演義の場面

戦官渡本初敗績 戰官渡本初敗績

事件紹介

「戦官渡本初敗績」は、演義第30回の回目「戦官渡本初敗績 劫烏巣孟徳焼糧」の前半の場面で、70万の大軍で官渡に迫った袁紹が土山と地下道で曹操を追い詰めながらも、烏巣を失ったのち大崩れとなり、黄河を渡って逃げる話である。官渡の戦いを描いた場面であり、中ほどの烏巣襲撃は「劫烏巣孟徳焼糧」の場面が受け持つ。 演義 第30回 §1–15 · 51–55

陳寿の本文にも同じ戦いがある。魏書巻1の武帝紀と巻6の袁紹伝は、建安5年(200)に袁紹が官渡で曹操と対峙し、烏巣の淳于瓊を失って軍が大崩れとなり、黄河を渡って逃げたと記す。 正史 魏書 巻1 §64 · 70正史 魏書 巻6 §52–54

演義の描写

第30回で袁紹は、獄中から上書した田豊を斬ろうとして官僚たちに止められて思いとどまり、じっくり守るべきだと説く沮授を鎖で縛って軍中に閉じ込めたのち、70万の大軍で四方90余里に陣営を張る。7万の兵で迎え撃った曹操は、最初の戦いで審配が伏せた弩と弓に大敗し、官渡へ退く。 演義 第30回 §1–8

袁紹は曹操の陣営の前に土山50余りを築き、櫓から矢を射させるが、曹操は劉曄の言に従って発石車数百台を造ってこれを壊し、袁紹の兵はその車を霹靂車と呼ぶ。審配が掘子軍に地下道を掘らせると、劉曄は陣営を巡る長い塹壕で防がせる。8月から9月末まで持ちこたえて兵糧が尽きかけると、曹操は退くべきかを荀彧に尋ね、今こそ奇策を用いる時だという返書を受けて死守させる。 演義 第30回 §8–15

烏巣を失い、張郃・高覧までもが降伏すると、曹操は荀攸の計で鄴郡と黎陽を攻めるという噂を広め、袁紹に袁譚と辛明へ5万ずつ分けて送らせ、その隙に八手に分かれて袁紹の陣営に攻め込む。袁紹は鎧も着けられない単衣姿で幼い息子袁尚と8百余騎だけを連れて河を渡り、死者は8万余人に及ぶ。曹操は許都と軍中の人々が袁紹とひそかに内通した手紙をすべて焼き、捕らえられた沮授は馬を盗んで帰ろうとして殺される。 演義 第30回 §51–58

演義と異なる点

軍勢:演義第30回で袁紹は70万の大軍、曹操は7万で迎え撃つ。正史の袁紹伝は、袁紹が精兵10万と騎兵1万を選び出したとし、武帝紀は、この時曹操の兵は1万に満たなかったと記す。 演義 第30回 §1 · 3正史 魏書 巻6 §49正史 魏書 巻1 §64

発石車と塹壕:演義第30回では劉曄が発石車と長い塹壕を進言する。正史の袁紹伝は、曹操が発石車を造って袁紹の櫓を壊し、内側に長い塹壕を掘って地下道を防いだと記すが、誰の計かは記さない。 演義 第30回 §11–13正史 魏書 巻6 §52

袁紹の敗走:演義第30回で袁紹は幼い息子袁尚と8百余騎で河を渡り、8万余人が死ぬ。正史の武帝紀は袁紹と袁譚が軍を捨てて黄河を渡ったとし、袁紹伝は残った兵が偽って降伏したのでみな生き埋めにしたと記すが、その数は明らかにしない。 演義 第30回 §54–55正史 魏書 巻1 §70正史 魏書 巻6 §54

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

演義の登場回 (1)

正史の登場巻 (2)