正華覈の文賦と韋曜の典誥を比べて評した呉書 巻20 §84
演直接の記録なし — 中書令の文官であることから推定第120回 §55
胡沖は呉の孫権の時代に文書と策命をほとんど一手に作った胡綜の子である。赤烏6年(243)に胡綜が死ぬと跡を継いだ。陳寿は、彼が穏やかで文才と才幹があり、天紀年間に中書令になったと記した。 正史 呉書 巻17 §38
天紀4年(280)3月、晋の軍が迫ると、孫皓は光禄勲薛瑩・中書令胡沖らの計略を用い、王濬・司馬伷・王渾に使者を分けて送り、降伏の書状を奉った。 正史 呉書 巻3 §81–84
陳寿の評には、胡沖は評される人ではなく評を残した人として登場する。呉書巻20の評は、楼玄・賀邵・王蕃らの優劣を定めた彼の言葉を引用している。演義には第120回にのみ登場し、全120回のうち1回に登場するが、回目に名が載ることはない。晋軍が城に入ると、自刎しようとする孫皓に、薛瑩とともに安楽公劉禅にならうよう奏上する。 正史 呉書 巻20 §84演義 第120回 §55
胡沖の父胡綜は汝南郡固始県の人である。孫策が会稽太守を兼ねたとき、14歳で門下循行となり、呉に留まって孫権とともに書を読んだ。孫権が政務を統べて以来、諸々の文書・誥諭・策命、隣国への国書や符は、ほとんどすべて胡綜の作であった。 正史 呉書 巻17 §12 · 38
赤烏6年(243)に胡綜が死ぬと、子の胡沖が跡を継いだ。胡沖は穏やかで文才と才幹があり、天紀年間(277〜280)に中書令となった。 正史 呉書 巻17 §38
天紀4年(280)春、晋の王濬と唐彬が至る所で、呉の軍は土が崩れるように瓦解した。3月戊辰の日、武昌から戻った陶濬が、大船に乗って戦えば十分に撃ち破れると言って兵を集めたが、翌日出発するというその夜、兵はみな逃げ去った。その間に王濬は流れに乗ってまもなく到着しようとしており、司馬伷と王渾も国境近くに迫っていた。 正史 呉書 巻3 §81–83
孫皓は光禄勲薛瑩・中書令胡沖らの計略を用い、使者を分けて送って王濬・司馬伷・王渾に書状を奉った。書状は、大晋が竜のように興って徳が四海を覆ったのに、愚かで劣った自分は天命を悟らなかったとし、私に任じた太常張夔らを遣わして身に帯びた印綬を奉り、身を委ねて命乞いをすると述べていた。壬申の日、王濬が真っ先に到着して孫皓の降伏を受けた。 正史 呉書 巻3 §83–85
陳寿は呉書巻20王楼賀韋華伝の評で、薛瑩の評とともに胡沖の言葉を載せた。胡沖は、楼玄・賀邵・王蕃は一時にみな清く優れていてほとんど優劣がないが、強いて言えば楼玄が先に立つべきで、賀邵がその次であると考えた。また、華覈は文と賦の才では韋曜にまさるが、典誥には及ばないと言った。 正史 呉書 巻20 §84
陳寿は呉書巻17の評で、胡綜を文采と才能を用いて信任を得た人に数えたが、胡沖については特に述べていない。陳寿の本文は胡沖の字、その後のこと、没年を記していない。 正史 呉書 巻17 §42 · 38
演義第120回で晋軍が押し寄せると、呉の臣下たちは孫皓の命を待たずに宮中になだれ込み、岑昏を切り刻む。陶濬と張象が兵を率いて出るが、西北の風が強く吹き起こって兵卒は散り散りに逃げ、張象は王濬に降って石頭城の下で城門を開けと叫び、晋軍を迎え入れる。 演義 第120回 §52–54
孫皓は晋軍がすでに城に入ったと聞き、自刎しようとする。中書令胡沖と光禄勲薛瑩が、どうして安楽公劉禅にならわないのかと奏上すると、孫皓はその言に従い、棺を車に載せ自ら身を縛って文武の官を率い、王濬の軍営の前に出て降伏する。王濬は縛めを解いて棺を焼き、王の礼で遇する。 演義 第120回 §55
これにより東呉の4州・43郡・313県と戸口52万3千、兵23万などがすべて晋に帰属する。演義で胡沖が登場するのはこの場面だけである。 演義 第120回 §56
降伏を勧めた時と方法:演義第120回では、晋軍が城に入ったのち、自刎しようとする孫皓に胡沖と薛瑩が劉禅にならうよう奏上する。正史三嗣主伝では、王濬が到着する前に、孫皓が薛瑩・胡沖らの計略を用いて王濬・司馬伷・王渾に使者を分けて送り、降伏の書状を奉った。 演義 第120回 §55正史 呉書 巻3 §83–84
降伏の場面:演義第120回で孫皓は身を縛り棺を載せて王濬の軍営の前に出て降伏する。正史では壬申の日に王濬が真っ先に到着して降伏を受け、縛めを解いて棺を焼き、司馬伷は孫皓が印綬を自分に送ってきたとして使者を遣わし孫皓を護送した。 演義 第120回 §55正史 呉書 巻3 §85
呉軍が散った時:演義第120回では陶濬と張象が出陣したのち西北の風で兵卒が散り、陶濬の軍は孫皓が降伏した翌日に戦わずして崩れる。正史では、陶濬が兵を集めて出発すると決めた前夜に兵がみな逃げ去り、その後で孫皓が胡沖らの計略によって降伏の書状を送った。 演義 第120回 §52–53 · 57正史 呉書 巻3 §83
家柄:演義は胡沖の家柄を明らかにしない。正史では孫権の文書と策命をほとんど一手に作った胡綜の子で、赤烏6年(243)に跡を継いだ。 演義 第120回 §55正史 呉書 巻17 §38
人物評:演義で胡沖が残した言葉は孫皓に奏上した一言だけである。正史では陳寿が呉書巻20の評で、楼玄・賀邵・王蕃・華覈・韋曜を比べた胡沖の言葉を引用した。 演義 第120回 §55正史 呉書 巻20 §84
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正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
正華覈の文賦と韋曜の典誥を比べて評した呉書 巻20 §84
演直接の記録なし — 中書令の文官であることから推定第120回 §55
正楼玄・賀邵・王蕃の優劣を定めて楼玄を先とした呉書 巻20 §84
演直接の記録なし — 事績から推定第120回 §55
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。