荀諶
人物紹介
荀諶は潁川の人で、荀彧の弟である。正史には独立した伝がなく、魏書巻6董二袁劉伝の袁紹の記録と、巻10荀彧荀攸賈詡伝の荀彧の記録に見える。袁紹の命で陳留の高幹らとともに冀州牧韓馥を説き、冀州を袁紹に譲らせ、のちに田豊・許攸とともに袁紹の謀主となった。 正史 魏書 巻6 §40–43 · 49正史 魏書 巻10 §4
陳寿の本文は彼の字と没年を記していない。演義では第7回に冀州牧韓馥の謀士として初めて登場し、全120回のうち2回に登場する。回目に名が入った回はない。第7回で韓馥に袁紹を迎え入れるよう勧め、第22回では許攸とともに袁紹に兵を起こすよう勧める。 正史 魏書 巻6 §40 · 49正史 魏書 巻10 §4演義 第7回 §4演義 第22回 §8
正史の記録
魏書巻6の袁紹の記録によれば、袁紹は渤海で兵を挙げ、車騎将軍を自称して盟主となった。のちに冀州牧韓馥が安平で公孫瓚に敗れ、公孫瓚が董卓討伐を名目に冀州に入りながら内心では韓馥を襲おうとしたため、韓馥は不安を抱いた。折しも董卓が西に向かって関中に入ると、袁紹は軍を延津に返し、韓馥が慌て恐れている隙に乗じて、陳留の高幹、潁川の荀諶らに韓馥を説かせた。 正史 魏書 巻6 §39–40
彼らは、公孫瓚が勝ちに乗じて南へ向かい、諸郡がこれに呼応しているうえ、袁車騎も軍を率いて東へ向かっているがその意図は知れず、将軍のために危ぶむと言った。韓馥がどうすればよいかと問うと、荀諶は、公孫瓚は燕・代の兵を率いていてその鋒先は当たれず、袁氏は一代の傑物であるから決して将軍の下にはいないだろうと答えた。 正史 魏書 巻6 §40
荀諶は続けて、冀州は天下の重要な資源であり、両雄が力を合わせて城下で戦えば危亡はたちどころに待つことになると言った。袁氏は将軍の旧友でもあり同盟者でもあるから、冀州を挙げて袁氏に譲るに越した計はなく、そうすれば公孫瓚は袁氏と争えず、袁氏は将軍に深く恩義を感じ、将軍は賢者に譲ったという名声を得て身は泰山のように安泰であるから、ためらわれるなと言った。 正史 魏書 巻6 §41–42
もともと臆病であった韓馥はその計をもっともだとした。長史の耿武、別駕の閔純、治中の李歴は、冀州には武装兵が百万おり穀物は10年を支えられ、袁紹は孤立した客将で困窮した軍だと諫め、従事の趙浮と程奐は兵で袁紹を防ぐことを願い出たが、韓馥は聞き入れず冀州を袁紹に譲った。袁紹はついに冀州牧を領した。武帝紀はこれを、初平2年(191)秋7月に袁紹が韓馥を脅して冀州を奪ったこととして記す。 正史 魏書 巻6 §42–43正史 魏書 巻1 §18
魏書巻10の荀彧の記録によれば、荀彧が一族を率いて冀州に行ったとき、袁紹はすでに韓馥の地位を奪っていた。荀彧の弟荀諶と同郡の辛評・郭図はみな袁紹に任用されていたが、荀彧は袁紹が結局大事を成し遂げられないと見て取り、初平2年(191)に袁紹のもとを去って太祖(曹操)に従った。 正史 魏書 巻10 §3–4
袁紹は易京で公孫瓚を破ってその軍勢を併せたのち、長男袁譚に青州を、次男袁熙に幽州を、甥の高幹に并州を任せた。軍勢は数十万で、審配と逢紀に軍事を統括させ、田豊・荀諶・許攸を謀主、顔良・文醜を将とし、精兵10万と騎馬1万匹を選んで許を攻めようとした。陳寿の本文で荀諶の名が出るのはここまでで、その後の事績と死は記されていない。 正史 魏書 巻6 §49
陳寿は巻6の評で、袁紹と劉表はともに威厳ある容貌と風格で当代に名を知られたが、外は寛大で内は猜疑深く、謀を好んでも決断できず、人材がいても用いることができなかったと述べた。評は荀諶を別に論じていない。 正史 魏書 巻6 §96
演義の描写
演義第7回で、河内に駐屯する袁紹は兵糧が足りなくなると、謀士逢紀の策に従い、公孫瓚にともに冀州を攻めて土地を分けようという書状を送り、さらに人をやってひそかにこれを韓馥に知らせる。慌てた韓馥が荀諶と辛評の二人の謀士を集めて協議すると、荀諶は、公孫瓚は燕・代の軍勢を率いてはるばる駆けつけてくるのでその鋒先は当たれず、そのうえ劉備・関羽・張飛が彼を助けているので対抗しがたいと言う。 演義 第7回 §2–4
荀諶は続けて、袁本初は知勇が人に優れ、配下に名将がきわめて多いので、彼を招いてともに州の事を治めさせれば必ず将軍を厚く遇し、公孫瓚を憂えることはないと勧める。韓馥はすぐに別駕の関純を送って袁紹を招き、虎を羊の群れに引き入れるものだという長史耿武の諫言にも耳を貸さない。 演義 第7回 §4–5
数日後に冀州に入った袁紹は、韓馥を奮威将軍とし、田豊・沮授・許攸・逢紀に州の事を分担させて韓馥の権力をすべて奪う。韓馥は後悔したがすでに遅く、家族を捨てて単騎で陳留太守張邈のもとへ身を寄せに去る。 演義 第7回 §7
第22回で袁紹は、劉備が孫乾に持たせて送った鄭玄の書状を受け取って曹操を討つことを協議するが、田豊・審配・沮授・郭図の四人が言い争って結論が出ない。そのとき許攸と荀諶が外から入ってくる。袁紹が見識の多い二人に兵を起こすのがよいかと問うと、二人は声をそろえて、多数で少数に勝ち、強い力で弱い者を攻め、漢の賊を討って王室を支えるのだから兵を起こすのがよいと答える。 演義 第22回 §5–8
袁紹は二人の見解がまさに自分の心にかなうと言って兵を起こすことを協議し、審配と逢紀を統軍、田豊・荀諶・許攸を謀士、顔良・文醜を将軍として、騎兵15万と歩兵15万、合わせて精兵30万を起こし、黎陽へ進軍させる。 演義 第22回 §9
演義と異なる点
誰の臣か:演義第7回で荀諶は韓馥の謀士であり、韓馥の問いに答えて袁紹を迎え入れるよう勧める。正史では、袁紹が韓馥の慌てた隙に乗じて陳留の高幹、潁川の荀諶らを送り、韓馥を説かせた。 演義 第7回 §4正史 魏書 巻6 §40
勧めた内容:演義第7回の荀諶は、袁紹を招いてともに州の事を治めさせるよう勧める。正史の荀諶は冀州を挙げて袁氏に譲るよう言い、そうすれば賢者に譲ったという名声を得て身は泰山のように安泰であると言う。 演義 第7回 §4正史 魏書 巻6 §41
公孫瓚を助ける者:演義第7回の荀諶は、劉備・関羽・張飛が公孫瓚を助けているので対抗しがたいと言う。正史の荀諶は、公孫瓚が燕・代の兵を率いていてその鋒先は当たれないと言うだけで、劉備らには触れない。 演義 第7回 §4正史 魏書 巻6 §40–41
事の発端:演義第7回では、逢紀の策で袁紹が公孫瓚にともに冀州を攻めようという書状を送り、ひそかに韓馥に知らせて韓馥を怯えさせる。正史袁紹伝のこの箇所では、韓馥が安平で公孫瓚に敗れ、公孫瓚が董卓討伐を名目に冀州に入ってきたので韓馥が不安を抱き、袁紹はその隙に乗じた。逢紀の策と袁紹の書状は出てこない。 演義 第7回 §2–4正史 魏書 巻6 §39–43
出兵の勧め:演義第22回で荀諶は許攸とともに袁紹に兵を起こすよう勧める。正史袁紹伝は荀諶が出兵を勧めた言葉を記さず、袁紹が易京で公孫瓚を破ったのち、彼を田豊・許攸とともに謀主として許を攻めようとしたと記すだけである。 演義 第22回 §8正史 魏書 巻6 §49
軍の規模:演義第22回で荀諶らを謀士とした袁紹は、騎兵15万と歩兵15万、合わせて30万を起こす。正史袁紹伝では軍勢は数十万で、精兵10万と騎馬1万匹を選んで許を攻めようとした。 演義 第22回 §9正史 魏書 巻6 §49
荀彧との関係:演義第7回と第22回は荀諶を韓馥と袁紹の謀士として描くだけで、荀彧と結びつけない。正史荀彧伝は彼を荀彧の弟と記し、荀彧が袁紹のもとに来たとき、すでに袁紹に任用されていたと言う。 演義 第7回 §4演義 第22回 §8正史 魏書 巻10 §4
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能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率3533−2
- 武力3131±0
- 知力6242−20
- 政治4038−2
- 魅力4540−5
- 徳4540−5
- 処世4545±0
- 文芸4540−5
- 弁舌7455−19
- 用人4035−5
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
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正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。