正東興で身軽に堤を登って魏兵を斬った先鋒に加わった呉書 巻19 §29
演王基と戦い、三合もたずに大敗して逃げた第111回 §36
唐咨は利城の人である。黄初年間に利城郡が反乱して太守の徐箕を殺し、彼を首領に推したが、曹丕が送った軍に破られると海に逃れ、のちに呉へ亡命した。呉で官は左将軍に至り、侯に封じられ、持節となった。 正史 魏書 巻28 §46
甘露2年(257)に魏の諸葛誕が寿春で反乱すると、文欽らとともに救援に赴いて城内に入り、翌年城が陥落したとき後ろ手に縛って降伏した。魏は彼を安遠将軍とした。正史は彼の死んだ年を記さない。 正史 魏書 巻28 §35–36 · 42 · 46
陳寿は、諸葛誕・文欽が死に唐咨も捕らえられると「三人の反逆者がすべて捕らえられ、天下が快哉を叫んだ」と記した。演義では第108回の東興の戦いで諸葛恪が送る将として初めて登場し、全120回のうち5回に登場するが、名が回目に入った回はない。第112回で孫綝を恐れて呉に帰れず、魏に降伏する人物として描かれる。 正史 魏書 巻28 §46演義 第108回 §11演義 第112回 §22
唐咨はもともと利城の人である。黄初年間に利城郡が反乱して太守の徐箕を殺し、唐咨を首領に推した。曹丕が諸軍を送って討ち破ると、唐咨は海に逃れ、ついに呉へ亡命した。 正史 魏書 巻28 §46
嘉禾4年(235)に廬陵・会稽・南海で賊がいっせいに起こると、孫権は呂岱に唐咨らを率いさせて手分けして討たせ、首領の李桓・羅厲らはみな斬られるか捕らえられた。呉主伝は、嘉禾5年(236)2月に将軍唐咨が羅厲らを捕らえたと記す。 正史 呉書 巻15 §39正史 呉書 巻2 §80
赤烏2年(239)冬、都督の廖式が臨賀太守の厳綱らを殺し、自ら平南将軍と称して零陵・桂陽を攻め、交州の蒼梧・鬱林などを揺るがした。孫権は将軍の呂岱と唐咨を送って討たせ、一年余りでことごとく破った。呂岱伝は、孫権が唐咨ら諸将を次々に送り、一年かけて攻めて廖式を斬ったと記す。 正史 呉書 巻2 §93正史 呉書 巻15 §41
吾粲と唐咨は、豫章・臨川を荒らしていた賊の首領董嗣を兵三千で攻めたが、数か月たっても落とせなかった。周魴が上表して兵を引かせ、間者を使って董嗣を誘い出して殺した。 正史 呉書 巻15 §73–74
建興元年(252)、諸葛恪が東興に大堤を築き直すと、魏の胡遵らが攻めてきた。諸葛恪は兵四万を起こして昼夜兼行で救援に向かい、留賛・呂拠・唐咨・丁奉を前部とした。丁奉伝は、丁奉が唐咨・呂拠・留賛らとともに山の西側に登ったと記す。 正史 呉書 巻19 §28–29正史 呉書 巻10 §99
太平元年(256)、孫峻は文欽の計に従って魏を攻めようとし、8月に文欽・呂拠・朱異と前将軍唐咨らを先に江都から淮水・泗水の方面へ入らせた。9月に孫峻が死んで従弟の孫綝が代わると、呂拠・文欽・唐咨らは滕胤を丞相に推薦したが、孫綝は聞き入れなかった。呂拠が軍を返して孫綝を討とうとすると、孫綝は詔書で文欽・唐咨らに呂拠を捕らえさせた。 正史 呉書 巻3 §12–13正史 呉書 巻19 §76 · 80
甘露2年(257)5月、魏の諸葛誕が反乱し、子の諸葛靚を呉に送って救援を求めると、呉は6月に文欽・唐咨・全端らに歩兵・騎兵三万を率いて救援に行かせた。鎮南将軍の王基が到着したばかりで寿春を包囲したが、包囲はまだ閉じていなかったので、唐咨と文欽らは城の東北から山に沿い険しい地形を利用して、兵を率いて城内に突入した。 正史 魏書 巻28 §35–36正史 呉書 巻3 §16
司馬昭は二十六万の軍で寿春を内外二重に包囲した。呉の朱異が救援に来たが繰り返し敗れ、全懌らは司馬昭の反間の計にかかって数千人を率い城門を開いて出ていった。甘露3年(258)正月、諸葛誕・文欽・唐咨らは攻城具を大いに作り、昼夜五、六日にわたって南の包囲陣を攻めたが、包囲陣の兵が発石車と火矢で攻城具を焼き、弩の矢と石を雨のように浴びせたので、城内に退いた。 正史 魏書 巻28 §37–39
城内の食糧が尽き、諸葛誕が文欽を殺し、文欽の子の文鴦と文虎が魏に帰順して城内が動揺すると、諸葛誕と唐咨らは知恵も力も尽きた。司馬昭が自ら包囲陣に臨んで四方から城に登らせると、諸葛誕は小門から抜け出そうとして胡奮の兵に殺され、唐咨と王祚および諸裨将はみな後ろ手に縛って降伏した。 正史 魏書 巻28 §39–42
陳寿は、諸葛誕と文欽が死に唐咨も捕らえられて三人の反逆者がすべて捕らえられ、天下が快哉を叫んだと記した。魏は唐咨を安遠将軍とし、ほかの裨将にもみな称号と地位を与えたので、呉の兵たちは喜んで服従し、江東もこれに感じ入って、みな彼らの家族を誅殺しなかった。 正史 魏書 巻28 §46–47
寿春を陥落させたのち、司馬昭は諸将を軽装で深く入らせ、唐咨らの子弟を呼び迎えて、その隙に乗じて呉を覆そうとした。王基が、大勝ののちに敵を侮ってはならないと諫めると、司馬昭は取りやめた。 正史 魏書 巻27 §68–70
景元3年(262)冬、司馬昭は蜀を討とうとして鍾会を鎮西将軍とするとともに、諸州に船を造らせ、唐咨に海を渡る大船を造らせて、表向きは呉を討とうとしているように見せた。鍾会が蜀討伐の際に出した檄文は、文欽と唐咨は国の大害であったが、追い詰められて捕らえられた唐咨と、戻って降伏した文欽の二人の子はみな将軍となって侯に封じられ、唐咨は国事にも参与していると述べた。正史は唐咨の死を記さない。 正史 魏書 巻28 §102 · 111 · 45–47
演義第108回で魏軍が三路から東興に攻め寄せると、諸葛恪は丁奉に水軍三千を与えて先に川を下らせ、呂拠・唐咨・留賛にそれぞれ騎兵・歩兵一万を率いさせ、三路に分かれて呼応させる。 演義 第108回 §11–12
第111回で諸葛誕が子の諸葛靚を人質に送って救援を求めると、孫綝は全懌・全端を主将、於詮を後軍、朱異・唐咨を先鋒、文欽を案内役として、軍七万を三隊に分けて送る。魏の先鋒王基とぶつかると、朱異が三合もたずに敗走し、続いて出た唐咨も三合もたずに大敗して逃げ、呉軍は五十里退いて陣を構える。 演義 第111回 §31–32 · 36
第112回で寿春が陥落したのち、裴秀が呉の兵を穴埋めにしようと言うと、鍾会は江南に帰して中国の寛大さを示そうと言い、司馬昭は呉の兵をみな本国に帰す。唐咨は孫綝を恐れてあえて国に帰らず魏に降伏し、司馬昭は彼らをみな重用して三河の地に分けて置く。 演義 第112回 §21–22
第113回で孫綝は、全端・唐咨らが魏に降伏したと聞いて大いに怒り、その家族をことごとく斬る。 演義 第113回 §2
第115回で蜀討伐に出る鍾会は、計略が漏れるのを恐れて呉討伐を名目に五か所で大船を造らせ、唐咨を登州・莱州など海沿いの州に送って海船を集めさせる。その意図がわからない司馬昭がわけを問うと、鍾会は、呉を討つ構えを見せて呉が蜀を助けられないようにするためだと答える。 演義 第115回 §39–40
呉に来るまでの来歴:演義は唐咨を第108回に諸葛恪の将として初めて登場させるだけで、その来歴を記さない。正史で唐咨は、黄初年間の利城郡の反乱で首領に推されたのち破られて海に逃れ、呉へ亡命した人物であり、呉では呂岱とともに羅厲・廖式らの反乱を討った。 演義 第108回 §11正史 魏書 巻28 §46正史 呉書 巻2 §80 · 93
呂拠の件:演義第111回は孫綝が滕胤・呂拠らを殺したとだけ記す。正史で唐咨は呂拠・文欽らとともに滕胤を丞相に推薦し、孫綝が送った詔書を受けて文欽らとともに呂拠を討つことになった。 演義 第111回 §31正史 呉書 巻3 §13正史 呉書 巻19 §80
救援軍の規模:演義第111回で孫綝は軍七万を三隊に分けて送る。正史では全懌・全端・唐咨・王祚らが三万人を率いて文欽とともに来て諸葛誕に呼応し、三嗣主伝も歩兵・騎兵三万と記す。 演義 第111回 §32正史 魏書 巻28 §36正史 呉書 巻3 §16
寿春に入ったこと:演義第111回で唐咨は先鋒として出て王基と戦い、三合もたずに敗走する。正史では、王基の包囲がまだ閉じていないうちに唐咨と文欽らが城の東北の険しい地形を利用し、兵を率いて城内に突入した。 演義 第111回 §36正史 魏書 巻28 §36
降伏の経緯:演義第112回で唐咨は、寿春が陥落して呉の兵が解き放たれたのち、孫綝を恐れて国に帰れず魏に降伏する。正史で唐咨は城内から諸葛誕・文欽とともに南の包囲陣を攻めて退けられ、城が陥落したとき王祚および諸裨将とともに後ろ手に縛って降伏し、魏は彼を安遠将軍とした。 演義 第112回 §22正史 魏書 巻28 §39 · 42 · 46
呉の兵の処遇:演義第112回で司馬昭は呉の兵をみな本国に帰す。正史で司馬昭は呉の兵を一人も殺さず、三河付近の諸郡に分けて安住させた。 演義 第112回 §22正史 魏書 巻28 §44
残された家族:演義第113回で孫綝は全端・唐咨らの家族をことごとく斬る。正史は、魏が唐咨らに称号と地位を与えて呉の兵が服従すると「江東もこれに感じ入って、みな彼らの家族を誅殺しなかった」と記す。 演義 第113回 §2正史 魏書 巻28 §46–47
海船を造ったこと:演義第115回では鍾会が唐咨を海沿いの州に送って船を集めさせ、司馬昭はその意図がわからずに問う。正史では司馬昭が景元3年(262)冬に鍾会を鎮西将軍とするとともに諸州に船を造らせ、唐咨に海を渡る大船を造らせて、表向きは呉を討とうとしているように見せた。 演義 第115回 §39正史 魏書 巻28 §102
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
正東興で身軽に堤を登って魏兵を斬った先鋒に加わった呉書 巻19 §29
演王基と戦い、三合もたずに大敗して逃げた第111回 §36
正東興で先鋒として大勝に加わったが、董嗣は数か月攻めても落とせなかった呉書 巻19 §29呉書 巻15 §74
正反乱の首領として呉へ亡命し、主君に背いた仇と記される魏書 巻28 §46魏書 巻28 §111
演孫綝を恐れて呉に帰らず、魏に降伏した第112回 §22
正利城郡の反乱勢力が彼を首領に推した魏書 巻28 §46
演直接の記録なし — 降伏の事績から推定第112回 §22
正直接の記録なし — 呉の将としての事績から推定魏書 巻28 §46
演直接の記録なし — 先鋒としての事績から推定第111回 §32
正直接の記録なし — 呉の将としての事績から推定魏書 巻28 §46
演直接の記録なし — 先鋒としての事績から推定第111回 §32
正呉へ逃れて左将軍となり、捕らえられたのち魏で安遠将軍となった魏書 巻28 §46
演魏に降伏して重用され、三河の地に配置された第112回 §22
正直接の記録なし — 武将としての事績から推定魏書 巻28 §46
演直接の記録なし — 武将としての事績から推定第111回 §32
正熟達 +10 文王が彼に海を渡る大船を造らせた魏書 巻28 §102
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。