車胄
人物紹介
車胄は後漢末の徐州刺史である。正史には独立した伝がなく、先主伝・関羽伝・武帝紀などに、劉備が彼を殺した件でのみ名が見える。陳寿の本文は彼の字・出身・生年を記さない。 正史 蜀書 巻2 §16正史 蜀書 巻6 §3正史 魏書 巻1 §56
劉備は袁術を遮るため徐州へ出たが、袁術が病死すると下邳に至って徐州刺史車胄を殺し、兵を挙げて曹操に背いた。武帝紀はこの件を建安4年(199)の記事の末尾に記している。 正史 魏書 巻1 §54 · 56正史 魏書 巻14 §57
演義では第20回、呂布を平定して帰る曹操が車騎将軍車胄に徐州を仮に任せる場面で初めて登場し、全120回のうち3回に登場する。第21回の回目「関公 城を賺りて車胄を斬る」に名が入り、その回で関羽の刀にかかって死ぬ。 演義 第20回 §3演義 第21回 §44–47
正史の記録
武帝紀によれば、袁術は陳で敗れてから次第に困窮し、袁譚が青州から人を遣わして彼を迎えさせた。袁術が下邳を経て北へ抜けようとすると、曹操は劉備と朱霊を遣わして遮らせたが、ちょうど袁術が病死した。程昱と郭嘉が劉備を放ってはならないと言うと、曹操は後悔して追わせたが、追いつけなかった。 正史 魏書 巻1 §56
劉備は東へ向かう前にひそかに董承らと謀反を企てており、下邳に至るとついに徐州刺史車胄を殺し、兵を挙げて沛に駐屯した。武帝紀はこの件を建安4年(199)の記事の末尾、翌5年正月に董承らが処刑された記事の前に記している。 正史 魏書 巻1 §54 · 56 · 58
先主伝は、先主が下邳を占拠し、朱霊らが帰るとすぐに徐州刺史車胄を殺したのち、関羽を残して下邳を守らせ、自らは小沛に戻ったと記す。関羽伝も、先主が徐州刺史車胄を襲殺したのち、関羽に下邳城を守らせて太守の職務を代行させたと記している。 正史 蜀書 巻2 §16正史 蜀書 巻6 §3
程昱伝によれば、程昱と郭嘉は劉備に兵を貸せば必ず異心を抱くと言い、ちょうど袁術が病死すると、劉備は徐州に至ってついに車胄を殺し、兵を挙げて曹操に背いた。董昭伝では、董昭が劉備は勇猛で志が大きく、関羽と張飛がその羽翼となっていると憂えたが、曹操はすでに許したと答え、劉備は下邳に至って徐州刺史車胄を殺して背いた。曹操は自ら劉備を討ち、董昭を徐州牧に転じた。 正史 魏書 巻14 §15–16 · 57
袁紹伝によれば、劉備が刺史車胄を殺して沛に駐屯すると、袁紹は騎兵を送って彼を助けた。曹操が遣わした劉岱と王忠は勝てず、建安5年(200)に曹操が自ら東へ来て劉備を撃破すると、劉備は袁紹のもとへ逃れた。 正史 魏書 巻6 §50
陳寿の本文は、車胄がいつ・どのように徐州刺史となったのか、それ以前に何をしていたのかを記していない。彼の名はすべて、劉備が彼を殺した件を記す箇所にのみ見える。 正史 蜀書 巻2 §16正史 蜀書 巻6 §3正史 魏書 巻1 §56正史 魏書 巻6 §50正史 魏書 巻14 §16 · 57
演義の描写
演義第20回で、曹操は呂布を平定して帰る途中、徐州の民が香を焚いて劉備を州牧として留めてほしいと願うと、天子に拝謁して爵位を受けてから戻っても遅くはないと答える。そして車騎将軍車胄を呼び、徐州を仮に任せる。 演義 第20回 §3
第21回で、劉備の軍が徐州に至ると、刺史車胄が出迎える。袁術の死後、劉備が朱霊と路昭を許都に帰して軍馬を留めると、荀彧は車胄に書簡を送って内から劉備を図らせようと言い、曹操はひそかに人を遣わして車胄に命を伝える。車胄が陳登を招いて相談すると、陳登は甕城のそばに兵を伏せて出迎えるふりをし、一刀のもとに斬るよう勧め、自分は城上から後続の兵を矢で防ぐと言う。 演義 第21回 §33 · 41–43
陳登は父の陳珪にこのことを残らず話し、陳珪の命で駆けつけて関羽と張飛に知らせる。関羽の計どおり、関羽と張飛の兵は曹操の兵に扮し、夜の三更に城下に至って、曹丞相が遣わした張文遠の人馬だと名乗って門を開けよと叫ぶ。車胄は、迎えなければ疑われ、出れば謀があるのではと恐れ、夜が明けてから会おうと言うが、城外から一斉に門を開けよと叫ばれ、やむなく兵千人を率いて城を出る。 演義 第21回 §43–46
火の光の中で関羽が刀を手に突きかかると、車胄は数合も戦えずに逃げ、吊り橋のそばで陳登が城上から矢を乱射したため、城を回って逃げる。追いついた関羽が刀を一振りすると車胄は馬から落ち、関羽はその首を斬って掲げ、城上に向かって反賊車胄を殺したと叫んで兵の降伏を受け入れる。 演義 第21回 §46–47
劉備は曹操が攻めてきたらどうするのかと大いに驚き、徐州に入ると、張飛はすでに車胄の一家を皆殺しにしていた。第22回で劉備は、捕らえた曹操の将たちに、先に車胄が自分を害そうとしたのでやむなく殺したまでだと弁明する。 演義 第21回 §47–48演義 第22回 §47
演義と異なる点
徐州を任された経緯:演義第20回では、呂布を平定して帰る曹操が車騎将軍車胄に徐州を仮に任せる。正史は彼を徐州刺史と呼ぶだけで、いつ・どのように刺史となったかを記さない。正史の先主伝でこのころ車騎将軍として登場するのは、献帝の舅董承である。 演義 第20回 §3正史 蜀書 巻2 §15–16正史 魏書 巻1 §56
殺された理由:演義第21回では、曹操の命を受けた車胄が陳登とともに劉備を殺そうとして、逆に殺される。正史では、劉備は東へ向かう前にすでに董承らとひそかに謀反を企てており、下邳に至って車胄を殺し、兵を挙げて曹操に背いた。車胄が劉備を害そうとしたという記述はない。 演義 第21回 §42–43正史 魏書 巻1 §56正史 魏書 巻14 §57
殺した人物:演義では、関羽が曹操の兵に扮して車胄を城外へ誘い出し、斬る。正史の先主伝と関羽伝は先主が車胄を殺した(関羽伝は「襲殺した」)と記すのみで、関羽はその後下邳を守って太守の職務を代行した。 演義 第21回 §44–47正史 蜀書 巻2 §16正史 蜀書 巻6 §3
陳登:演義では、陳登が車胄と計を練るふりをして劉備方に知らせ、城上から矢を射て車胄が城へ戻れないようにする。正史で車胄の死を記す六つの箇所には、陳登は登場しない。 演義 第21回 §43 · 46正史 蜀書 巻2 §16正史 蜀書 巻6 §3正史 魏書 巻1 §56正史 魏書 巻6 §50正史 魏書 巻14 §16 · 57
死んだ場所:演義では徐州の城外で死に、劉備はその後徐州に入る。正史の武帝紀と董昭伝は、劉備が下邳に至って車胄を殺したと記す。 演義 第21回 §46–48正史 魏書 巻1 §56正史 魏書 巻14 §57
家族:演義第21回では、張飛が車胄の一家を皆殺しにする。正史には車胄の家族に関する記録がない。 演義 第21回 §48正史 蜀書 巻2 §16正史 蜀書 巻6 §3正史 魏書 巻1 §56正史 魏書 巻6 §50正史 魏書 巻14 §16 · 57
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率4035−5
- 武力3535±0
- 知力3525−10
- 政治4240−2
- 魅力3838±0
- 徳4540−5
- 処世3820−18
- 文芸3531−4
- 弁舌3533−2
- 用人3525−10
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
近い項目 7件 — 根拠を見る
正直接の記録なし — 徐州刺史の官職から推定魏書 巻14 §57
演直接の記録なし — 徐州を仮に任された職務から推定第20回 §3
正直接の記録なし魏書 巻14 §57
演直接の記録なし第21回 §45
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。