正評:文章で名高く、三代の詔書・檄文の多くを作った魏書 巻14 §158魏書 巻14 §149
演直接の記録なし — 側近の文官としての事績から推定第106回 §28
劉放は字を子棄といい、涿郡の人で、漢の広陽順王の子である西郷侯劉宏の子孫である。漁陽の王松に身を寄せたのち、王松を説得して曹操に付かせ、建安10年(205)に王松とともに曹操のもとへ赴いた。 正史 魏書 巻14 §143–145
魏国が建てられると孫資とともに秘書郎となり、黄初の初めに秘書を中書と改めると中書監となって、中書令孫資とともに機密をつかさどった。明帝曹叡の臨終に際しては、曹爽と司馬懿に後事を託させ、正始年間に驃騎将軍に至ったのち退き、嘉平2年(250)に死去した。 正史 魏書 巻14 §147–148 · 151–155
陳寿は評で、劉放は文章によって、孫資は勤勉と慎重さによって、ともに皇帝の喉舌となる職を担い、その権勢は当時に鳴り響いたが、体面を備えていなかったため、非難は常に実際より過大であったと記した。演義では第106回にのみ登場し、全120回のうち1回に登場するだけで、回目に名が挙がる回はなく、病床の曹叡に孫資とともに曹爽を推薦する。 正史 魏書 巻14 §158演義 第106回 §28–29
劉放は字を子棄といい、涿郡の人で、漢の広陽順王の子である西郷侯劉宏の子孫である。郡の綱紀を歴任し、孝廉に推挙された。世が大いに乱れたとき、漁陽の王松がその地に拠っていたので、彼のもとへ行って身を寄せた。 正史 魏書 巻14 §143
曹操が冀州を平定すると、劉放は王松に、董卓の反逆以来、英雄たちがそれぞれ勢力を伸ばしたが、ただ曹公だけが天子を奉じて罪ある者を討ち、向かうところ必ず勝った、二袁も守れば淮南は氷が溶けるように消え、戦えば官渡で大敗した、昔の黥布が剣を手に漢に帰したように身を委ねるべきだと勧めた。王松はこれをもっともとし、曹操が南皮で袁譚を討ちつつ書簡で招くと、雍奴・泉州・安次をあげて帰順した。劉放が王松に代わって書いた返書は文章がきわめて美しかった。曹操はこれを高く評価し、彼が王松に説いた言葉も聞いて、彼を招いた。 正史 魏書 巻14 §143–145
建安10年(205)、劉放が王松とともに来ると曹操は大いに喜び、昔、班彪が竇融に身を寄せて河西の功を立てたことと何とよく似ていることかと言った。劉放は参司空軍事となり、主簿・記室を経て、郃陽・祋祤・賛の令を務めた。魏国が建てられると、太原の孫資とともに秘書郎となった。 正史 魏書 巻14 §145–147
文帝曹丕が即位すると、劉放と孫資は左丞と右丞となり、数か月後に劉放は秘書令に移った。黄初の初めに秘書を中書と改めると、劉放は中書監、孫資は中書令となって、それぞれ給事中を加えられ、劉放は関内侯の爵位を賜った。二人はこれによって機密をつかさどることになった。黄初3年(222)に魏寿亭侯に進み、明帝曹叡が即位するといっそう寵愛と信任を受け、散騎常侍を加えられ、西郷侯に爵位が進んだ。 正史 魏書 巻14 §148
明帝のとき、劉放と孫資は主上の信任を得て当時の政務を決していたので、大臣たちで彼らと交わらない者はなかったが、辛毗だけは往来しなかった。畢軌が尚書僕射王思に代えて辛毗を用いるよう上表すると、明帝は劉放と孫資に尋ね、二人は辛毗は確かに実直だが性格が剛直で独断的だと答え、辛毗は用いられなかった。中書監と中書令が権力を専らにしているという声が上がると、蒋済は、側近があまりに親しすぎると君主の身が覆い隠されると戒める上疏をした。 正史 魏書 巻25 §16–18正史 魏書 巻14 §126–127
劉放は書簡や檄文をよくし、三祖の詔命のうち招き諭す文の多くは彼が作った。青龍の初め、孫権が諸葛亮と手を結んでともに侵攻しようとしたとき、辺境の斥候が孫権の書簡を手に入れると、劉放はその文を書き改めて、満寵に帰順しようとしているかのように装い、封をして諸葛亮に見せた。諸葛亮がこれを呉の歩騭らに伝えると、孫権は諸葛亮に疑われることを恐れて、懸命に弁明した。この年、劉放と孫資は侍中・光禄大夫を加えられ、景初2年(238)に遼東が平定されると、参謀の功によってそれぞれ本県に封じられ、劉放は方城侯となった。 正史 魏書 巻14 §149–150
その年、明帝が病に伏すと、燕王曹宇を大将軍とし、夏侯献・曹爽・曹肇・秦朗とともに政務を補佐させようとしたが、曹宇は固く辞退した。明帝が劉放と孫資を寝室に呼び、曹爽が曹宇に代われるかと尋ねると、二人は賛成し、急いで太尉司馬懿を呼んで皇室の綱紀を正させるべきだと懇切に申し上げた。明帝は劉放に黄紙を与えて詔を書かせたが、二人が退出すると考えが変わり、司馬懿を来させないようにした。まもなく再び二人を呼んで、曹肇らのせいで自分の事を誤るところだったと言って再び詔を書かせ、曹爽だけを呼んで二人とともに命を受けさせたのち、曹宇・夏侯献・曹肇・秦朗を罷免した。司馬懿が到着して寝台に上って詔を受けたのち、明帝は死去した。 正史 魏書 巻14 §150–153
斉王曹芳が即位すると、大計を定めた功により食邑が増えて劉放は1,100戸となり、息子たちも亭侯・騎都尉・郎中となった。正始元年(240)に左光禄大夫を加えられて金印紫綬を受け、儀礼は三公と同等となり、正始6年(245)に驃騎将軍に移って中書監を従来どおり兼ねた。正始9年(248)2月に職を辞し、列侯として私邸に退いて特進の位を受けた。嘉平2年(250)に死去し、敬侯と諡され、子の劉正が跡を継いだ。 正史 魏書 巻14 §154–155正史 魏書 巻4 §8 · 17 · 27
陳寿は、劉放は才能と計略では孫資にまさっていたが、自らを修める点では及ばなかったと述べた。二人は主上の意をよく承って従い、得失をはっきり口にしたことがなく、辛毗を抑えて王思を助けたため、世の非難を受けた。しかし時には臣下が諫争するときにその意を後押しし、ひそかに利害を申し述べることもあって、もっぱら諂いの言葉で導いたわけではなかったという。 正史 魏書 巻14 §156
陳寿は評で、劉放は文章によって、孫資は勤勉と慎重さによって、ともに皇帝の喉舌となる職を担い、その権勢は当時に鳴り響いたが、雅やかで明らかな体面を備えていなかったため、彼らを非難する声は常に実際より過大であったと記した。 正史 魏書 巻14 §158
演義第106回で、曹叡は毛皇后の亡霊を見たのち病にかかり、病が重くなると、侍中光禄大夫の劉放と孫資に枢密院の一切の事務を任せる。文帝の子である燕王曹宇を大将軍として太子曹芳を補佐させようとするが、曹宇が固く辞退すると、曹叡は二人に一族のうち誰に任せられるかと尋ねる。 演義 第106回 §27–28
演義は、二人が長く曹真の恩を受けていたので、曹真の子曹爽を推薦したと記す。二人は、曹爽を用いるなら燕王を封国に帰すべきだと申し上げ、詔を受けて出ていき、即日出立するよう燕王に伝えると、燕王は涙を流して去る。曹爽が大将軍となって朝政を総攬し、司馬懿が呼ばれたのち、劉放と孫資は太子曹芳、大将軍曹爽とともに曹叡の御榻の前に呼ばれる。 演義 第106回 §29–30
職務:演義第106回は、劉放と孫資が侍中光禄大夫として枢密院の一切の事務を任されたとする。正史で劉放は黄初の初めに中書監となって中書令孫資とともに機密をつかさどり、侍中・光禄大夫は青龍年間に加えられた。 演義 第106回 §28正史 魏書 巻14 §148 · 150
曹爽を推薦した理由:演義第106回は、二人が曹真の恩を長く受けていたので曹爽を推薦したと記す。正史では明帝がまず曹爽が曹宇に代われるかと尋ね、二人はこれに賛成した。曹真の恩についての言及はない。 演義 第106回 §29正史 魏書 巻14 §152
燕王を退けた経緯:演義第106回では、二人が燕王を封国に帰すよう願い、詔を持って出て燕王を立ち去らせる。正史では、明帝が改めて詔を書かせ、曹爽だけを呼んで二人とともに命を受けさせたのち、曹宇と夏侯献・秦朗らの官を罷免した。 演義 第106回 §29正史 魏書 巻14 §153
司馬懿を呼んだこと:演義第106回では、病が重くなった曹叡が自ら使者を送って司馬懿を呼ぶ。正史では、劉放と孫資が急いで司馬懿を呼ぶべきだと懇切に申し上げ、明帝はいったん考えを変えて彼を止めたのち、再び呼んだ。 演義 第106回 §30正史 魏書 巻14 §152–153
帰順と文才:正史で劉放は王松を説得して曹操に帰順させ、三祖の詔を多く作り、孫権の書簡を書き改めて満寵に帰順しようとしているかのように装い、諸葛亮に見せた。演義で劉放は第106回にのみ登場し、こうしたことは出てこない。 正史 魏書 巻14 §143–145 · 149–150演義 第106回 §28–30
死:演義は劉放の死を記さない。正史では、正始9年(248)に職を辞して退いたのち、嘉平2年(250)に死去した。 演義 第106回 §30正史 魏書 巻4 §27正史 魏書 巻14 §155
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正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
正評:文章で名高く、三代の詔書・檄文の多くを作った魏書 巻14 §158魏書 巻14 §149
演直接の記録なし — 側近の文官としての事績から推定第106回 §28
正大勢を見極めて王松の帰順を導き、孫権の書簡を書き換えて離間した魏書 巻14 §143魏書 巻14 §149
演曹爽を用いるなら燕王を封国に帰すべきだと申し上げた第106回 §29
正王松を説得して帰順させ、返書の文章はきわめて美しかった魏書 巻14 §143
演曹叡を説得して曹爽を立て、燕王を退けさせた第106回 §29
正時宜を得て曹操に帰順し、三代にわたって権勢を保って退いた魏書 巻14 §143魏書 巻14 §154
演臨終の政局で曹爽の側に立ち、権力を握った第106回 §29
正曹爽の起用に賛成し、司馬懿を呼ぶべきだと申し上げた魏書 巻14 §151
演私恩から曹爽を推薦した第106回 §29
正中書監として機密をつかさどり、遼東平定の参謀の功で封爵された魏書 巻14 §148魏書 巻14 §150
演孫資とともに枢密院の一切の事務を任された第106回 §28
正主上の意にのみ従って辛毗を抑え、評では体面がなく誹りを受けたとされる魏書 巻14 §156魏書 巻14 §158
演曹真の恩から曹爽を推薦し、燕王を追い出した第106回 §29
正直接の記録なし — 文官としての事績から推定魏書 巻14 §146
演直接の記録なし — 文官としての事績から推定第106回 §28
正直接の記録なし — 文官としての事績から推定魏書 巻14 §146
演直接の記録なし — 文官としての事績から推定第106回 §28
正権勢ゆえに大臣たちが交わったが、世の非難を受けた魏書 巻25 §16魏書 巻14 §156
演直接の記録なし — 側近の文官としての事績から推定第106回 §28
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。