は、関羽と同姓の老人関定の次男で、まだ子のなかった関羽の養子となり、第74回でも龐徳の兵卒が彼を「関公の養子」と呼ぶ。正史では「関羽とその子関平」と記され、養子という言葉はない。 演義 第28回 §53演義 第74回 §12正史 蜀書 巻6 §12正史 呉書 巻2 §28

記録の範囲:演義の関平は第28回から第77回まで関羽のそばで、博望坡・華容道・西川・荊州・樊城に出陣する。正史の関平は、関羽伝・呉主伝・潘璋伝で父とともに捕らえられ斬られる箇所にしか出てこない。 演義 第39回 §31演義 第49回 §39演義 第62回 §21演義 第74回 §13正史 蜀書 巻6 §12正史 呉書 巻2 §28正史 呉書 巻10 §92

楊懐と高沛:演義第62回では関平と劉封が幕の後ろから躍り出て二人を捕らえ、龐統の号令で幕の前で斬る。正史の先主伝では、劉備が劉璋の白水軍督楊懐を呼びつけて無礼を責め、斬っており、関平は出てこない。 演義 第62回 §21–22正史 蜀書 巻2 §31

龐徳との戦い:演義第74回では関平が父に代わって龐徳と三十合戦い、龐徳がひそかに射た矢が関羽の左腕に当たる。正史の龐徳伝では龐徳が自ら関羽と戦って関羽の額を射当てており、関平は出てこない。 演義 第74回 §13 · 19正史 魏書 巻18 §71

偃城と四冢:演義第76回では関平が偃城に駐屯して徐晃の計略で城を失い、廖化とともに四冢の陣営も失う。正史の徐晃伝では、関羽側の兵が偃城に駐屯していたが、徐晃が背後を断つかのように塹壕を掘ると陣営を焼いて逃げ、徐晃がひそかに四冢を攻めると関羽が自ら歩騎五千を率いて出撃して敗れた。偃城を守った将の名はない。 演義 第76回 §7–9 · 13正史 魏書 巻17 §66

趙累:演義第77回では関平が、趙累が乱軍の中で死んだと関羽に知らせる。正史では趙累は関羽・関平とともに馬忠に捕らえられた。 演義 第77回 §8正史 呉書 巻2 §28正史 呉書 巻10 §92

捕らえられた場所:演義第77回では、決石で関羽が鉤と縄に掛けられて馬忠に捕らえられ、関平は潘璋と朱然に包囲されて捕らえられる。正史では12月、潘璋の司馬馬忠が章郷で関羽と関平、趙累をともに捕らえた。 演義 第77回 §8–9正史 呉書 巻2 §28正史 呉書 巻10 §92

死:演義第77回では、孫権が左咸の言に従って捕らえた関羽を引き出させ、父子がともに殺されるが、死んだ場所は明らかにしない。正史の関羽伝では、孫権が遣わした将が臨沮で関羽と関平を斬った。 演義 第77回 §12–13正史 蜀書 巻6 §12

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率4058+18
  • 武力4580+35
  • 知力3348+15
  • 政治3135+4
  • 魅力3548+13
  • 徳5585+30
  • 処世3552+17
  • 文芸3133+2
  • 弁舌3135+4
  • 用人3142+11
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

魅力正35推定演48推定 +13

正直接の記録なし — 武将としての経歴から推定蜀書 巻6 §12

演直接の記録なし — 荊州を守った武将としての経歴から推定第63回 §32

識人・用人正31推定演42 +11

正直接の記録なし — 武将としての経歴から推定蜀書 巻6 §12

演訪ねてきた者が周泰を治した華佗だと見抜いて迎え入れた第75回 §3

近い項目 3件 — 根拠を見る
  • 政治正31推定演35推定 +4

    正直接の記録なし — 武将としての経歴から推定蜀書 巻6 §12

    演直接の記録なし — 荊州を守った武将としての経歴から推定第63回 §32

  • 文芸・学術正31推定演33 +2

    正直接の記録なし — 武将としての経歴から推定蜀書 巻6 §12

    演武芸を学んだ息子として紹介される第28回 §52

  • 弁舌・外交正31推定演35推定 +4

    正直接の記録なし — 武将としての経歴から推定蜀書 巻6 §12

    演直接の記録なし — 使者を迎えて問いただした事績から推定第66回 §16

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(15回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

家族

父母関定 演義
兄弟姉妹関寧 演義

Wikidataの歴史・演義人物項目に基づく。推定バッジのない関係は正史原文でも確認済み。

関連事件(8)

ウィキペディア情報ボックス・原文キーワードの自動照合(推定)を含みます。