虞汜
人物紹介
虞汜は虞翻の四男で、虞翻の十一人の息子のうち最も名が知られた。正史には独立した伝がなく、呉書巻12虞陸張駱陸吾朱伝の虞翻の記録の末尾と、巻3三嗣主伝、巻20王楼賀韋華伝に見える。永安の初めに孫休が即位すると、選曹郎から散騎中常侍となった。 正史 呉書 巻12 §16正史 呉書 巻20 §2正史 呉書 巻3 §61
孫皓の時代、建衡元年(269)に監軍として威南将軍薛珝、蒼梧太守陶璜とともに荊州の道から出て交阯を攻め、建衡3年(271)には陶璜とともに交阯を破って晋が置いた守将を捕らえて殺し、九真と日南はいずれも再び帰属した。のちに監軍使者として扶厳を討伐する途中で病死した。陳寿の本文は彼の没年を記しておらず、巻12の評は彼を別に論じていない。演義には登場しない。 正史 呉書 巻3 §61 · 63正史 呉書 巻12 §16 · 89
正史の記録
呉書巻12の虞翻の記録によれば、虞翻は字を仲翔といい、会稽郡余姚県の人である。孫権に対してたびたび顔色を犯して諫争したうえ、性格が世俗と合わなかったので丹楊郡涇県に移され、のちに孫権の怒りが積もって交州に移された。虞翻は南方で十余年を過ごして七十歳で死に、故郷の墓に帰葬され、妻子は戻ることができた。 正史 呉書 巻12 §2 · 7 · 13–14
虞翻には息子が十一人いたが、四男の虞汜が最も名が知られた。虞汜は永安の初めに選曹郎から散騎中常侍となった。虞汜の弟のうち、虞忠は宜都太守であり、虞聳は越騎校尉を経てたびたび昇進して廷尉と湘東太守・河間太守となり、虞昺は廷尉・尚書と済陰太守を務めた。 正史 呉書 巻12 §16
呉書巻20の王蕃の記録によれば、孫休が即位すると、王蕃は賀邵・薛瑩・虞汜とともにみな散騎中常侍となり、みな駙馬都尉を加えられた。当時の世論は彼らを清廉であるとした。 正史 呉書 巻20 §2
呉書巻3三嗣主伝によれば、孫皓の宝鼎3年(268)、呉は交州刺史劉俊・前部督脩則らを送って交阯に攻め込ませたが、晋の将毛炅らに撃破されてみな死に、兵士は散って合浦に帰った。建衡元年(269)には、監軍虞汜・威南将軍薛珝・蒼梧太守陶璜を荊州の道から、監軍李勗・督軍徐存を建安の海路から送り、いずれも合浦に進んで交阯を攻めさせた。 正史 呉書 巻3 §60–61
建衡2年(270)、李勗は建安の道が通じにくいとして案内役の将馮斐を殺し、軍を率いて引き返し、李勗と徐存は家族とともに処刑された。建衡3年(271)、虞汜と陶璜は交阯を破り、晋が置いた守将を捕らえて殺し、九真と日南はいずれも再び帰属した。呉は交阯を分けて新昌郡を置き、諸将が扶厳を破ると武平郡を置いた。 正史 呉書 巻3 §62–63
虞翻の記録は、虞汜がのちに監軍使者となって扶厳を討伐する途中で病死したと記す。陳寿の本文は彼の没年と年齢を明らかにしていない。 正史 呉書 巻12 §16正史 呉書 巻3 §63
陳寿は巻12の評で、虞翻は昔の狂直な人のようで、末世に禍を免れがたかったのはもとよりそうであるが、孫権が彼を受け入れられなかったのは寛大な度量ではなかったと述べた。評は虞汜を別に論じていない。 正史 呉書 巻12 §89
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。
- 統率62
- 武力40
- 知力45
- 政治45
- 魅力45
- 徳60
- 処世40
- 文芸45
- 弁舌40
- 用人38
項目別の根拠
正直接の記録なし — 散騎中常侍・監軍の役割から推定呉書 巻12 §16
正直接の記録なし — 散騎中常侍・監軍の役割から推定呉書 巻12 §16
正直接の記録なし — 散騎中常侍・監軍の役割から推定呉書 巻12 §16
正虞翻の十一人の息子のうち最も名が知られた呉書 巻12 §16
正散騎中常侍のとき、当時の世論に清廉とされた呉書 巻20 §2
正直接の記録なし — 散騎中常侍・監軍の役割から推定呉書 巻12 §16
正直接の記録なし — 散騎中常侍・監軍の役割から推定呉書 巻12 §16
正直接の記録なし — 散騎中常侍・監軍の役割から推定呉書 巻12 §16
正直接の記録なし — 散騎中常侍・監軍の役割から推定呉書 巻12 §16
正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。