正会稽太守・大司農。公務を任せられる第一の人物で、才が滞りなく通じた呉書 巻20 §8呉書 巻20 §11呉書 巻20 §84
演直接の記録なし — 大司農の官職から推定第120回 §20
楼玄は字を承先といい、沛郡蘄県の人である。孫休のとき監農御史となり、孫皓が即位すると散騎中常侍・会稽太守を経て大司農となり、宮下鎮禁中候として宮殿内の事を司った。 正史 呉書 巻20 §8
率直な応対でたびたび孫皓の意に逆らい、賀邵とともに政治を誹謗したと誣告されて広州に送られた。孫皓はさらに彼を交阯の将張奕に引き渡し、ひそかに殺させようとしたが、楼玄は張奕が急死したのちにその勅書を見て、戻って自殺した。 正史 呉書 巻20 §8–9 · 12
陳寿は評で、薛瑩が彼を「清白で節操があり、才と理が滞りなく通じている」と言った言葉と、胡沖が楼玄・賀邵・王蕃のうち強いて言えば楼玄が先に立つべきだと言った言葉を引いた。演義には第120回に一度登場し、回目に名が入った回はない。孫皓の無道を見て直言して諫め、万彧・留平とともに殺された大司農として名が挙がる。 正史 呉書 巻20 §84演義 第120回 §20
楼玄は字を承先といい、沛郡蘄県の人である。孫休のとき監農御史となった。孫皓が即位すると、王蕃・郭逴・万彧とともにみな散騎中常侍となり、地方に出て会稽太守となったのち、朝廷に入って大司農となった。 正史 呉書 巻20 §8
以前は宮中を司る者を君主が近しい者の中から選んで任じていたが、万彧が、近しく機密に関わる職には良い人物を用いるべきだと上申した。孫皓は担当の官署に命じて忠実で清廉な士を求めさせ、ついに楼玄を宮下鎮禁中候として宮殿内の事を司らせた。楼玄は九卿の身で刀を持って侍衛する職に就き、身を正して衆を率い、法を奉じて行った。しかし応対が切実で率直であったため、たびたび孫皓の意に逆らい、しだいに叱責と怒りを受けるようになった。 正史 呉書 巻20 §8
のちにある者が、楼玄は賀邵と出会うと立ち止まって耳打ちし合い、大笑いして政治を誹謗していると誣告した。楼玄は詔によって詰問され、広州に送られた。賀邵伝は、賀邵を憚った側近たちがともにこのように讒言したため二人とも詰問を受け、楼玄は南州に送られ、賀邵は赦されて復職したと記す。 正史 呉書 巻20 §9 · 29
東観令華覈は上疏して、諸官吏の中で事を任せて信頼できる者として楼玄に勝る者はおらず、楼玄は清廉かつ忠実に公務を奉じて当代第一であり、人々はみな彼の節操に感服していると述べた。そのうえで、楼玄の以前の過ちを赦して自ら改めさせ、宰相の地位に抜擢してのちの成果を求めるよう願った。 正史 呉書 巻20 §10–11
丞相陸凱は建衡元年(269)に病にかかると、孫皓が遣わした中書令董朝に、姚信・楼玄・賀邵ら数人はみな社稷の柱、国家の良き補佐であるから、彼らに時務を問うようにと申し述べた。陸抗は薛瑩が獄に下されたと聞いて奉った上疏で、もと大司農楼玄・散騎中常侍王蕃・少府李勖を当代の優れた人材として挙げ、みな処刑されるか流されたと述べ、楼玄を赦して召し出されることを望んでいたと言った。 正史 呉書 巻16 §28–29正史 呉書 巻13 §77–78
孫皓は楼玄の名声を憎み、さらに楼玄とその子楼拠を移して交阯の将張奕に引き渡し、戦いで自ら功を立てさせることにしながら、ひそかに別に張奕に勅命を下して彼を殺させようとした。楼拠は交阯に着くと病死した。楼玄は単身で張奕に従って賊を討ち、刀を持って徒歩で川を渡り、張奕に会うたびに拝礼したので、張奕は彼を殺すに忍びなかった。 正史 呉書 巻20 §12
たまたま張奕が急死すると、楼玄は張奕の納棺をしているときに器の中に勅書を見つけ、戻ってすぐに自殺した。陳寿の本文は彼が死んだ年を記していない。賀邵伝は、天冊元年(275)、賀邵が殺されたその年に、楼玄の子孫を誅殺せよとの詔も下されたと記す。 正史 呉書 巻20 §12 · 29
陳寿は評で薛瑩の言葉を借りて、楼玄を「清白で節操があり、才と理が滞りなく通じている」と述べた。また胡沖が「楼玄・賀邵・王蕃は一時みな清らかで優れ、ほとんど優劣はないが、強いて言えば楼玄が先に立つべきで、賀邵がその次である」と考えたことを記した。 正史 呉書 巻20 §84
演義第120回で、陸抗が晋はまだ討つことができないとして、徳を修め刑罰を慎むよう求める上疏を奉ると、孫皓は陸抗が敵と内通しているとして兵権を奪い、司馬に降格する。演義は続けて、孫皓が年号を建衡と改めてから鳳皇元年に至るまで、ほしいままに振る舞って際限なく兵を動員したため、丞相万彧・将軍留平・大司農楼玄の三人が孫皓の無道を見て直言して切に諫めたが、みな殺されたと記す。 演義 第120回 §19–20
同じ箇所で演義は、孫皓が前後十余年の間に忠臣四十余人を殺し、出入りのたびに常に鉄騎5万を従えたので、臣下は恐れおののいたと言う。羊祜は、陸抗が兵権を失い孫皓が徳を失ったと聞いて、呉を討つよう求める上表を奉る。楼玄が演義に名を見せるのはこの一箇所だけである。 演義 第120回 §20–21
死の経緯:演義第120回で楼玄は孫皓に直言して諫めたために殺される。正史では、孫皓が彼を交阯の将張奕に引き渡してひそかに殺すよう勅命を下したが、張奕は殺すに忍びず、張奕が急死したのち楼玄が納棺をしていて勅書を見つけ、戻って自殺した。 演義 第120回 §20正史 呉書 巻20 §12
詰問された理由:演義第120回は、無道な孫皓を諫めたことを死の理由として挙げる。正史では、楼玄が賀邵と耳打ちして大笑いし政治を誹謗したとある者が誣告したために詰問され、広州に送られた。その後、孫皓が彼を交阯に移したのは、その名声を憎んだからだと記されている。 演義 第120回 §20正史 呉書 巻20 §9 · 12
ともに死んだ人物:演義第120回は、万彧・留平・楼玄の三人がともに諫めてみな死んだとひとまとめにする。正史の三嗣主伝では、万彧は鳳皇元年(272)に譴責を受けて憂えて死んだ。楼玄伝と賀邵伝で楼玄とともに詰問を受けたのは賀邵であり、賀邵は天冊元年(275)に酒蔵に閉じ込められて鞭打ちと尋問を受けたが、ついに一言も発せず、とうとう殺された。 演義 第120回 §20正史 呉書 巻3 §64正史 呉書 巻20 §9 · 29
官職:演義では大司農という肩書でのみ登場する。正史では孫休のとき監農御史、孫皓のとき散騎中常侍・会稽太守・大司農を務め、万彧の建議で宮下鎮禁中候となって刀を持って侍衛し、宮殿内の事を司った。 演義 第120回 §20正史 呉書 巻20 §8
息子と子孫:正史では、息子の楼拠がともに交阯に移されて病死し、天冊元年(275)には楼玄の子孫を誅殺せよとの詔が下された。演義には彼の家族の話はない。 正史 呉書 巻20 §12 · 29演義 第120回 §20
彼を惜しんだ人々:正史では、華覈が楼玄を赦して宰相に抜擢するよう上疏し、陸凱は死を前にして彼を社稷の柱として挙げ、陸抗も上疏で楼玄を赦して召し出すことを望んだ。演義第120回の陸抗の上疏は晋はまだ討てないという内容であり、楼玄は登場しない。 正史 呉書 巻20 §11正史 呉書 巻16 §28正史 呉書 巻13 §78演義 第120回 §19
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正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
正会稽太守・大司農。公務を任せられる第一の人物で、才が滞りなく通じた呉書 巻20 §8呉書 巻20 §11呉書 巻20 §84
演直接の記録なし — 大司農の官職から推定第120回 §20
正人々がその節操に感服し、先を争う者がなかったという呉書 巻20 §11
演直接の記録なし — 推定第120回 §20
正清廉・忠実さは当代第一。評:清白で節操がある呉書 巻20 §11呉書 巻20 §84
演孫皓の無道を直言して諫め、殺された第120回 §20
正単身で刀を持ち徒歩で川を渡って賊討伐に従った呉書 巻20 §12
演直接の記録なし — 推定第120回 §20
正直接の記録なし — 推定呉書 巻20 §12
演直接の記録なし — 推定第120回 §20
正切実で率直な応対で再三意に逆らい、流されて自殺した呉書 巻20 §8呉書 巻20 §12
演直接の記録なし — 推定第120回 §20
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。