正直接の記録なし — 智謀の士として知られた記録から推定魏書 巻10 §29
田豊 田豐
人物紹介
田豊は袁紹の謀主である。正史には独立した伝がなく、魏書巻6の袁紹伝に沮授と並んでその諫言が載っており、陳寿の本文は彼の字と出身地を記していない。袁紹が公孫瓚を破って許を攻めようとした時、荀諶・許攸とともに謀主となった。 正史 魏書 巻6 §44 · 49
建安5年(200)、曹操が東の劉備を討つ隙に曹操の背後を突くよう勧めたが、袁紹は子の病を口実に聞き入れなかった。袁紹が南に進む時、長期持久の策を懇ろに進言したが、刑具をかけられて投獄され、袁紹は官渡で敗れて帰ると彼を殺した。 正史 魏書 巻6 §50 · 55–57
陳寿は評で、項羽は范増の謀に背いて王業を失ったが、袁紹が田豊を殺したのはそれよりはるかに甚だしいと記した。演義には第7回に袁紹が冀州の政務を分担させる人物の一人として初めて登場し、全120回のうち7回に登場する。回目に名が見えることはないが、第31回で獄中で自ら命を絶つ。 正史 魏書 巻6 §97演義 第7回 §7演義 第31回 §5
正史の記録
陳寿の本文は田豊の字と出身地を記していない。袁紹は易京で公孫瓚を破ってその軍勢を併せたのち、長男袁譚に青州を、次男袁熙に幽州を、甥の高幹に并州を任せた。軍勢が数十万になると、審配・逢紀に軍事を統括させ、田豊・荀諶・許攸を謀主に、顔良・文醜を将帥として、精兵10万と騎馬1万を選んで許を攻めようとした。 正史 魏書 巻6 §49
荀彧伝によれば、孔融は荀彧に、袁紹は土地が広く兵が強く、田豊と許攸が智謀の士として彼のために謀っているので、勝つのは難しいのではないかと言った。荀彧は、袁紹の兵は多いが法が整っておらず、田豊は剛直で上に逆らい、許攸は貪欲で身を治められないと答えた。 正史 魏書 巻10 §29–30
これより先、曹操が徐州に送った劉備が刺史の車胄を殺して沛に駐屯すると、袁紹は騎兵を送って彼を助けた。建安5年(200)に曹操が自ら東の劉備を討つと、田豊は袁紹に曹操の背後を襲うよう勧めた。袁紹が子が病気であることを口実に許さないと、田豊は杖を振り上げて地面を打ち、「得がたい機会に遭いながら、幼子の病のためにその時を逸するとは、惜しいことだ」と言った。曹操は劉備を破り、劉備は袁紹のもとに逃げた。 正史 魏書 巻6 §50
袁紹が南に進む時、田豊は、曹公は用兵に巧みで変化が無窮であり、兵が少なくても軽んじてはならないとして、長く持久するに越したことはないと言った。袁紹は山河の堅固さに拠り四州の軍勢を擁しているのだから、外には英雄と結び、内には農業と戦備を整え、そののち精鋭を選んで奇兵に分け、隙に乗じて代わる代わる河南をかき乱せばよい。敵が右を救えば左を撃ち、左を救えば右を撃って、敵を奔走に疲れさせ、民が生業に安んじられないようにすれば、2年もたたずに座して勝てるというのであった。廟堂で勝利を定める策を捨てて一戦で成否を決しようとすれば、思いどおりにならなかった時に悔いても及ばないと述べた。 正史 魏書 巻6 §55–56
袁紹は従わなかった。田豊が懇ろに諫めると、袁紹は大いに怒り、衆の士気をくじくとして刑具をかけて投獄した。袁紹は官渡で曹操と長く対峙したが、烏巣に置いた淳于瓊らが曹操に撃破されると大いに崩れ、袁譚とともに単騎で黄河を渡って退いた。 正史 魏書 巻6 §56 · 53–54
袁紹の軍が敗れると、ある者が田豊に、あなたはきっと重んじられるだろうと言った。田豊は、軍が勝っていれば自分は必ず無事だったが、今軍が敗れたので死ぬだろうと答えた。袁紹は帰ると左右に「私は田豊の言葉を用いなかったので、やはり彼に笑われることになった」と言い、ついに彼を殺した。陳寿は、袁紹が外見は寛大で雅やかで度量があったが、内心は猜疑して害する心が多く、すべてこのようであったと記した。荀彧伝は、田豊が諫言して誅殺されたことは荀彧が見通したとおりであったと記す。 正史 魏書 巻6 §56–57正史 魏書 巻10 §32
陳寿は評で、袁紹と劉表はともに謀を好むが決断できず、人材がいても用いることができず、善言を聞いても受け入れられなかったと述べた。そのうえで、昔項羽は范増の謀に背いて王業を失ったが、袁紹が田豊を殺したのは項羽よりもはるかに甚だしいと付け加えた。 正史 魏書 巻6 §96–97
演義の描写
演義第7回で、袁紹は冀州に入り、田豊・沮授・許攸・逢紀に州の政務を分担させて韓馥の権力をすべて奪う。公孫瓚と戦う時、袁紹は田豊とともに、戟を持った兵数百人と弓兵数十騎だけを率いて見物に出たところ、趙雲に突撃される。田豊は慌てて空き壁の中に隠れるよう勧めるが、袁紹は兜を地面に投げつけ、大丈夫はただ戦って死ぬことを願うのみだと叫ぶ。 演義 第7回 §7 · 19–20
第22回で、鄭玄の手紙を受け取った袁紹が曹操を討つことを議すると、謀士の田豊は、毎年戦が起こって民は疲れ倉は空なので、再び大軍を起こしてはならないと言う。まず天子に戦勝を奏上し、黎陽に駐屯して船と武器を整え、精兵を辺境に分けて置けば、3年のうちに大事を定められるというのである。審配・沮授・郭図の意見が分かれると、袁紹は許攸・荀諶の言葉に従って兵を起こし、田豊・荀諶・許攸を謀士とする。 演義 第22回 §5–9
第24回で、劉備が遣わした孫乾はまず田豊に会い、袁紹に取り次いでくれるよう頼む。田豊は、曹操が劉備を討ちに東へ行って許昌が空なので、義兵で隙に乗じるよう勧めるが、袁紹は五人の息子のうち最も気に入っている末子が疥癬を患って命が危ういとして兵を出さない。田豊は杖で地面を打ち、幼子の病のために機会を逃したと嘆き、地団駄を踏んで出ていく。 演義 第24回 §14–16
第25回で、袁紹が春の暖かさを理由に許都へ進もうとすると、田豊は曹操の兵はまさに鋭いので、長く持久して隙を待つよう諫める。劉備が曹操を討たなければ大義を失うと言うと袁紹はその言葉に従い、田豊が重ねて諫めると大いに怒って斬ろうとする。劉備が懸命に止めたので、袁紹は彼を獄に入れる。 演義 第25回 §37–38
第30回で、袁紹が官渡へ出発する時、田豊は獄中から上書して、静かに守って天の時を待つよう諫める。逢紀が不吉な言葉だと讒言すると、袁紹は彼を斬ろうとするが、官僚たちが許しを請うたのでやめ、曹操を破った後で罪を正すと言う。同じ趣旨で諫めた沮授にも、袁紹は田豊とともに罪を正すと言って鎖でつないで閉じ込める。 演義 第30回 §1–3
第31回で、官渡で敗れた袁紹は、敗残兵たちが田豊の言葉を聞いていればこのような災いに遭わなかったのにと泣く声を聞き、彼に合わせる顔がないと悔やむ。しかし逢紀が、田豊は獄中で手を打って笑ったと讒言すると、袁紹は使者に宝剣を持たせて冀州の獄に送る。獄吏が別駕にお祝い申し上げますと言うと、田豊は、袁将軍は外見は寛大だが内心は猜疑心が強いので、生きることは望まないと答える。使者が着くと、彼は主君を見極めずに仕えたのは智がないことだと言い、獄中で自ら首をはねて死ぬ。 演義 第31回 §2–6
演義と異なる点
公孫瓚との戦い:演義第7回で田豊は袁紹とともに見物に出て、趙雲に追われると空き壁の中に隠れるよう勧める。正史の公孫瓚伝は、袁紹が広川に陣を敷き、麴義を先鋒に立てて公孫瓚の将厳綱を生け捕りにしたと記すだけで、この戦いに田豊は登場しない。 演義 第7回 §19–20正史 魏書 巻8 §12–13
出兵を止めた策:演義第22回で田豊は、まず天子に戦勝を奏上し、黎陽に駐屯して備えれば3年のうちに大事を定められると言う。正史で田豊の策は袁紹が南に進む時に進言したもので、精鋭を奇兵に分けて代わる代わる河南をかき乱し、敵を疲れさせれば2年もたたずに座して勝てるという内容である。 演義 第22回 §5–6正史 魏書 巻6 §55–56
子の病:演義第24回で袁紹は五人の息子のうち末子が疥癬を患っているとして兵を出さず、先に田豊を訪ねた孫乾がその場に同席する。正史の袁紹伝は、袁紹が子が病気であることを口実に許さなかったと記すだけで、どの子のどんな病かも、孫乾も登場しない。 演義 第24回 §14–16正史 魏書 巻6 §50
投獄の経緯:演義第25回では、袁紹が田豊を斬ろうとすると劉備が懸命に止め、獄に入れる。正史では、袁紹は彼が衆の士気をくじくとして刑具をかけて投獄しており、劉備が止めたという話はない。 演義 第25回 §38正史 魏書 巻6 §56
獄中の上書:演義第30回で田豊は獄中から上書して再び諫める。正史の袁紹伝には、投獄された後に再び諫めたことはない。 演義 第30回 §1正史 魏書 巻6 §55–57
殺されることになった理由:演義第31回では、逢紀が田豊は獄中で手を打って笑ったと讒言して袁紹が怒る。正史では、袁紹が帰って自ら「田豊の言葉を用いなかったので、やはり彼に笑われることになった」と言って彼を殺しており、逢紀の讒言は登場しない。 演義 第31回 §3正史 魏書 巻6 §56–57
死:演義第31回で田豊は、袁紹が遣わした使者が着くと獄中で自ら首をはねて死ぬ。正史の袁紹伝は袁紹がついに彼を殺したと記し、荀彧伝は諫言して誅殺されたと記す。 演義 第31回 §5正史 魏書 巻6 §57正史 魏書 巻10 §32
肩書き:演義第31回で獄吏は田豊を別駕と呼ぶ。陳寿の本文は彼の官職を記さず、袁紹が荀諶・許攸とともに彼を謀主としたと記すだけである。 演義 第31回 §4正史 魏書 巻6 §49
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率3533−2
- 武力3131±0
- 知力8888±0
- 政治5052+2
- 魅力4058+18
- 徳8085+5
- 処世2830+2
- 文芸4545±0
- 弁舌3842+4
- 用人4558+13
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
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正懇ろに諫めて投獄され、剛直で上に逆らうと評された魏書 巻6 §56魏書 巻10 §30
正上に逆らうと評され、敗戦後に死を悟りながらも避けられなかった魏書 巻10 §30魏書 巻6 §56
正直接の記録なし — 智謀の士という評から推定魏書 巻10 §29
演直接の記録なし — 文を弄ぶだけだという袁紹の叱責から推定第25回 §38
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。