劉岱
人物紹介
劉岱は曹操が徐州の劉備を討たせるために送った将である。正史には独立した伝がなく、魏書巻1武帝紀、巻6董二袁劉伝の袁紹の条、蜀書巻2先主伝に、同じ出来事で一度ずつ名が見える。建安4年(199)、劉備が徐州刺史車胄を殺して沛に駐屯すると、曹操は劉岱と王忠を遣わして彼を討たせたが、勝てなかった。 正史 魏書 巻1 §51 · 55–56正史 魏書 巻6 §50正史 蜀書 巻2 §16
陳寿の本文は彼の字と出身、そのほかの事績と死を記しておらず、彼に対する評もない。陳寿の本文に見える兗州刺史劉岱は、初平3年(192)にすでに黄巾賊と戦って殺された人物である。演義第22回で曹操が王忠とともに徐州へ送る劉岱は、かつて兗州刺史であったが曹操に降伏した人物として描かれる。 正史 魏書 巻1 §56 · 20 · 22–23演義 第22回 §31
正史の記録
武帝紀は建安4年(199)のこととして次のように記す。陳で敗れてからしだいに困窮した袁術を、袁譚が青州から人を遣わして迎えさせたが、袁術が下邳を経て北へ通り抜けようとすると、曹操は劉備と朱霊を遣わしてさえぎらせ、ちょうどそのとき袁術が病死した。程昱と郭嘉が劉備を放してはならないと言うと、曹操は後悔して追わせたが、追いつけなかった。劉備は下邳に至って徐州刺史車胄を殺し、兵を挙げて沛に駐屯し、曹操は劉岱と王忠を遣わして彼を討たせたが、勝てなかった。 正史 魏書 巻1 §51 · 55–56
先主伝によれば、劉備は下邳を手に入れ、朱霊らが帰ると徐州刺史車胄を殺した後、関羽を残して下邳を守らせ、自らは小沛に戻った。東海の昌霸が反乱を起こすと、郡県のうち曹操に背いて劉備側についたところが多く、軍勢は数万人に達し、劉備は孫乾を遣わして袁紹と手を結んだ。曹操は劉岱と王忠を遣わして彼を討たせたが、勝てなかった。 正史 蜀書 巻2 §16
袁紹の条も、袁術が死んだ後、劉備が刺史車胄を殺して沛に駐屯すると袁紹が騎兵を遣わして彼を助け、曹操が劉岱と王忠を遣わして討たせたが勝てなかったと記す。続いて建安5年(200)、曹操が自ら東へ劉備を討つと、田豊が袁紹にその背後を襲うよう説いたが、袁紹は子が病気であることを口実に許さなかった。 正史 魏書 巻6 §50
建安5年(200)春正月、董承らの謀議が漏れてみな処刑され、曹操は自ら東へ向かって劉備を撃破した。先主伝は、劉備が大敗し、曹操がその軍勢をすべて収め、劉備の妻子を捕らえ、関羽まで捕らえて帰ったと記す。 正史 魏書 巻1 §58正史 蜀書 巻2 §16
陳寿の本文でこの劉岱が登場する三つの条はいずれも、王忠とともに劉備を討ったが勝てなかったという一行だけであり、彼の字と出身、官職、死は記されていない。陳寿の本文には同名の兗州刺史劉岱も登場するが、彼は初平3年(192)、青州の黄巾賊が兗州に入ってくると、鮑信の制止を聞かずに戦って殺された。 正史 魏書 巻1 §56 · 20 · 22–23正史 魏書 巻6 §50正史 蜀書 巻2 §16
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。
- 統率35
- 武力40
- 知力36
- 政治33
- 魅力36
- 徳40
- 処世38
- 文芸31
- 弁舌33
- 用人33
項目別の根拠
正直接の記録なし — 将であったことから推定魏書 巻1 §56
正直接の記録なし — 将であったことから推定魏書 巻1 §56
正直接の記録なし — 将であったことから推定魏書 巻1 §56
正直接の記録なし — 将であったことから推定魏書 巻1 §56
正直接の記録なし — 将であったことから推定魏書 巻1 §56
正直接の記録なし — 将であったことから推定魏書 巻1 §56
正直接の記録なし — 将であったことから推定魏書 巻1 §56
正直接の記録なし — 将であったことから推定魏書 巻1 §56
正直接の記録なし — 将であったことから推定魏書 巻1 §56
正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。
所属の変遷
- 魏 · 正史 · 「曹公遣劉岱、王忠擊之」 「岱字公山,沛國人。以司空長史從征伐有功,封列侯」