正『呉書』の編纂に参与し、文と賦の才は韋曜に勝るとされた呉書 巻20 §39呉書 巻20 §84
演直接の記録なし — 中書丞という文官職から推定第120回 §8
華覈は字を永先といい、呉郡武進県の人である。上虞尉・典農都尉を経て秘府郎・中書丞となり、孫皓が即位すると徐陵亭侯に封じられた。のちに東観令となり、右国史を兼ねた。 正史 呉書 巻20 §54–55 · 71
孫皓の新宮造営と世の奢侈を止めようと上疏し、投獄されたり追放されたりした楼玄・薛瑩・韋曜を救おうと上書した。天冊元年(275)に軽い過失で免職となり、数年後に死去した。 正史 呉書 巻20 §55 · 72 · 9–11 · 46 · 82正史 呉書 巻8 §56
陳寿は評で、彼がたびたび良策を献じて力を尽くすことを期したので、ほぼ忠臣といえると述べた。演義には第119回に中書丞として初めて登場し、全120回のうち2回に現れるが、名が回目に入った回はない。第120回で兵を動かさないよう諫めたが、孫皓に追い出されて隠棲する。 正史 呉書 巻20 §85演義 第119回 §23演義 第120回 §8–9
華覈は字を永先といい、呉郡武進県の人である。初め上虞尉・典農都尉となり、文学によって朝廷に入って秘府郎となり、中書丞に遷った。孫亮が即位して諸葛恪が政治を補佐していたとき、韋曜が太史令となって『呉書』を撰述し、華覈は薛瑩らとともにこれに参与した。ともに『呉書』を撰した周昭が中書郎在任中に事件に連座して投獄されると、華覈は上表して救おうとしたが、孫休は聞き入れず、周昭は処刑された。 正史 呉書 巻20 §54 · 39正史 呉書 巻7 §98
永安元年(258)に召されて西陵督となり、のちに左虎林に転じた陸胤を、中書丞華覈が上表して推薦した。陸胤は交州で朝廷の恩を広めたので、流民が帰順し、海辺の辺地が平穏になり、諸将が威勢で人々を集めたのとは異なり、恩と信義で結びついたというのである。 正史 呉書 巻16 §52 · 54
蜀が魏に併合されると、華覈は宮門に赴いて上表した。陸抗の上表により、成都が守られず、君臣が流浪し、社稷が傾き覆ったことを確かに聞いたとし、昔、衛が翟に滅ぼされたとき桓公はこれを存続させたが、今は道のりが遠くて救うことができず、憂いと悲しみに堪えないと述べた。孫皓が即位すると、徐陵亭侯に封じられた。 正史 呉書 巻20 §54–55
宝鼎2年(267)、孫皓は再び新宮を造営し、珠玉で飾り立てて莫大な費用をかけ、真夏に工事を起こしたため、農事と守備がともに廃れた。華覈は上疏し、賈誼が積み上げた薪の下に火を抱いてその上で寝ることにたとえた形勢が、今はいっそう切迫していると述べた。大皇帝は農桑を興して民の賦役を慎んだが、その後、権勢ある臣がたびたび軍を起こしたため、兵は疲れ民は困窮したという。また、西の藩屏である蜀が一朝にして崩れたとし、「唇亡びて歯寒し」は古人の恐れたところであり、交阯・九真の二郡はすでに陥落したと述べた。 正史 呉書 巻20 §55–60
華覈は宮殿造営の労役をやめて開墾と播種に努めるべきだとし、『月令』に晩夏の月には土木工事を起こしてはならないとあることを挙げた。このまま宮殿が完成するまでに死んだり背いたりする者が五千人になれば北の軍勢は五万人増え、一万人に達すれば十万人になるだろうとも述べた。上疏は奏上されたが、孫皓は受け入れなかった。 正史 呉書 巻20 §61 · 65 · 67 · 71
のちに東観令に遷って右国史を兼ねると、華覈は、東観は儒林の府であるから改めて優れた賢人を選んでほしいと辞退した。孫皓は、彼が古い経典を深く研究し博覧多聞であるから、揚雄・班固・張衡・蔡邕の輩を超えるべきだとして、職務に励み、二度とあれこれ言わないよう答えた。 正史 呉書 巻20 §71
東観令華覈は広州に送られた楼玄のために上疏し、諸官吏の中で信頼して任せられる者として楼玄に勝る者はいないので、以前の過ちを赦して宰相の地位に抜擢してほしいと願った。しかし孫皓は楼玄の名声を憎んで彼を交阯に移し、楼玄はついに自殺した。建衡3年(271)正月の晦日には、孫皓が大軍を起こして母や妃妾まで連れて華里に出たが、東観令華覈らが強く諫めたので、ようやく引き返した。 正史 呉書 巻20 §9–12正史 呉書 巻3 §63
右国史華覈は広州に流された薛瑩のためにも上疏した。少帝の時に韋曜・周昭・薛瑩・梁広と自分の五人で『呉書』を撰したが、周昭と梁広は先に死に、韋曜は罪を犯し、薛瑩は流されたため書は滞っており、自分は薛瑩らのために記録や注釈をする程度がふさわしいと述べた。孫皓はついに薛瑩を呼び戻して左国史とした。また、夏口を守る将として陸凱の子陸禕に及ぶ者はいないと推薦した。 正史 呉書 巻8 §56–59正史 呉書 巻16 §30–31
倉庫に蓄えがないのに世俗が日に日に奢侈になると、華覈は再び上疏した。諸官庁が民の力を考えずに別々に徴発して農時を奪っているとして、しばらく労役を休ませて農桑に専念させるよう求めた。官吏と兵士の家ごとに娘一人に機織りをさせ、一人が一年に一束を織れば十万の家で十万束になるので、綾や刺繍のような無益な飾りは禁じるべきだと述べた。 正史 呉書 巻20 §72–73 · 77–78
韋曜が投獄されると、華覈は続けて上疏して救おうとした。漢の武帝が司馬遷を殺すに忍びず、その書が完成したように、韋曜は呉の司馬遷であり、『呉書』の序と賛はまだ書かれていないと述べた。韋曜はすでに七十歳であるから罪を一等減じて終身の徒刑囚とし、著述を完成させてほしいと願ったが、孫皓は許さず韋曜を誅殺した。 正史 呉書 巻20 §46–52
孫皓は華覈が老齢であるため草書で上表するよう命じたが、華覈はあえてそうしなかった。孫皓が再び草書で文を作らせ、立ったまま待つと、華覈は自分を草芥のような凡庸な身であるとし、敢えて命に背かないという文を作った。 正史 呉書 巻20 §80–81
華覈は前後して便宜を述べ、賢良有能な人を推薦し、罪ある者を弁護して赦す書を百余回上ったが、陳寿はいずれも補益があったものの文が多くてすべては載せられないと記した。天冊元年(275)に軽い過失で免職となり、数年後に死去した。韋曜と華覈が事を論じた章疏は、みな世に伝わっている。 正史 呉書 巻20 §82
陳寿は評で、華覈の文と賦の才は韋曜を上回るが、典誥では及ばないという胡沖の言葉を載せた。そして自分が見るところ、華覈はたびたび良策を献じて力を尽くすことを期したので、ほぼ忠臣といえるとし、これら数人は思いがけない禍が襲う世にあって名声と地位を持っていたのだから、天寿を全うできないのが当然の理であり、禍を免れたのは幸運にすぎなかったと記した。 正史 呉書 巻20 §84–85
演義第119回で、魏が景元5年を改めて咸熙元年としたその年の春3月、中書丞華覈は呉主孫休に「呉と蜀は唇と歯の関係であり、唇亡びれば歯寒しと申します。司馬昭が呉を討つ日は遠くありませんので、深く防御を固められますように」と上奏する。孫休はその言葉に従い、陸遜の子陸抗を鎮東大将軍として江口を守らせ、左将軍孫異に南徐の狭い要路を守らせ、老将丁奉に長江沿いに並ぶ数百の陣営を総督させる。 演義 第119回 §23
第120回で、孫皓は昭明宮を建てて文武の官員を山に入らせて木を伐らせ、術士尚広から庚子の年に青い蓋が洛陽に入るという占いを聞いて大いに喜ぶ。孫皓が中書丞華覈に、先帝が卿の言を容れて長江沿いに陣営を置いたと言い、どの地を先に取るべきかと問うと、華覈は、司馬炎は必ず呉を呑み込む心を抱いているので、徳を修めて民を安んじるのが上策であり、無理に兵を動かせば麻の衣をまとって火を消しに行くようなもので、自ら焼け死ぬことになると諫める。 演義 第120回 §7–8
孫皓は激怒し、旧臣の顔を立てなければ首を斬っていたところだと言って、武士に彼を殿門の外へ引き出させる。華覈は朝廷を出ながら「惜しいかな、錦繡の江山も遠からず他人のものとなろう」と嘆き、ついに隠棲して世に出ない。 演義 第120回 §8–9
蜀滅亡後の上書:演義第119回で華覈は孫休に唇と歯の関係を挙げて司馬昭の侵攻に備えるよう上奏し、孫休はその言葉に従って陸抗・孫異・丁奉を配置する。正史で華覈が蜀の滅亡を聞いて宮門で奉った上表は、蜀を救えないことを悲しむ文であり、防御を求める言葉はない。「唇亡びて歯寒し」という言葉は、宝鼎2年(267)に孫皓の宮殿造営を諫めた上疏に出てくる。 演義 第119回 §23正史 呉書 巻20 §54–55 · 60
宮殿造営:演義第120回で孫皓は昭明宮を建て、華覈はその後、征伐について尋ねる孫皓に兵を動かさないよう諫める。正史の三嗣主伝は宝鼎2年(267)夏6月に顕明宮の造営を始めたと記し、華覈伝は同じ宝鼎2年の真夏に起こされた新宮造営を華覈が上疏して諫めたと記す。 演義 第120回 §7–8正史 呉書 巻3 §59正史 呉書 巻20 §55
官職:演義第119~120回で華覈は孫休の時にも孫皓の時にも中書丞として登場する。正史で華覈は孫皓即位前に中書丞となり、孫皓が即位すると徐陵亭侯に封じられ、のちに東観令に遷って右国史を兼ねた。建衡3年(271)に孫皓の華里行きを阻んだ時の官職も東観令である。 演義 第119回 §23演義 第120回 §7正史 呉書 巻20 §54–55 · 71正史 呉書 巻3 §63
退いた経緯:演義第120回で華覈は孫皓に引き出されたのち隠棲して世に出ない。正史は孫皓が彼の上疏を受け入れなかったと記すのみであり、華覈はその後も東観令・右国史として楼玄・薛瑩・韋曜のために上書し、天冊元年(275)に軽い過失で免職となった。 演義 第120回 §9正史 呉書 巻20 §71 · 82
史官としての仕事:正史で華覈は韋曜・薛瑩らと『呉書』を撰し、薛瑩と韋曜を救おうとする上疏でその書のことを繰り返し述べた。演義第119~120回の華覈には『呉書』や史官の仕事は出てこない。 正史 呉書 巻20 §39 · 49正史 呉書 巻8 §57演義 第119回 §23演義 第120回 §7–9
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正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
正『呉書』の編纂に参与し、文と賦の才は韋曜に勝るとされた呉書 巻20 §39呉書 巻20 §84
演直接の記録なし — 中書丞という文官職から推定第120回 §8
正蓄えと農業を優先し、奢侈を禁じて国を富ませるよう上疏した呉書 巻20 §69呉書 巻20 §72呉書 巻20 §77
演直接の記録なし — 徳を修めて民を安んじよという諫言第120回 §8
正賢良有能な人を推薦する書を何度も上った呉書 巻20 §82
演直接の記録なし — 事績から推定第119回 §23
正罪ある者を弁護する書を上り、評はほぼ忠臣とする呉書 巻20 §85呉書 巻20 §82呉書 巻7 §98
演孫皓の出兵を焼け死ぬことになぞらえて直諫した第120回 §8
正直接の記録なし — 文官であることから推定呉書 巻20 §54
演直接の記録なし — 中書丞という文官職から推定第119回 §23
正直接の記録なし — 文官であることから推定呉書 巻20 §54
演直接の記録なし — 文官であることから推定第119回 §23
正蜀滅亡後、北の形勢と交州の危機を指摘して備えを求めた呉書 巻20 §57呉書 巻20 §60
正直接の記録なし — 官歴から推定呉書 巻20 §82
演直接の記録なし — 旧臣として遇された記録第120回 §7
正軽い過失で免職されただけで禍を免れた呉書 巻20 §82呉書 巻20 §85
演追い出された後、隠棲して世に出なかった第120回 §9
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。