正辛毗を王思に代えて用いるよう上表した魏書 巻25 §17
演直接の記録なし — 事績から推定第106回 §36
畢軌は東平の人である。明帝の時に并州刺史を務め、斉王の時には政権を握った曹爽の腹心として司隷校尉となった。嘉平元年(249)正月、司馬懿が曹爽兄弟の官職を免じさせた後、曹爽と姦謀を通じたとして何晏・鄧颺・丁謐らとともに処刑され、三族が滅ぼされた。 正史 魏書 巻3 §30正史 魏書 巻9 §73 · 76 · 88正史 魏書 巻4 §28
并州刺史であった時、鮮卑の歩度根が軻比能とひそかに内通すると先に兵を出したが、派遣した将の蘇尚・董弼が楼煩で敗れて死んだ。明帝は彼や何晏らを浮華であるとして抑えて退けたが、曹爽が政権を握るとふたたび登用した。 正史 魏書 巻3 §30–31正史 魏書 巻9 §73
正史には独立した伝がなく、魏書の本紀と曹爽・盧毓・辛毗・牽招の伝、烏丸鮮卑東夷伝に事績が散見する。演義では第106回に曹爽が信任した浮華な五人の一人として初めて登場し、120回のうち2回に登場し、回目に名が入った回はない。第107回で張当の供述に名が挙がり処刑される。 正史 魏書 巻3 §30正史 魏書 巻4 §28正史 魏書 巻9 §73正史 魏書 巻22 §104正史 魏書 巻25 §17正史 魏書 巻26 §59正史 魏書 巻30 §5演義 第106回 §34演義 第107回 §22–23
明帝が即位した後、中書監劉放と中書令孫資が信任を受けて政事を決していた時、冗従僕射の畢軌は上表して、尚書僕射の王思は勤勉な古参の官吏であるが、忠誠と明察と計略では辛毗に及ばないので、辛毗が王思に代わるべきだと述べた。明帝が劉放と孫資に問うと、二人は辛毗はまことに明察で剛直だが性格が強く独断的であると答え、結局辛毗は用いられず、出て衛尉となった。 正史 魏書 巻25 §16–18
畢軌は并州刺史となった。蜀の諸葛亮が祁山にいて軻比能と手を結ぶと、明帝は牽招に状況に応じて彼を討たせた。軻比能はすでに漠南に戻っていたので、牽招は刺史の畢軌と協議し、新興と雁門を守る二つの牙門を陘北に出して駐屯させ、屯田で軍糧を蓄え、秋冬に馬が肥えたら州と郡の兵を合わせて討とうと提案した。しかし実行する前に牽招が病死した。 正史 魏書 巻3 §30正史 魏書 巻26 §59–60
青龍元年(233)、辺塞を守る鮮卑の大人歩度根が、反乱した鮮卑の大人軻比能とひそかに内通した。畢軌は上表するとすぐに兵を出し、外には軻比能に威勢を示し、内には歩度根を抑えようとした。明帝は上表を見て、歩度根は軻比能に誘われて自ら疑心を抱いているのに、畢軌が兵を出せば二つの部族を驚かせて一つにまとめるだけだと言い、急いで畢軌に勅して、兵を出しても決して塞を越えて句注を過ぎてはならないとした。 正史 魏書 巻30 §27正史 魏書 巻3 §30
詔書が届く頃には、畢軌はすでに進軍して陰館に駐屯し、将軍の蘇尚と董弼を派遣して鮮卑を追わせていた。軻比能は息子に騎兵千余を与えて歩度根の部落を迎えさせ、楼煩で蘇尚・董弼と遭遇して戦い、二将は敗れて死んだ。歩度根の部落はみな反乱して塞外に出て軻比能とともに辺境を荒らし、明帝は驍騎将軍の秦朗を派遣してこれを討伐させた。烏丸鮮卑東夷伝はこのことを「畢軌は陘北で敗れた」と記している。 正史 魏書 巻3 §31正史 魏書 巻30 §27 · 5
南陽の何晏・鄧颺・李勝、沛国の丁謐、東平の畢軌はみな名声があり、時流に乗って出世を求めたが、明帝は彼らを浮華であるとしてみな抑えて退けた。明帝が崩御して斉王が即位した後、曹爽が政権を握るとふたたび彼らを登用して腹心とした。 正史 魏書 巻9 §72–73
何晏らは曹爽を推戴し、権力が重大なので他人に委ねてはならないと説いた。そこで何晏・鄧颺・丁謐が尚書となり、畢軌は司隷校尉、李勝は河南尹となって、諸事が司馬懿を経ることはまれになった。司馬懿はついに病と称して曹爽を避けた。 正史 魏書 巻9 §76
曹爽は自派を植えつけようと盧毓を僕射に移して何晏に代えさせ、まもなく盧毓を出して廷尉とした。司隷の畢軌はさらに盧毓を不当に弾劾して免官させたが、世論の多くが盧毓を弁護したので、盧毓は光禄勲となった。 正史 魏書 巻22 §104
正始10年(249)正月、天子が高平陵に参拝に出かけ、曹爽兄弟がみな従うと、司馬懿は兵を整えて武庫を占拠し、曹爽兄弟の官職を免じて侯として私邸に退かせた。戊戌の日、担当の官吏が黄門の張当を捕らえて廷尉に引き渡したが、張当は、曹爽が何晏らとひそかに反逆を謀り、あらかじめ兵を訓練して3月中に事を起こそうとしていたと供述した。 正史 魏書 巻9 §80 · 87正史 魏書 巻4 §28
三少帝紀は、尚書丁謐・鄧颺・何晏、司隷校尉畢軌、荊州刺史李勝、大司農桓範がみな曹爽と姦謀を通じたので三族を滅ぼしたと記す。曹爽伝では、曹爽・曹羲・曹訓・何晏・鄧颺・丁謐・畢軌・李勝・桓範・張当らを捕らえてみな処刑し、三族を滅ぼした。三少帝紀はこのことを嘉平元年(249)正月に記しているが、改元したのはその年の夏4月である。 正史 魏書 巻4 §28 · 30正史 魏書 巻9 §88
演義第106回は、曹爽の門下の食客五百人のうち浮華を互いに尊んだ五人として、何晏・鄧颺・李勝・丁謐とともに畢軌を挙げ、その字を昭先と記す。大司農桓範とともに、彼らはみな曹爽が信任する人々であったという。 演義 第106回 §34
何晏の言に従って曹爽が魏主曹芳に奏上し、司馬懿を太傅に昇らせると、兵権はすべて曹爽に帰する。曹爽は何晏・鄧颺・丁謐を尚書に、畢軌を司隷校尉に、李勝を河南尹とし、この五人は昼夜曹爽と事を議する。 演義 第106回 §35–36
第107回で畢軌は、曹爽兄弟、何晏・鄧颺・丁謐・李勝らとともに曹芳に従って城を出て、明帝の陵に参拝し狩猟に出かける。司馬懿はこれを聞いて大いに喜び、曹爽の陣営を占拠する。 演義 第107回 §1
曹爽が降伏した後、司馬懿が先に捕らえて獄に入れていた黄門の張当は、自分一人ではなく、何晏・鄧颺・李勝・畢軌・丁謐の五人がともに簒逆を謀ったと言う。何晏らは尋問の末にみな3月中に反乱を起こそうとしていたと白状し、司馬懿は曹爽三兄弟と連座した罪人をみな市で斬り、三族を滅ぼす。 演義 第107回 §22–23
曹爽と結びついた経緯:演義第106回で畢軌は、曹爽の門下の食客五百人のうち浮華な五人の一人として登場する。正史曹爽伝では、畢軌らは名声があり時流に乗った人々で、明帝が浮華であるとして抑えて退けていたのを、曹爽が政権を握った後にふたたび登用して腹心とした。 演義 第106回 §34正史 魏書 巻9 §73
并州刺史の時代:演義には、畢軌が并州刺史として鮮卑を討ち、将の蘇尚・董弼を失ったことは出てこない。正史明帝紀では、明帝の勅令が届く前に兵を出して陰館に駐屯し、派遣した二将が楼煩で敗れて死んだ。 演義 第106回 §34–36演義 第107回 §1正史 魏書 巻3 §30–31
辛毗の推薦と盧毓の弾劾:演義にはこの二つの事がない。正史で畢軌は、明帝の時に冗従僕射として辛毗を尚書僕射に推薦したが受け入れられず、曹爽が政権を握った後には司隷として廷尉の盧毓を弾劾して免官させた。 演義 第106回 §34–36正史 魏書 巻25 §17–18正史 魏書 巻22 §104
高平陵への行幸:演義第107回で畢軌は曹爽兄弟とともに曹芳に従って城を出る。正史曹爽伝は高平陵参拝に曹爽兄弟がみな従ったと記すだけで、畢軌が一緒に出たとは書いていない。 演義 第107回 §1正史 魏書 巻9 §80
張当の供述:演義第107回で張当は、何晏・鄧颺・李勝・畢軌・丁謐の五人がともに簒逆を謀ったと名を挙げて言う。正史曹爽伝で張当は曹爽が何晏らと反逆を謀ったと供述し、畢軌の名は捕らえられて処刑された人々の中に出てくる。三少帝紀は畢軌らが曹爽と姦謀を通じたと記している。 演義 第107回 §22正史 魏書 巻9 §87–88正史 魏書 巻4 §28
処刑:演義第107回は、曹爽三兄弟と連座した罪人を市で斬り、三族を滅ぼしたと記す。正史はみな処刑して三族を滅ぼしたと記すだけで、処刑した場所は明らかにしていない。 演義 第107回 §23正史 魏書 巻9 §88正史 魏書 巻4 §28
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
正辛毗を王思に代えて用いるよう上表した魏書 巻25 §17
演直接の記録なし — 事績から推定第106回 §36
正派遣した将の蘇尚・董弼が楼煩で敗死し、陘北で敗れた魏書 巻3 §31魏書 巻30 §27
演直接の記録なし — 司隷校尉であることから推定第106回 §36
正盧毓を不当に弾劾し、曹爽派として司隷校尉となり、その一派(何晏ら)は権勢を頼んで官物を掠め取った魏書 巻22 §104魏書 巻9 §76
正直接の記録なし — 上表の事績から推定魏書 巻25 §17
演直接の記録なし — 事績から推定第106回 §36
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。