正朱崖討伐・陳毖斬殺の功があり、巴丘督として王昶・王基を防いだ呉書 巻16 §9呉書 巻16 §10呉書 巻2 §109
演直接の記録なし — 丞相の官職から推定第120回 §4
陸凱は字を敬風といい、呉郡呉県の人で、丞相陸遜の一族の甥である。県長として仕官を始め、朱崖の討伐と零陵の山賊陳毖の討伐で功を立て、孫休のとき征北将軍・豫州牧、孫皓のとき鎮西大将軍・荊州牧を経て、宝鼎元年(266)に左丞相となった。 正史 呉書 巻16 §9–10正史 呉書 巻3 §57
孫皓が都を武昌に移し政治に誤りが多くなると上疏して諫め、寵臣の何定を面と向かって責めた。建衡元年(269)に病に倒れると、何定を遠ざけ賢臣を用いるよう申し述べたのち、72歳で死去した。 正史 呉書 巻16 §12 · 27–29
正史を著した陳寿は評で、彼を「忠実で剛毅、質朴で率直」とした。演義では第120回の1回にのみ登場し、名が回目に入った回はない。孫皓の左丞相となり、「武昌の魚は食わず」という童謡を引いて諫める上疏を奉る。 正史 呉書 巻16 §57演義 第120回 §4–5
陸凱は字を敬風といい、呉郡呉県の人で、丞相陸遜の一族の甥である。黄武の初めに永興県長・諸暨県長となり、赴任先ではどこでも治績があったので、建武都尉に任じられて兵を率いた。軍勢を統べながらも手から書物を離さず、『太玄』を好んでその意味を論じ解き明かし、それで占うとたびたび的中した。 正史 呉書 巻16 §9
赤烏年間に儋耳太守に任じられて朱崖を討ち、斬首・捕虜の功により建武校尉に移った。呉主伝は、赤烏5年(242)秋7月に将軍聶友と校尉陸凱を派遣し、兵3万で朱崖・儋耳を討たせたと記す。また赤烏13年(250)12月(西暦251年初め)、魏の大将軍王昶が南郡を包囲し荊州刺史王基が西陵を攻めると、将軍戴烈と陸凱を派遣して防がせ、魏軍はみな退いたと記す。 正史 呉書 巻16 §9正史 呉書 巻2 §97–98 · 108–109
五鳳2年(255)に零陵で山賊陳毖を討って斬り勝利すると、巴丘督・偏将軍に任じられ都郷侯に封じられ、武昌右部督に移った。諸将とともに寿春に赴き、帰還後たびたび昇進して蕩魏将軍・綏遠将軍となった。孫休が即位すると征北将軍に任じられ、仮節を与えられて豫州牧を兼ねた。孫皓が即位すると鎮西大将軍に移って巴丘を都督し、荊州牧を兼ね、嘉興侯に進封された。 正史 呉書 巻16 §9–10
宝鼎元年(266)正月、晋の文帝を弔問して帰った五官中郎将丁忠が、北方は守りと戦いの備えをしていないので弋陽を襲って取れると言うと、孫皓は群臣に諮った。鎮西大将軍陸凱は、兵はやむを得ないときにだけ用いるものであり、強敵が新たに巴蜀を併せながら使者を送って和親を求めているのだから、僥倖を頼んで勝ちを求めるのは利がないと述べた。孫皓は内心では車騎将軍劉纂の言を受け入れたが、蜀が平定されたばかりであったため実行しなかった。その年の8月、陸凱は左丞相となり、常侍万彧が右丞相となった。 正史 呉書 巻16 §10正史 呉書 巻3 §55–57
孫皓は人に顔を見られるのを好まず、群臣は侍見するとき、あえてその顔を正視できなかった。陸凱が、君臣が互いに見知らないようでは、にわかに不慮のことが起きたとき、どこへ駆けつければよいかわからないと説くと、孫皓は陸凱にだけは自分を見ることを許した。 正史 呉書 巻16 §11
孫皓が都を武昌に移すと、揚州の民は流れをさかのぼって物資を供給することに苦しみ、政治にも誤りが多く民は困窮した。陸凱は上疏して、民が安らかなら君主も安らかであるのに、近年は災害がないのに民の命が尽き、何も事業をしていないのに国の財が空になっていると述べた。曹氏は綱紀を失って晋がその政権を握り、険要の益州にいた劉氏は賞罰を誤って晋に討たれ、君臣が捕虜となったことを目前の明らかな証として挙げた。また武昌は険しく痩せた土地で王都とすべき所ではないとして、「むしろ建業の水を飲むとも、武昌の魚は食わず」という童謡を引いた。 正史 呉書 巻16 §12–18
同じ上疏で彼は、国に1年の蓄えもないのに公卿たちは小さな利益を献じて寵愛を求めていると責め、民を苦しめる監官を廃止するよう求めた。増えた後宮の女性や織り手を出して、妻のない者に嫁がせるようにとも述べた。さらに寵臣たちが徒党を組んで忠臣を害し賢者を覆い隠していると言い、文武の臣を選び抜いてそれぞれ職務に励ませるよう求めた。 正史 呉書 巻16 §20–26
このころ殿上列将の何定がへつらって狡猾で、高い寵愛を受けて事を任されると、陸凱は「主君に仕えて忠でなく、国政を乱した者で、天寿を全うして死んだ者を見たことがあるか」と面と向かって責めた。何定は大いに恨んで彼を中傷しようとしたが、陸凱は最後まで意に介さなかった。陳寿は、彼の表や上疏はみな事柄を率直に指して飾らず、忠誠と懇切さが内から発していたと記した。 正史 呉書 巻16 §27
建衡元年(269)に病に倒れると、孫皓は中書令董朝を遣わして言いたいことを尋ねさせた。陸凱は、何定は外任に出すべきで国事を任せてはならず、奚熙が浦里に田を開こうとするのも聞き入れてはならないと述べた。そして姚信・楼玄・賀邵・張悌・郭逴・薛瑩・滕脩と一族の弟陸喜・陸抗を社稷の柱、国家の良き補佐として推挙したのち、ついに死去した。72歳であった。三嗣主伝は、その年の11月に左丞相陸凱が死去したと記す。 正史 呉書 巻16 §28–29正史 呉書 巻3 §61
孫皓は、陸凱がたびたび顔色を犯して意に逆らったことをつねに根に持ち、何定の讒言も一度ではなかったが、すでに重臣であって法で縛るのは難しく、陸抗が大将として国境にいたので我慢した。陸抗が死んだのち、ついに陸凱の家族を建安に移した。陳寿は「ある人は言う」として、宝鼎元年12月、陸凱が大司馬丁奉・御史大夫丁固とともに、孫皓が宗廟に参拝する隙に彼を廃して孫休の子を立てようとしたが、先導することになっていた左将軍留平が拒んだため果たせなかったという話を書き添えた。 正史 呉書 巻16 §32–33
陳寿は荊州・揚州から来た人々から、陸凱が孫皓を諫めたという二十の事柄を得たが、真偽を明らかにしがたいとして本文には載せず、伝の後に書き写した。その文では孫皓が趙欽を遣わし、自分は動くときには必ず先帝に従っていると反論し、陸凱は中常侍王蕃を処刑したこと、万彧を高位に上げたこと、宮女をむやみに蓄えていることなど二十の事柄を挙げて、先帝に従っていないと述べた。王楼賀韋華伝にも、丞相陸凱が王蕃の死を悼んだ上疏が載っている。 正史 呉書 巻16 §34–48正史 呉書 巻20 §5
陳寿は評で潘濬とともに彼を「忠実で剛毅、質朴で率直であり、ともに節操と気概が堅固で、大丈夫らしい品格と功業があった」とした。 正史 呉書 巻16 §57
演義第120回で孫皓は即位したのち日ごとに凶暴さを増し、諫めた濮陽興と張布を斬ってその三族を滅ぼす。その後、年号を宝鼎元年と改め、陸凱と万彧を左右の丞相とする。 演義 第120回 §3–4
孫皓が武昌に留まって揚州の民が流れをさかのぼって物資を供給するのにひどく苦しみ、奢侈も限りがないので、陸凱は上疏して、災害がないのに民の命が尽きかけ、何もしていないのに国の財が空になりつつあると諫める。曹氏と劉氏が道を失ってともに晋のものとなったことを目前の証として挙げ、武昌は土地が険しく痩せていて王者の都とすべき所ではないとして、「むしろ建業の水を飲むとも、武昌の魚は食わず」という童謡を引く。 演義 第120回 §4–5
また大帝のときには百人に満たなかった宮女が景帝以来千を数えるとして、もろもろの賦役を減らし、宮女を選んで出し、百官を清く選ぶよう求める。上疏が奉られると孫皓は不快に思い、再び大いに土木工事を起こして昭明宮を造らせる。演義はこののち陸凱を描かない。 演義 第120回 §6–7
将としての経歴:正史で陸凱は朱崖・儋耳の討伐、魏の王昶・王基の防御、零陵の山賊陳毖の討伐に出て、征北将軍・鎮西大将軍を務めた。演義第120回にはこうした経歴はなく、左丞相としてのみ登場する。 正史 呉書 巻16 §9–10正史 呉書 巻2 §109演義 第120回 §4
弋陽襲撃への反対:正史で陸凱は、宝鼎元年(266)に丁忠が弋陽を襲おうと言うと、僥倖を頼む戦いは利がないと反対した。演義第120回の陸凱にこの話はない。 正史 呉書 巻3 §55–56演義 第120回 §4–7
上疏と孫皓の反応:演義第120回の上疏は一篇で、孫皓が不快に思ったというところで終わる。正史では武昌遷都を諫めた上疏のほかに、陳寿が真偽を明らかにしがたいとして別に書き写した「二十の事柄」があり、その文では孫皓が趙欽を遣わして反論する口頭の詔を下す。 演義 第120回 §7正史 呉書 巻16 §12 · 34–35
孫皓の待遇:正史で孫皓は臣下に顔を見させなかったが、陸凱にだけは許した。また意に逆らったことを根に持ちながら、陸抗が国境にいたので我慢し、陸抗が死んだのちに陸凱の家族を建安に移した。演義にはこれらの話はない。 正史 呉書 巻16 §11 · 32演義 第120回 §7
何定:正史で陸凱は寵臣何定を面と向かって責め、死ぬ前にも何定を外任に出すよう申し述べた。演義第120回で孫皓が寵愛する臣としては中常侍岑昏が登場し、何定と陸凱の話はない。 正史 呉書 巻16 §27–28演義 第120回 §3
廃位謀議説:正史には、陸凱が丁奉・丁固とともに孫皓を廃して孫休の子を立てようとしたという「ある人の言」が載っている。演義にこの話はない。 正史 呉書 巻16 §32–33演義 第120回 §4–7
死:正史で陸凱は建衡元年(269)に病に倒れ、何定を遠ざけ賢臣を用いるよう申し述べたのち、72歳で死去した。演義は彼の死を記さない。 正史 呉書 巻16 §28–29演義 第120回 §7
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正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
正朱崖討伐・陳毖斬殺の功があり、巴丘督として王昶・王基を防いだ呉書 巻16 §9呉書 巻16 §10呉書 巻2 §109
演直接の記録なし — 丞相の官職から推定第120回 §4
正臨終に姚信・楼玄らを社稷の柱として推挙した呉書 巻16 §28呉書 巻16 §29
演直接の記録なし — 百官を選び抜くよう求めた諫言から推定第120回 §6
正孫皓に恨まれたが、重臣であったため最後まで法で縛られなかった呉書 巻16 §32
演直接の記録なし — 諫言後の事績がないため推定第120回 §4
正県長として治績があり、民生救済の上疏を奉った呉書 巻16 §9呉書 巻16 §12
正孫皓を説得して自分だけは顔を見ることを許された。直言の上疏呉書 巻16 §11呉書 巻16 §12
演童謡と前例を挙げて遷都の誤りを論じた第120回 §5
正寵臣何定を面と向かって責めた。評:忠実で質朴、率直呉書 巻16 §27呉書 巻16 §57
演朝廷が口を閉ざしたとき、武昌遷都と奢侈を諫めた第120回 §4
正丁忠の弋陽襲撃論を諫めてやめさせた呉書 巻16 §10
演直接の記録なし — 曹氏・劉氏の滅亡を鑑とした諫言から推定第120回 §5
正直接の記録なし — 討伐の指揮の記録のみのため推定呉書 巻16 §10
演直接の記録なし — 文臣としての諫言の記録のみのため推定第120回 §4
正直接の記録なし — 将軍・丞相の経歴から推定呉書 巻16 §10
演直接の記録なし — 丞相の地位から推定第120回 §4
正熟達 +10 『太玄』で占うとたびたび的中した呉書 巻16 §9
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。