鄧芝
人物紹介
鄧芝は字を伯苗といい、義陽郡新野県の人で、漢の司徒鄧禹の子孫である。漢末に蜀に入り、劉備が益州を平定したのち郫県令・広漢太守を経て朝廷に入り尚書となった。 正史 蜀書 巻15 §2
劉備の死後、諸葛亮の命で呉に使者として赴き、孫権に魏との関係を断たせて蜀と和親させた。のちに江州を督して車騎将軍に昇り、延熙14年(251)に死去した。 正史 蜀書 巻15 §3–8
陳寿は評で彼を「堅貞にして簡亮、官に臨んでは家を忘れた」と記した。演義では第65回に劉備が抜擢した降伏した文武の官のなかに名が初めて見え、全120回のうち9回に登場するが、名が回目に入った回はない。第85〜86回で諸葛亮に呉との和親を説き、使者として赴いて孫権を説得する。 正史 蜀書 巻15 §85演義 第65回 §46演義 第85回 §48–51演義 第86回 §10–12
正史の記録
漢末に蜀に入ったが、彼を知って待遇する者はいなかった。人相見に長じた益州従事の張裕を訪ねて従うと、張裕は彼が七十を過ぎるまで生き、位は大将軍に至り、侯に封じられるだろうと言った。鄧芝は巴西太守の龐羲が士を好むと聞き、彼のもとに身を寄せた。劉備が益州を平定すると郫の邸閣督となったが、郫に出てきた劉備が彼と語り、大いに非凡と認めて郫県令に抜擢し、広漢太守に移した。赴任した先々で清廉かつ厳格に治めて治績があったので、朝廷に入って尚書となった。 正史 蜀書 巻15 §2
劉備が永安で死去した。それより前、孫権が和親を求めると劉備はたびたび宋瑋・費禕らを送って返礼していたが、丞相諸葛亮は、孫権が劉備の死を聞いて別の計を抱くのではないかと深く憂えた。鄧芝は諸葛亮に会い、主上は幼弱で即位したばかりであるから、大使を送って呉との友好を改めて固めるべきだと言った。諸葛亮は、長く考えていたがふさわしい人物を得られずにいたところ、今日ようやく得たと言い、その人こそ鄧芝であると答えた。後主伝は、建興元年(223)に尚書鄧芝を送って呉との友好を固めたと記す。 正史 蜀書 巻15 §3–4正史 蜀書 巻3 §4
孫権は案の定疑って、すぐには鄧芝に会わなかった。鄧芝が自ら上表し、今回来たのは蜀のためだけでなく呉のためでもあると言って謁見を求めると、孫権は、蜀は君主が幼弱で国が小さく、魏に乗じられれば自らを保てないのではないかと案じてためらっているのだと言った。鄧芝は、蜀には幾重もの険阻があり、呉には三江の阻みがあるから、両国が唇と歯のように頼り合えば、進んでは天下を併せ、退いては鼎の足のように並び立つことができると答えた。さらに、呉が魏に身を委ねれば、魏は孫権の入朝と太子の入侍を求めるだろうし、従わなければ反逆を討つと称して攻めてくるだろう、蜀もまた流れに乗って下ってくるので、江南の地はもはや孫権のものではなくなる、と言った。 正史 蜀書 巻15 §4–5
孫権はしばらく黙っていたが、その言葉は正しいと言い、ついに魏と関係を断ち、蜀と連合して和親した。呉主伝は、黄武2年(223)冬11月に蜀の中郎将鄧芝が来聘し、翌年夏に張温を蜀に送ったと記す。このとき鄧芝は諸葛亮の言いつけどおり、呉にいた張裔を返してほしいと孫権に願い、孫権はこれを聞き入れた。 正史 蜀書 巻15 §6正史 呉書 巻2 §50–51正史 蜀書 巻11 §23
蜀が再び鄧芝を送ると、孫権は、天下が太平になって二人の君主が分けて治めれば楽しいことではないかと問うた。鄧芝は、天に二つの太陽はなく、地に二人の王はいない、魏を併せたのちも孫権が天命を深く悟らないのであれば、君主はそれぞれ徳を励み、臣下はそれぞれ忠を尽くし、将たちは陣太鼓を鳴らすことになるから、そのときこそ戦争がようやく始まるだけだ、と答えた。孫権は大笑いしてその誠実さを称え、諸葛亮に送った書簡に「丁厷は言葉を誇張し、陰化は言うべきことを尽くさなかったが、両国を和合させたのはただ鄧芝のみ」と書いた。 正史 蜀書 巻15 §6–7
諸葛亮が北に進んで漢中に駐留すると、鄧芝は中監軍・揚武将軍となった。建興6年(228)春、諸葛亮は斜谷道を経て郿県を取ると言いふらし、趙雲と鄧芝を疑軍として箕谷に拠らせた。魏の大将軍曹真が全軍を挙げて防ぐと、趙雲と鄧芝は兵が弱く敵が強かったため箕谷で不利となったが、兵を収めて固く守り、大敗には至らなかった。諸葛亮は帰還後の上疏で、街亭で命に背いた過ちとともに「箕谷で備えを怠った失敗」を挙げ、その咎を自らに帰した。 正史 蜀書 巻15 §7正史 蜀書 巻5 §32–33正史 蜀書 巻6 §41
諸葛亮が死ぬと、鄧芝は前軍師・前将軍に移り、兗州刺史を兼ね、陽武亭侯に封じられ、まもなく江州を督した。孫権はたびたび彼と便りを交わし、手厚く贈り物をした。王平伝は、延熙7年(244)に魏の大将軍曹爽が漢中に攻め込んだとき、「鄧芝は東に、馬忠は南に、王平は北の国境にいて、いずれも名高い功績を立てた」と記す。 正史 蜀書 巻15 §7正史 蜀書 巻13 §39–40
延熙6年(243)、鄧芝はその任地で車騎将軍に昇り、のちに仮節を受けた。延熙11年(248)に涪陵国の人々が都尉を殺して反乱を起こすと、軍を率いて討伐に赴き、すぐさま首領を斬って晒し、民は安堵した。後主伝はこの件を、その年の秋に涪陵属国の民と夷が反乱し、車騎将軍鄧芝が赴いてことごとく撃破・平定したと記す。鄧芝は延熙14年(251)に死去した。 正史 蜀書 巻15 §8正史 蜀書 巻3 §28
延熙10年(247)、江州から朝見に来た鄧芝が、屯騎校尉になったばかりの宗預に、六十になれば軍務に就かないのが礼であるのに、今になって兵権を受けるのかと問うと、宗預は「あなたは七十なのに兵権を返さないのに、私が六十でどうして受けてはいけないのか」と切り返した。陳寿は、鄧芝は驕慢な性格で、大将軍費禕以下みな彼を避けてへりくだったが、宗預だけは屈しなかったと記している。 正史 蜀書 巻15 §20
鄧芝は将軍として二十年余りを過ごし、賞罰は明確で決断力があり、兵卒をよくいたわった。衣食は官から支給されるものに頼り、ことさらに倹約を装いはしなかったが、最後まで私財を増やさなかったので、妻子は飢えと寒さを免れず、死んだ日には家に余財がなかった。性格は剛直で簡素、意気を飾らなかったので士大夫とうまく交われず、当時の人で彼を敬い重んじる者は少なかったが、ただ姜維だけは並外れた器と認めていた。子の鄧良が爵位を継ぎ、景耀年間に尚書左選郎となり、晋の朝廷で広漢太守を務めた。 正史 蜀書 巻15 §9
陳寿は評で、鄧芝は堅貞にして簡亮であり、官に臨んでは家を忘れたと述べた。 正史 蜀書 巻15 §85
演義の描写
演義第65回で、劉備が益州牧となったのち抜擢した降伏した文武の官六十余人のなかに名が見える。第85回では、諸葛亮が後主劉禅を丞相府の外へ見送るとき、官員のなかに天を仰いで笑う者がいたので見ると、義陽新野の人で今は戸部尚書の鄧芝であったと描く。諸葛亮がどの国を先に討つべきかと問うと、鄧芝は、魏は勢力が大きいのでゆっくり図り、今は東呉と唇歯の関係を結ぶべきだと答え、諸葛亮は今日ようやくその人を得たと言って彼を呉に送る。 演義 第65回 §46演義 第85回 §48–51
第86回で張昭は鄧芝を説客とみて、殿前に大きな鼎を立てて油を煮立たせ、背が高く顔の大きい武士一千人を並べたうえで、酈食其の故事を引いて責めてみるよう勧める。鄧芝は恐れる色もなく入って長揖するだけで拝礼せず、「上国の天使は小国の主に拝さない」と言い、油の鼎に入れと言う孫権に、東呉には賢者が多いと聞いていたが、一人の儒生を恐れるとは誰が思っただろうかと大笑いする。 演義 第86回 §5–8
孫権が武士を退けて席を与えると、鄧芝は呉と蜀が唇と歯のように手を結ぶべき利害を説き、自分の言葉が正しくないなら大王の前で死んで説客の名を絶とうと言って、油の鼎に飛び込もうとする。孫権は慌てて止め、蜀と手を結ぶことにして、張温を鄧芝とともに蜀に送る。蜀で張温が秦宓に言い負かされたのち、諸葛亮は鄧芝を再び張温とともに呉に送る。 演義 第86回 §10–14 · 23–24
再び呉に赴いた鄧芝に、孫権が二人の君主が分けて治めれば楽しいことではないかと問うと、鄧芝は、天に二つの太陽はなく民に二人の王はいない、魏を滅ぼしたのち天命が誰に帰するかはわからないが、君主はそれぞれ徳を修め、臣下はそれぞれ忠を尽くせば、そのときようやく戦争はやむだろうと答える。孫権は大笑いして彼を手厚くもてなして帰し、演義はこれより呉と蜀が友好を通じたという。 演義 第86回 §25
第91回の出師の名簿で鄧芝は中監軍・揚武将軍として名が挙がり、老いた趙雲が先鋒に固執すると、老将軍を助けると申し出て、ともに前部先鋒となる。第92回では趙雲が韓徳の四人の息子を斬ると軍を駆って西涼の軍を破り、夏侯楙が再び出てくると計略があるだろうと備えを勧めるが、包囲された趙雲を兵が少なくて救い出せない。南安城にこもった夏侯楙については、魏の駙馬であるから、捕らえれば将百人を斬るよりまさると言う。 演義 第91回 §41 · 44–46演義 第92回 §11 · 15–17 · 26
第95回で諸葛亮は趙雲と鄧芝を箕谷に送って疑兵とする。軍を返せとの命が来ると、趙雲は後方に伏兵となり、鄧芝は趙雲の旗を掲げてゆっくり退き、第96回で二人は一人の兵も一頭の馬も失わずに漢中に戻る。 演義 第95回 §12–13 · 53演義 第96回 §3–4
第100回では参謀として、箕谷の魏延・陳式らに、伏兵に用心して軽々しく進むなという諸葛亮の命を伝える。陳式は繰り返し止める鄧芝に耳を貸さずに出て大敗し、鄧芝は戻って二人の無礼を報告したのち、再び行って陳式をなだめる。第105回で孫権は呉に来た宗預に「卿は鄧芝に劣らない」と言う。 演義 第100回 §9–12 · 14–15演義 第105回 §30
演義と異なる点
初めて紹介されるときの官職:演義第85回では「今は戸部尚書」と紹介され、漢の司馬鄧禹の子孫だという。正史では広漢太守から朝廷に入って尚書となり、漢の司徒鄧禹の子孫と記す。 演義 第85回 §48正史 蜀書 巻15 §2
使者に選ばれた経緯:演義第85回では、諸葛亮が天を仰いで笑う鄧芝に目を留めて引き留めておき、どの国を先に討つべきかを問う。正史では、鄧芝のほうから先に諸葛亮に会い、大使を送って呉との友好を固めるべきだと述べた。 演義 第85回 §48–50正史 蜀書 巻15 §3
孫権に会った場面:演義第86回では張昭の計で油の鼎と武士一千人を並べ、鄧芝は話し終えると鼎に飛び込もうとする。正史では、疑った孫権がすぐに会わなかったので鄧芝が自ら上表して謁見を求め、孫権はしばらく黙っていたのちその言葉は正しいと言った。油の鼎の話は正史の鄧芝伝にない。 演義 第86回 §5–7 · 11正史 蜀書 巻15 §1–9
「二つの太陽」問答の結び:演義第86回の鄧芝は、君臣がそれぞれ徳と忠を尽くせば「そのときようやく戦争はやむだろう」と答える。正史の鄧芝は、魏を併せたのちは君臣がそれぞれ徳と忠を尽くして陣太鼓を鳴らすことになるので「そのときこそ戦争がようやく始まるだけだ」と答えた。 演義 第86回 §25正史 蜀書 巻15 §6
最初の北伐の先鋒:演義第91〜92回で鄧芝は趙雲とともに前部先鋒となり、韓徳・夏侯楙と戦う。正史で趙雲と鄧芝は建興6年(228)に箕谷に拠った疑軍であり、鄧芝伝に夏侯楙と戦ったことはない。 演義 第91回 §46演義 第92回 §11正史 蜀書 巻5 §32正史 蜀書 巻15 §1–9
箕谷の結果:演義第96回では趙雲と鄧芝が一人の兵も一頭の馬も失わずに戻る。正史では兵が弱く敵が強かったため箕谷で不利となったが大敗には至らず、軍が退いたのち趙雲は鎮軍将軍に降格され、諸葛亮は上疏で「箕谷で備えを怠った失敗」を挙げた。 演義 第96回 §3–4正史 蜀書 巻6 §41正史 蜀書 巻5 §33
陳式を止めたこと:演義第100回で鄧芝は参謀として箕谷の魏延・陳式に諸葛亮の命を伝え、陳式をなだめる。正史の鄧芝伝にはこのことはない。 演義 第100回 §9–15正史 蜀書 巻15 §1–9
宗預との比較:演義第105回で孫権は宗預に「卿は鄧芝に劣らない」と言う。正史の宗預伝では、孫権は宗預の屈しない剛直さをよしとして大いに愛したが、彼が受けた敬意は鄧芝・費禕に次ぐものだったと記す。 演義 第105回 §30正史 蜀書 巻15 §19
のちの経歴:演義で鄧芝が直接登場するのは第100回までで、車騎将軍への昇進、江州の督、涪陵の反乱平定、死は描かれない。正史では江州を督し、延熙6年(243)に車騎将軍に昇り、延熙11年(248)に涪陵の反乱を平定し、延熙14年(251)に死去した。 演義 第100回 §14–15正史 蜀書 巻15 §7–8
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率6858−10
- 武力3535±0
- 知力7274+2
- 政治6650−16
- 魅力4545±0
- 徳8872−16
- 処世5070+20
- 文芸4040±0
- 弁舌9093+3
- 用人5545−10
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
正評:堅貞で官に臨んで家を忘れ、死んだ日に財がなかった蜀書 巻15 §85蜀書 巻15 §9
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正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。