薛瑩

正史演義 呉 字 道言 Xue YingDaoyan설영도언薛莹

プロフィール
職業正演文官 · 光禄勲所属呉
登場正演収録呉書
出生正? 推定出身地沛国 竹邑県 推定
死去正282年 推定死去地
実在実在言及正21回

人物紹介

薛瑩は字を道言といい、呉の臣薛綜の子である。孫休のとき散騎中常侍となり、孫皓のとき選曹尚書・少傅・左国史を経て光禄勲に至り、韋曜らとともに『呉書』を著した。 正史 呉書 巻8 §51 · 57 · 59–60

孫皓の朝廷で二度広州へ送られ、召し戻された。天紀4年(280)、晋軍が攻め込むと孫皓が奉った降伏の書を作り、洛陽へ行って散騎常侍となり、太康3年(282)に死去した。 正史 呉書 巻8 §56 · 59 · 61

陳寿は評で、薛瑩は父の跡を継いで先代の風があったが、暴虐で苛酷な朝廷でたびたび高位に上ったことは、君子ならば危ういと考えたであろうと記した。演義には全120回のうち第120回にだけ光禄勲として登場し、回目に名が見える回はない。晋の兵が城に入ると、孫皓に安楽公劉禅を見習うよう奏上する。 正史 呉書 巻8 §63演義 第120回 §55

正史の記録

薛瑩は薛綜の子で、威南将軍を務めた薛珝の弟であり、字を道言という。はじめ秘府中書郎となった。韋曜伝によれば、孫亮が即位して諸葛恪が政治を補佐していたとき、韋曜が太史令となって『呉書』を著し、華覈・薛瑩らがみなこれに加わった。 正史 呉書 巻8 §49 · 51正史 呉書 巻20 §39

孫休が即位すると散騎中常侍となった。王蕃伝によれば、このとき王蕃・賀邵・虞汜とともに散騎中常侍となり、みな駙馬都尉を加えられ、当時の世論は彼らを清廉と見なした。数年後、病で官を去った。孫皓の初年に左執法となり、選曹尚書に移り、太子が立てられると少傅を兼ねた。建衡元年(269)、病に倒れた陸凱は孫皓への遺言で、薛瑩を楼玄・賀邵らとともに社稷の柱石、国家の良き補佐として挙げた。 正史 呉書 巻8 §51正史 呉書 巻20 §2正史 呉書 巻16 §28

建衡3年(271)、孫皓が薛瑩の父薛綜の遺文を追想して感嘆し、薛瑩に続けて作らせると、薛瑩は詩を献じた。詩で彼は、父が乱を避けて東南に来て、大皇(孫権)の招きで合浦太守を経て枢要の地位に上り、文皇(孫和)が東宮となると少傅となったことを讃えた。続いて、兄の薛珝が南征の命を受け、自分は人物を選ぶ要職と東宮の傅を任されたが才は先父に及ばないと述べ、死しては草を結んで報い、生きては身を捧げると誓った。 正史 呉書 巻8 §51–55

この年、何定が聖谿を開削して長江と淮水を結ぶことを建議すると、孫皓は薛瑩に1万人を監督して行かせた。しかし盤石が多く工事が困難であったため中止して戻り、武昌左部督として出た。のちに何定が誅殺されると、孫皓は聖谿の件をさかのぼって咎め、薛瑩を獄に下して広州へ流した。陸抗伝によれば、陸抗は武昌左部督薛瑩が召還されて投獄されたと聞いて上疏した。彼は、薛瑩の父薛綜が先帝に献言して文皇を補佐し、薛瑩も家業を継いでのち内にあって名と行いを磨いたのだから、いま問われている罪は許すに値するとして赦免を願った。 正史 呉書 巻8 §56正史 呉書 巻13 §77–79

右国史華覈は上疏して、大皇帝の末年に丁孚と項峻がはじめて『呉書』を著したが記録に値せず、少帝のとき韋曜・周昭・薛瑩・梁広と自分の5人が著して本末を備えたと述べた。しかし周昭と梁広は先に死に、韋曜は罪を犯し、薛瑩は出て将となったのち過失で流されて、書は放置されたという。華覈は、薛瑩は学問を広く修め文章がとりわけ巧みで同僚の中で第一であり、記述の才で薛瑩に及ぶ者は少ないとして、国のために彼を惜しんだ。 正史 呉書 巻8 §56–58

孫皓はついに薛瑩を召し戻して左国史とした。まもなく同郡の人である選曹尚書繆禕が小人たちに憎まれて衡陽太守に左遷され、さらに責任を問われたが、謝罪に向かう途中で薛瑩を訪ねたところ、多くの賓客を連れて薛瑩のもとに集まったと告発された。繆禕は桂陽へ流され、薛瑩は広州へ送り返されたが、着く前に再び召されて復職した。このころ法令と政治は誤りが多く、措置は煩雑で苛酷であったが、薛瑩はたびたび便宜の策を奉って、刑を緩め労役を減らして民を救うよう進言し、ときに実行された。光禄勲に移った。 正史 呉書 巻8 §59–60

天紀4年(280)、晋軍が孫皓を攻めると、孫皓は光禄勲薛瑩と中書令胡沖らの計を用い、王濬・司馬伷・王渾に使者を分けて送り、書を奉って降伏を願い出たが、その文は薛瑩が作ったものであった。薛瑩は洛陽に着くと特に優先して任用されて散騎常侍となり、質問への答えや事の処置はすべて筋道が通っていた。太康3年(282)に死去した。8篇の書を著し、『新議』と名づけた。 正史 呉書 巻8 §61正史 呉書 巻3 §83

陳寿は王蕃・楼玄・賀邵・韋曜の伝を評するにあたり、まず薛瑩の言葉を引いた。薛瑩は、王蕃は器量が豊かで抜きん出ており、楼玄は清廉で節操があり、賀邵は志を磨いて高潔であり、韋曜は学問に篤く古を好んで記録・叙述の才があったと評した。 正史 呉書 巻20 §84

陳寿は評で、薛綜は学識と諫言によって呉の良臣となったとし、薛瑩が父の跡を継いだのはまことに先代の風があったが、暴虐で苛酷な朝廷でたびたび高位に上ったことは、君子ならば危ういと考えたであろうと記した。 正史 呉書 巻8 §63

演義の描写

演義第120回で、晋の将王濬が石頭城に入ると、孫皓は自ら首をはねようとする。中書令胡沖と光禄勲薛瑩が「陛下はなぜ安楽公劉禅を見習われないのですか」と奏上し、孫皓はその言葉に従って、棺を車に載せ自らを縛って文武の官を率い、王濬の陣営の前へ行って降伏する。王濬はその縛めを解き、棺を焼いて王の礼で遇する。演義で薛瑩が登場するのはこの一場面だけである。 演義 第120回 §54–55

演義と異なる点

降伏を勧めた言葉:演義第120回で薛瑩は胡沖とともに、孫皓に安楽公劉禅を見習うよう奏上する。正史では孫皓は光禄勲薛瑩と中書令胡沖らの計を用い、王濬・司馬伷・王渾に使者を分けて送り書を奉った。劉禅を見習えという言葉は陳寿の本文にない。 演義 第120回 §55正史 呉書 巻3 §83正史 呉書 巻8 §61

降伏の書:正史薛瑩伝は、孫皓が司馬伷・王渾・王濬に奉った降伏の書を薛瑩が作ったと記す。演義第120回はこの書を書かず、孫皓が自らを縛り棺を車に載せて王濬の陣営へ行く場面だけを描く。 正史 呉書 巻8 §61演義 第120回 §55

『呉書』:正史で薛瑩は韋曜・周昭・梁広・華覈とともに『呉書』を著し、華覈は記述の才で薛瑩に及ぶ者は少ないと言った。演義は彼を第120回で光禄勲として出すだけである。 正史 呉書 巻8 §57–58正史 呉書 巻20 §39演義 第120回 §55

流罪と復職:正史で薛瑩は聖谿の工事の件で投獄されて広州へ流され、華覈の上疏で戻り、繆禕の件で再び広州へ送られる途中で召し戻された。演義にはこの件がない。 正史 呉書 巻8 §56 · 59–60演義 第120回 §55

降伏後:演義は第120回の降伏の場面以後、薛瑩を描かない。正史で薛瑩は洛陽で散騎常侍となって質問に筋道立てて答え、太康3年(282)に死去し、『新議』8篇を著した。 演義 第120回 §55正史 呉書 巻8 §61

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率4031−9
  • 武力3131±0
  • 知力4842−6
  • 政治6040−20
  • 魅力4535−10
  • 徳6240−22
  • 処世4055+15
  • 文芸8440−44
  • 弁舌5545−10
  • 用人5835−23
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

識人・用人正58演35推定 −23

正王蕃・楼玄・賀邵・韋曜の才能と行いを指摘して評した呉書 巻20 §84

演直接の記録なし — 推定第120回 §55

政治正60演40推定 −20

正刑を緩め労役を減らす便宜の策を奉り、ときに実行された呉書 巻8 §60

演直接の記録なし — 光禄勲の官職から推定第120回 §55

処世正40演55 +15

正評:暴虐な朝廷で高位に上り、二度流された呉書 巻8 §63

演自害しようとする孫皓に、劉禅を見習って降伏するよう勧めた第120回 §55

弁舌・外交正55演45 −10

正降伏文書を作り、洛陽で質問に筋道立てて答えた呉書 巻8 §61

演孫皓を説いて降伏させた第120回 §55

近い項目 3件 — 根拠を見る
  • 統率正40演31推定 −9

    正1万人を監督して聖谿を開削しようとしたが中止し、武昌左部督となった呉書 巻8 §56

    演直接の記録なし — 文官として推定第120回 §55

  • 武力正31推定演31推定 ±0

    正直接の記録なし — 文人として推定呉書 巻8 §56

    演直接の記録なし — 文官として推定第120回 §55

  • 知力正48演42推定 −6

    正降伏の際、胡沖とともに計を立てて書を奉った呉書 巻3 §83

    演直接の記録なし — 推定第120回 §55

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(1回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

所属の変遷

  1. 呉 · 正史 · 正史 巻53 「皓遂召瑩還,為左國史」

家族

父母薛綜 正史

Wikidataの歴史・演義人物項目に基づく。推定バッジのない関係は正史原文でも確認済み。

関連事件(1)

ウィキペディア情報ボックス・原文キーワードの自動照合(推定)を含みます。