杜襲

正史演義 魏 字 子緒 Du XiZixu두습자서杜袭

プロフィール
職業正演文官 · 侍中 演武将 · 部将所属魏
登場正演収録魏書
出生出身地潁川郡 定陵県
実在実在言及正26回

人物紹介

杜襲は字を子緒といい、潁川郡定陵県の人である。乱を避けて荊州の劉表のもとに賓客としていたのち長沙へ行き、建安の初めに郷里に戻って曹操のもとで西鄂県長となり、荊州から攻めてきた1万の軍勢を防いで戦った。 正史 魏書 巻23 §34–37

魏国が建てられると侍中となり、漢中で夏侯淵が死んだのちは張郃・郭淮とともに軍をまとめた。曹丕が帝位に就いたのちに尚書となり、明帝のときには大将軍曹真と司馬懿の軍師を務め、病で戻って太中大夫となったのち死去した。 正史 魏書 巻23 §38–40 · 44–45

正史を著した陳寿は評で「杜襲は温和で純粋であり、大局を見通す識見があった」と述べ、和洽・趙儼らとともに一代の優れた士に数えた。演義では第66回に、曹操を魏王に推そうと議する侍中四人のうちの一人として初めて登場し、全120回のうち2回に登場するが、回目に名が入った回はない。第71回では夏侯淵の部将として定軍山の向かいの山を守り、黄忠に奪われる。 正史 魏書 巻23 §75演義 第66回 §33演義 第71回 §25

正史の記録

杜襲は字を子緒といい、潁川郡定陵県の人である。曾祖父杜安と祖父杜根は前代に名を知られた。杜襲は乱を避けて荊州へ行き、劉表は彼を賓客の礼で遇した。同郡の繁欽がたびたび劉表に認められると、杜襲は、われらがともに来たのは、竜のように沼にわだかまって時を待ち、鳳凰のように飛び立とうとしたからであって、劉牧を乱を治める主君と見て身を委ねようとしたのではないとし、才能を見せることをやめなければ絶交すると諭した。繁欽が教えに従うと言うと、杜襲は南の長沙へ行った。趙儼伝によれば、趙儼は荊州で杜襲・繁欽と財を共にし、計を同じくして一家のように過ごした。 正史 魏書 巻23 §34–35 · 47

建安の初め、曹操が天子を迎えて許に都を置くと、杜襲は逃れて郷里に戻り、曹操は彼を西鄂県長とした。県は南の境に接して賊が横行し、長吏たちは民を集めて城郭を守らせたので農業ができず、野は荒れ、倉は空であった。杜襲は自分の恩が民と結ばれていることを知り、老人と弱い者は散らして田畑で働かせ、壮丁と強い者は残して守備に備えたので、吏民は喜んだ。 正史 魏書 巻23 §36

ちょうど荊州から歩兵と騎兵1万人が城を攻めに来ると、杜襲は防ぎ守ることのできる県の吏民50余人を集めて誓いを立て、親族が城外にいる者は自由に去らせたが、みな死ぬまで戦うことを願った。杜襲は自ら矢と石を手にして先頭に立って戦い、数百人の首を斬ったが、配下の30余人が死に、残る18人もみな傷つき、賊が城に入った。杜襲は傷ついた吏民を率いて包囲を破って脱出し、ほとんどが死傷したが、背いた者はいなかった。彼は散らばった民を集めて摩陂の陣営に移し、吏民は家に帰るように彼に従った。 正史 魏書 巻23 §36–37

司隷校尉鍾繇が上表して議郎・参軍事とし、荀彧も彼を推薦したので、曹操は彼を丞相軍祭酒とした。建安18年(213)に曹操が魏公となって魏国が建てられると、杜襲は侍中となり、王粲・和洽とともに用いられた。王粲は記憶力がよく見聞が広かったので、曹操と同じ車に乗ることが多かったが、敬われる度合いは和洽と杜襲に及ばなかった。杜襲が一人で曹操に謁見して夜半に及ぶと、王粲が何を話しているのかわからないと言い、和洽は、昼に侍ればよいのに夜まで兼ねようというのかと笑った。 正史 魏書 巻23 §38–39正史 魏書 巻1 §120–121

のちに杜襲は丞相長史を兼ね、建安20年(215)に曹操に従って漢中に行き、張魯を討伐した。曹操は帰還するとき杜襲を駙馬都尉とし、残って漢中の軍事を監督させた。杜襲が民をなだめて導くと、進んで洛陽と鄴に移った民は8万余人に及んだ。建安24年(219)に夏侯淵が劉備に殺されて軍が総帥を失うと、杜襲は張郃・郭淮とともに諸軍のことをまとめ、臨時に張郃を総指揮官としたので、三軍は安定した。 正史 魏書 巻23 §39–40正史 魏書 巻1 §145–146 · 165–166

曹操が東に帰るとき、長安を守る留府長史を選ばせたが、担当者が選んだ人はほとんどがふさわしくなかった。曹操は「駿馬を置いて乗らず、どうしてあたふたと別の馬を探すのか」という令を下し、杜襲を留府長史として関中に駐屯させた。 正史 魏書 巻23 §40

そのころ将軍許攸が私兵を擁して曹操に従わず、傲慢な言葉を吐いたので、曹操は激怒してまず彼を討とうとした。群臣は彼を懐柔するよう諫めたが、曹操は刀を膝に横たえて聞き入れず、杜襲が入ってくると、計はすでに定まったので言うなと言った。杜襲は、計が正しければ助けて成し遂げるが、誤っていれば定まっていても改めるべきだと言い、曹操が許攸を凡人だと言うと、凡人がどうして凡人でない者を見分けられようかと言った。また、山犬や狼が道をふさいでいるのに狐や山猫を先に討てば、強い者を避けて弱い者を攻めると言われるだろうとし、千鈞の弩は二十日鼠のために引き金を引かないと述べた。曹操は「よし」と言って許攸を手厚くいたわり、許攸はすぐに戻って服従した。 正史 魏書 巻23 §41–43

そのころ夏侯尚が太子曹丕と親しく、情がきわめて厚かったが、杜襲は夏侯尚が益になる友ではなく特別に遇するには足りないと曹操に申し上げた。曹丕は初めはひどく不快に思ったが、のちにその言葉を思い返した。夏侯尚伝には、夏侯尚が愛した妾を葬ったのちに再び掘り出して見たと聞いた曹丕が、「杜襲が夏侯尚を軽薄だと言ったのはまことに理由があったのだ」と言ったと記されている。陳寿は、杜襲が柔らかでありながら上に逆らわないのはみなこのようであったと述べた。 正史 魏書 巻23 §43正史 魏書 巻9 §97

曹丕が王位に就くと杜襲は関内侯の爵位を受け、帝位に就くと督軍糧御史となって武平亭侯に封じられ、さらに督軍糧執法となったのち、朝廷に入って尚書となった。明帝が即位すると平陽郷侯に進封された。諸葛亮が秦川に出て大将軍曹真が諸軍を指揮して防いだとき、杜襲は大将軍軍師となり、食邑百戸を分けて兄の杜基に関内侯の爵位を賜った。 正史 魏書 巻23 §44

太和5年(231)3月に曹真が死んで司馬懿が代わると、杜襲は再び軍師となり、食邑300戸を加えられて前のものと合わせて550戸となった。病のため召還されて太中大夫に任じられ、死去すると少府を追贈され、諡を定侯といった。子の杜会が跡を継いだ。没年は記されていない。 正史 魏書 巻23 §45正史 魏書 巻3 §21

陳寿は評で「杜襲は温和で純粋であり、大局を見通す識見があった」と述べ、和洽・常林・楊俊・趙儼・裴潜とともに、みな一代の優れた士であるとした。 正史 魏書 巻23 §75

演義の描写

演義第66回で曹操が南征をやめて学校を建てたのち、侍中の王粲・杜襲・衞覬・和洽の四人が、曹操を魏王に推そうと議する。中書令荀攸が、丞相は官が魏公に至り九錫の栄誉まで加えられて地位はすでに極まっているとして反対すると、曹操は荀彧にならうつもりかと怒る。荀攸は憂いと憤りで病んで死に、曹操は魏王の件を取りやめる。 演義 第66回 §32–34

第71回で黄忠は法正と相談して、定軍山の西の高い山に夜襲をかけて攻め上る。この山は夏侯淵の部将杜襲が数百人で守っていたが、黄忠の大軍が押し寄せると山を捨てて逃げる。杜襲が夏侯淵のもとに戻り、黄忠が向かいの山を奪ったと知らせると、夏侯淵は張郃の諫めを聞かずに出て戦おうとする。 演義 第71回 §24–26

黄忠が夏侯淵を斬ったのち、張郃が趙雲に阻まれて定軍山の方へ逃げると、杜襲が兵を率いて迎え、定軍山はすでに劉封と孟達に奪われたと知らせる。張郃と杜襲は敗残兵を率いて漢水へ行って陣営を築き、曹操が着くと、二将は米倉山の兵糧と馬草を北山の陣営に移して蓄えてから進軍しようと言い、曹操はそれに従う。杜襲はこの場面を最後に演義に再び登場しない。 演義 第71回 §29–30 · 32

演義と異なる点

荊州と西鄂県:演義は、杜襲が荊州の劉表に身を寄せたことや、西鄂県長として荊州軍1万人を防いだことを扱わず、第66回に侍中として初めて登場させる。正史では建安の初めに郷里に戻って西鄂県長となり、城が陥落するまで戦い、散らばった民を集めて摩陂に移した。 演義 第66回 §33正史 魏書 巻23 §34–37

魏王推戴の議:演義第66回で杜襲は王粲・衞覬・和洽とともに曹操を魏王に推そうと議する。正史の杜襲伝にはこの件はなく、魏国が建てられると王粲・和洽とともに侍中として用いられたと記す。 演義 第66回 §33正史 魏書 巻23 §38

漢中での役目:演義第71回で杜襲は夏侯淵の部将として定軍山の向かいの山を数百人で守り、黄忠に奪われる。正史で杜襲は張魯討伐ののち駙馬都尉として残って漢中の軍事を監督しており、山を守って奪われたという記録はない。 演義 第71回 §25正史 魏書 巻23 §39

夏侯淵の死後:演義第71回で杜襲は張郃とともに漢水に退いて陣営を築き、曹操に兵糧を北山に移すよう進言する。正史では杜襲が張郃・郭淮とともに諸軍のことをまとめ、臨時に張郃を総指揮官として三軍を安定させた。 演義 第71回 §30 · 32正史 魏書 巻23 §39–40

曹操と曹丕への諫言:正史の杜襲は許攸を討とうとする曹操を止め、曹丕と親しい夏侯尚を特別に遇するには足りないと申し上げた。演義で杜襲が登場する第66・71回には、このようなことはない。 正史 魏書 巻23 §41–43演義 第66回 §33演義 第71回 §32

晩年:演義で杜襲は第71回を最後に登場しない。正史では曹丕のときに尚書となり、明帝のときに曹真の大将軍軍師として諸葛亮を防ぎ、司馬懿が曹真に代わったのちも軍師を務め、病で戻って太中大夫となったのち死去した。 演義 第71回 §32正史 魏書 巻23 §44–45

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率5840−18
  • 武力4835−13
  • 知力7442−32
  • 政治7038−32
  • 魅力7835−43
  • 徳7235−37
  • 処世7042−28
  • 文芸4235−7
  • 弁舌7238−34
  • 用人6235−27
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

弁舌・外交正72演38推定 −34

正許攸を討とうとした曹操をたとえで説得し、懐柔させた魏書 巻23 §41

演直接の記録なし — 侍中の事績から推定第66回 §33

知力正74演42 −32

正劉表が乱世の主君になれないことを見抜いた、評:大局を見通す識見魏書 巻23 §34魏書 巻23 §75

演定軍山を失ったのち、兵糧を北山に移すよう進言第71回 §32

識人・用人正62演35推定 −27

正夏侯尚が益になる友でないことを見抜いた、張郃を総指揮官に立てた魏書 巻23 §43魏書 巻23 §40

演直接の記録なし — 侍中の事績から推定第66回 §33

統率正58演40 −18

正西鄂を守って戦い、夏侯淵の死後に張郃を立てて三軍を安定させた魏書 巻23 §36魏書 巻23 §40

演数百人で山を守ったが、黄忠に山を捨てて逃げた第71回 §25

武力正48演35推定 −13

正自ら矢と石を手にして先頭に立って戦った魏書 巻23 §37

演直接の記録なし — 部将の事績から推定第71回 §25

近い項目 1件 — 根拠を見る
  • 文芸・学術正42推定演35推定 −7

    正直接の記録なし — 名門出身の事績から推定魏書 巻23 §34

    演直接の記録なし — 侍中の事績から推定第66回 §33

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(2回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

所属の変遷

  1. 魏 · 正史 · 正史 巻23 「襲逃還鄉里,太祖以爲西鄂長」

関連事件(1)

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