曹訓

正史演義 魏 Cao Xun조훈曹训

プロフィール
職業正演武将 · 武衛将軍所属魏
登場正演収録
出生正? 演? 推定出身地沛国 譙県 推定
死去正249年 演(同じ) 推定死去地
死因正処刑 演処刑 推定
実在実在言及正5回

人物紹介

曹訓は魏の大司馬曹真の子であり、大将軍曹爽の弟である。正史には独立した伝がなく、魏書巻9諸夏侯曹伝の曹真・曹爽の記事と巻4三少帝紀に名が見える。明帝は曹真の死後、その五人の子、曹羲・曹訓・曹則・曹彦・曹皚をみな列侯に封じた。 正史 魏書 巻9 §69 · 73正史 魏書 巻4 §28

斉王が即位して曹爽が政治を補佐すると、曹訓は武衛将軍となった。嘉平元年(249)正月、皇帝が高平陵に参拝に出かけている間に、太傅司馬宣王(司馬懿)が上奏し、曹爽・曹羲・曹彦とともに彼の官職を免じ、侯として私邸に退かせた。その後、曹訓は曹爽・曹羲・何晏らとともに処刑され、三族を滅ぼされた。 正史 魏書 巻4 §2 · 28正史 魏書 巻9 §73 · 88

陳寿は巻9の評で、曹爽は徳が薄いのに位が高かったと述べただけで、曹訓を別に取り上げていない。演義では第106回に曹爽が武衛将軍とする弟として初めて登場し、120回のうち2回に登場し、回目に名が入った回はない。 正史 魏書 巻9 §132演義 第106回 §36演義 第107回 §1

正史の記録

曹訓の父曹真は字を子丹といい、太祖の族子である。曹真は太和5年(231)3月に死去し、子の曹爽が跡を継いだ。明帝は詔を下して、曹真が忠節を踏み行い二祖を補佐したことを称え、曹真の五人の子、曹羲・曹訓・曹則・曹彦・曹皚をみな列侯に封じた。 正史 魏書 巻9 §62 · 69正史 魏書 巻3 §21

景初3年(239)正月、明帝が崩じて斉王が即位すると、大将軍曹爽と太尉司馬宣王が政治を補佐した。曹爽は侍中を加えられ、武安侯に改封された。曹爽の弟の曹羲は中領軍、曹訓は武衛将軍、曹彦は散騎常侍・侍講となり、その他の弟たちもみな列侯として天子の側に仕え、宮中の門を出入りした。陳寿はその貴さと寵愛はこれ以上盛んなものはなかったと記している。武衛将軍は曹爽が明帝の時に歴任した官でもある。 正史 魏書 巻4 §2正史 魏書 巻9 §71–73

正始10年(249)正月、天子の車駕が高平陵に参拝すると、曹爽兄弟はみな随行した。三少帝紀はこの年を嘉平元年と記す。司馬宣王はまず武庫を占拠し、洛水の浮橋に駐屯したうえで上奏した。太尉蒋済と尚書令司馬孚らが、曹爽には君主をないがしろにする心があり、その兄弟が兵権を握って宿衛を担うべきではないとして永寧宮に上奏し、皇太后の令に従って担当官と黄門令に命じ、曹爽・曹羲・曹訓の吏兵を罷めさせ、列侯の身分で邸宅に帰らせたというのである。 正史 魏書 巻9 §80 · 83正史 魏書 巻4 §28

大司農の桓範は曹爽のもとに赴き、天子の車駕を許昌に移して外地の兵を呼び集めるよう説いたが、曹爽兄弟はためらって決められなかった。侍中許允と尚書陳泰の説得で曹爽が罪を認めて死を請うと、曹爽兄弟は免職され、列侯の身分で邸宅に帰った。三少帝紀は、このとき司馬宣王が上奏して、大将軍曹爽とその弟である中領軍曹羲・武衛将軍曹訓・散騎常侍曹彦の官職を免じ、侯として私邸に退かせたと記す。 正史 魏書 巻9 §84–85正史 魏書 巻4 §28

その後、黄門の張当が、曹爽は何晏らとともにひそかに反逆を謀り、3月中に事を起こそうとしていたと供述した。公卿・朝臣が朝廷で議論してみな大逆無道に当たるとしたので、曹爽・曹羲・曹訓・何晏・鄧颺・丁謐・畢軌・李勝・桓範・張当らを捕らえてことごとく処刑し、三族を滅ぼした。嘉平年間、曹真の族孫の曹熙が新昌亭侯に封じられ、曹真の祭祀を奉じた。 正史 魏書 巻9 §87–88

陳寿は巻9の評で、曹真らは近しい親族・旧友として功業を助けたと述べ、曹爽は徳が薄いのに位が高く、満ちあふれることに溺れたのであり、これは『易』が明らかにし道家が忌むところであるとした。曹訓については別に評していない。 正史 魏書 巻9 §132

演義の描写

演義第106回で、何晏が大権を他人に委ねてはならないと言うと、曹爽は魏主曹芳に奏上して司馬懿を太傅に昇らせ、これより兵権はすべて曹爽に帰する。曹爽は弟の曹羲を中領軍、曹訓を武衛将軍、曹彦を散騎常侍とし、それぞれ御林軍三千を率いて禁宮に自由に出入りさせ、何晏・鄧颺・丁謐を尚書、畢軌を司隷校尉、李勝を河南尹とする。 演義 第106回 §35–36

同じ回で曹爽が魏主曹芳に請うて高平陵の祭祀に出かけると、曹爽は三人の弟と腹心の何晏らを率いて御林軍とともに車駕を護衛する。司農の桓範が、主公は禁軍を総べておられるのだから兄弟そろって出てはならないと諫めるが、曹爽は鞭で指して、誰があえて変を起こそうかと叱りつける。 演義 第106回 §47–48

第107回で司馬懿は、曹爽が弟の曹羲・曹訓・曹彦と腹心たち、そして御林軍を率いて魏主曹芳に従い、明帝の陵に参拝するため城を出たと聞いて大いに喜ぶ。司馬懿が奉った表文は、蒋済と司馬孚らの意見を永寧宮に上奏して皇太后の令を受けたとして、曹爽・曹羲・曹訓の吏兵を罷めさせ、侯の身分で邸宅に帰らせたと奏上する。 演義 第107回 §1 · 12

その後、演義は曹訓の名を再び挙げない。曹爽は二人の弟を振り返ってどうすればよいかと問い、桓範は決断できない曹爽を前に「いまその兄弟三人はまことに豚や子牛にすぎぬ」と泣く。曹爽三兄弟は私邸に戻って閉じ込められ、司馬懿は張当と何晏らの自白を得たのち、曹爽三兄弟と連座した罪人たちを市で斬り、三族を滅ぼす。 演義 第107回 §13 · 18 · 20–23

演義と異なる点

列侯への封爵:正史では明帝が曹真の死後その功を追念し、曹訓ら五人の子をみな列侯に封じた。演義にはこのことがなく、曹訓は第106回に曹爽の弟として初めて登場する。 正史 魏書 巻9 §69演義 第106回 §36

武衛将軍への任命:演義第106回では曹爽が弟の曹訓を武衛将軍とし、御林軍三千を率いて禁宮に自由に出入りさせる。正史は曹訓が武衛将軍となり、弟たちが列侯として宮中の門を出入りしたと記すだけで、率いた兵の数は記さない。 演義 第106回 §36正史 魏書 巻9 §73

兄弟そろっての外出:演義第106回では桓範が兄弟そろって城を出てはならないと諫め、曹爽がこれを叱りつける。正史の陳寿の本文は、天子の車駕が高平陵に赴いた際に曹爽兄弟がみな随行したとだけ記す。 演義 第106回 §48正史 魏書 巻9 §80

処刑の経緯:演義第107回では司馬懿が張当と何晏らの自白を得るとすぐに、曹爽三兄弟と連座した罪人たちを市で斬り、三族を滅ぼすが、曹訓の名は挙げない。正史では張当の供述の後、公卿・朝臣が朝廷で議論して大逆無道と定め、処刑された者として曹爽・曹羲に次いで曹訓の名を挙げる。 演義 第107回 §22–23正史 魏書 巻9 §87–88

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率4540−5
  • 武力3835−3
  • 知力3533−2
  • 政治3331−2
  • 魅力3833−5
  • 徳3633−3
  • 処世2830+2
  • 文芸3331−2
  • 弁舌3331−2
  • 用人3331−2
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

10点以上の差がある項目はありません — 演義も正史とほぼ同じように描いています。

近い項目 10件 — 根拠を見る
  • 統率正45推定演40 −5

    正直接の記録なし — 武衛将軍として兵権と宿衛を担った官職から推定魏書 巻9 §73魏書 巻9 §83

    演武衛将軍として御林軍三千を率い、禁宮に出入りした第106回 §36

  • 武力正38推定演35推定 −3

    正直接の記録なし — 曹爽の弟・武衛将軍であることから推定魏書 巻9 §73

    演直接の記録なし — 曹爽の弟・武衛将軍であることから推定第106回 §36

  • 知力正35推定演33推定 −2

    正直接の記録なし — 曹爽の弟・武衛将軍であることから推定魏書 巻9 §73

    演直接の記録なし — 曹爽の弟・武衛将軍であることから推定第106回 §36

  • 政治正33推定演31推定 −2

    正直接の記録なし — 曹爽の弟・武衛将軍であることから推定魏書 巻9 §73

    演直接の記録なし — 曹爽の弟・武衛将軍であることから推定第106回 §36

  • 魅力正38推定演33推定 −5

    正直接の記録なし — 列侯として尊貴と寵愛を受けた行跡から推定魏書 巻9 §69魏書 巻9 §73

    演直接の記録なし — 曹爽の弟・武衛将軍であることから推定第106回 §36

  • 徳正36推定演33推定 −3

    正直接の記録なし — 曹爽とともに処刑された行跡から推定魏書 巻9 §88

    演直接の記録なし — 曹爽の弟・武衛将軍であることから推定第106回 §36

  • 処世正28演30 +2

    正桓範の勧めに曹爽兄弟はためらい、免官された魏書 巻9 §84魏書 巻4 §28

    演兄曹爽とともに城を出て、吏兵を罷免された第107回 §1第107回 §12

  • 文芸・学術正33推定演31推定 −2

    正直接の記録なし — 曹爽の弟・武衛将軍であることから推定魏書 巻9 §73

    演直接の記録なし — 曹爽の弟・武衛将軍であることから推定第106回 §36

  • 弁舌・外交正33推定演31推定 −2

    正直接の記録なし — 曹爽の弟・武衛将軍であることから推定魏書 巻9 §73

    演直接の記録なし — 曹爽の弟・武衛将軍であることから推定第106回 §36

  • 識人・用人正33推定演31推定 −2

    正直接の記録なし — 曹爽の弟・武衛将軍であることから推定魏書 巻9 §73

    演直接の記録なし — 曹爽の弟・武衛将軍であることから推定第106回 §36

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(2回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

所属の変遷

  1. 魏 · 演義 · 演義 第107回 「司马懿闻曹爽同弟曹羲、曹训、曹彦」 · Q124617455

家族

兄弟姉妹曹爽 演義, 曹彦 演義, 曹羲 演義

Wikidataの歴史・演義人物項目に基づく。推定バッジのない関係は正史原文でも確認済み。

関連事件(1)

ウィキペディア情報ボックス・原文キーワードの自動照合(推定)を含みます。