趙累

正史演義 Zhao Lei조루赵累

プロフィール
職業正演武将 · 都督所属
登場正演収録
死因演戦死 推定
実在実在言及正2回

人物紹介

趙累は関羽とともに呉軍に捕らえられた都督である。正史には独立した伝がなく、呉書巻2呉主伝と巻10程黄韓蔣周陳董甘凌徐潘丁伝の潘璋の条に名が一度ずつ見える。 正史 呉書 巻2 §28正史 呉書 巻10 §92

建安24年(219)、孫権が関羽を討ったとき、12月(西暦220年初め)、潘璋の司馬馬忠が章郷で関羽とその子関平、都督趙累らを捕らえた。陳寿の本文は彼の字と出身、捕らえられた後のことを記していない。 正史 呉書 巻2 §27–28正史 呉書 巻10 §92

演義では第73回で、王甫が潘濬に代えて荊州を任せるよう推挙する「軍前都督糧料官」として初めて登場し、全120回のうち第73・76・77回の3回に登場するが、回目に名が挙がる回はない。荊州を失った関羽にたびたび計略を進言し、第77回で麦城を抜け出す途中、乱軍の中で死ぬ。 演義 第73回 §46演義 第76回 §22演義 第77回 §4 · 8

正史の記録

呉主伝によれば、建安24年(219)、関羽が襄陽で曹仁を包囲すると、孫権は曹操に書簡を送り、関羽を討つことで自ら力を尽くしたいと願い出た。閏月、孫権は関羽を征討し、まず呂蒙を遣わして公安を襲わせて将軍士仁を捕らえ、南郡太守麋芳は城を挙げて降伏した。関羽は当陽に戻り、西の麦城を守った。 正史 呉書 巻2 §26–27

孫権が人をやって誘うと、関羽は偽って降伏し、城の上に旗を立て人の形をした人形を作っておいて逃げたが、兵はみな散り散りになり、残ったのは十数騎だけであった。孫権はあらかじめ朱然と潘璋に彼の行く道を断たせていた。12月(西暦220年初め)、潘璋の司馬馬忠が章郷で関羽とその子関平、都督趙累らを捕らえ、ついに荊州が平定された。 正史 呉書 巻2 §28

潘璋の記録も、孫権が関羽を征討したとき、潘璋は朱然とともに関羽の逃げ道を断とうと臨沮に至って夾石に留まり、潘璋の部下である司馬馬忠が関羽を捕らえ、あわせて関羽の子関平と都督趙累らも捕らえたと記す。孫権はただちに宜都郡の巫県と秭帰県を分けて固陵郡とし、潘璋を太守兼振威将軍として溧陽侯に封じた。 正史 呉書 巻10 §92

陳寿の本文で趙累が登場するのはこの二つの条だけである。関羽伝は孫権が遣わした将が臨沮で関羽とその子関平を斬ったと記すのみで、趙累には触れない。趙累の字と出身、捕らえられた後のことと死は、陳寿の本文に記されていない。 正史 呉書 巻2 §28正史 呉書 巻10 §92正史 蜀書 巻6 §12

演義の描写

演義第73回で、襄陽を得た関羽は、東呉の呂蒙が荊州を呑み込もうとしているという随軍司馬王甫の憂いを受けて、彼に長江沿いに烽火台を設けさせる。王甫が、麋芳と士仁が二つの要衝を守っているが力を尽くさないおそれがあるので、荊州を総督する者がもう一人必要だと言うと、関羽はすでに治中潘濬を遣わしたと答える。王甫は、潘濬は猜疑心が強く利を好むので、軍前都督糧料官趙累を遣わして代わらせるよう言い、趙累は人となりが忠誠で清廉かつ剛直であると言う。関羽は、すでに決めて遣わしたので変える必要はなく、趙累はいま兵糧を担当しており、それもまた重要な仕事だと言って聞き入れない。 演義 第73回 §45–47

第76回で、公安の士仁と南郡の麋芳が東呉に降伏したと聞いた関羽は、傷口が裂けて倒れ、目を覚ますと足を踏み鳴らして嘆く。兵糧を管轄する都督趙累は、一方では人を成都に遣わして救援を求め、一方では陸路を行って荊州を取り戻そうと言い、関羽はその言葉どおり馬良と伊籍を成都に遣わす。前には呉軍、後ろには魏軍がいて進むも退くもならなくなると、趙累は、かつて陸口の呂蒙が書簡で両家の友好を約束しながら盟約に背いたのだから、人を遣わして彼を責め、返答を見ようと言い、関羽は書簡を書いて使者を荊州に送る。 演義 第76回 §20–22 · 25–26

関羽が麦城に入って諸将と協議すると、趙累は、ここは上庸に近いので、そこを守る劉封と孟達に急いで援軍を求め、西川の軍が大挙して到着するまで持ちこたえようと言い、廖化が包囲を突破して上庸へ向かう。第77回で援軍が来ないと、趙累はそれが劉封と孟達が兵を留めて動かないためだとし、孤城を捨てて西川に駆け込み、改めて軍を整えて戻って来て取り戻そうと言う。関羽は「わしもそうしたい」と答える。 演義 第76回 §33–35演義 第77回 §4

関羽は周倉を残して王甫とともに麦城を守らせ、自ら関平・趙累とともに残った兵二百余人を率いて北門を突破して出る。朱然と潘璋の軍に相次いで追われて山道を逃げる途中、後ろから追ってきた関平が、趙累はすでに乱軍の中で死んだと告げる。 演義 第77回 §6–8

演義と異なる点

王甫の推挙:演義第73回で王甫は潘濬に代えて趙累に荊州を任せるよう推挙し、彼を忠誠で清廉かつ剛直であると言う。正史で趙累が登場する二つの条にはこのことはなく、彼は関羽とともに捕らえられた都督として名が見えるだけである。 演義 第73回 §46–47正史 呉書 巻2 §28正史 呉書 巻10 §92

関羽への進言:演義第76〜77回で趙累は、成都に救援を求めよう、呂蒙を責める書簡を送ろう、上庸の劉封・孟達に救援を求めよう、麦城を捨てて西川へ行こうと、たびたび進言する。陳寿の本文には趙累の言葉は一つも記されていない。 演義 第76回 §22 · 25 · 34演義 第77回 §4正史 呉書 巻2 §28正史 呉書 巻10 §92

最期:演義第77回で趙累は関羽とともに麦城を抜け出す途中、乱軍の中で死ぬ。正史の呉主伝と潘璋の記録では、潘璋の司馬馬忠が関羽・関平とともに都督趙累らを捕らえたと記しており、その後趙累がどうなったかは記されていない。 演義 第77回 §8正史 呉書 巻2 §28正史 呉書 巻10 §92

肩書:演義は彼を「軍前都督糧料官」「兵糧を管轄する都督」と呼び、兵糧を担当する人物として描く。正史は「都督趙累」と記すのみで、彼が担った職務は明らかにしていない。 演義 第73回 §46–47演義 第76回 §22正史 呉書 巻2 §28正史 呉書 巻10 §92

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率4542−3
  • 武力4038−2
  • 知力4058+18
  • 政治4555+10
  • 魅力4042+2
  • 徳5072+22
  • 処世3850+12
  • 文芸3535±0
  • 弁舌3545+10
  • 用人3540+5
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

徳正50推定演72 +22

正直接の記録なし — 最後まで関羽に従い、ともに捕らえられた呉書 巻2 §28呉書 巻10 §92

演王甫から忠誠で清廉かつ剛直な人物として推挙された第73回 §46

処世正38推定演50 +12

正直接の記録なし — 関羽とともに捕らえられた呉書 巻10 §92

演孤城を捨てて西川へ行き再起するよう勧めた第77回 §4

弁舌・外交正35推定演45推定 +10

正直接の記録なし — 事績から推定呉書 巻2 §28

演直接の記録なし — 呂蒙の約束破りを指摘した事績から推定第76回 §25

近い項目 5件 — 根拠を見る
  • 統率正45推定演42推定 −3

    正直接の記録なし — 関羽の都督であったことから推定呉書 巻2 §28

    演直接の記録なし — 関公とともに北門を突破した事績から推定第77回 §6

  • 武力正40推定演38推定 −2

    正直接の記録なし — 武官の都督であったことから推定呉書 巻10 §92

    演直接の記録なし — 乱軍の中で戦死した第77回 §8

  • 魅力正40推定演42推定 +2

    正直接の記録なし — 事績から推定呉書 巻2 §28

    演直接の記録なし — 事績から推定第73回 §46

  • 文芸・学術正35推定演35推定 ±0

    正直接の記録なし — 武官であったことから推定呉書 巻2 §28

    演直接の記録なし — 兵糧を管理する武官であったことから推定第73回 §46

  • 識人・用人正35推定演40推定 +5

    正直接の記録なし — 事績から推定呉書 巻2 §28

    演直接の記録なし — 事績から推定第76回 §34

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(3回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

関連事件(2)

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