周群 周羣

正史演義 蜀 字 仲直 Zhou QunZhongzhi주군중직

プロフィール
職業正方士 · 儒林校尉所属蜀
登場正演収録蜀書
出生出身地巴郡 閬中県
実在実在言及正10回

人物紹介

周群は字を仲直といい、巴西郡閬中県の人である。父の周舒に学んで天の気をうかがう学業に専心し、益州牧劉璋に招かれて師友従事となり、先主(劉備)が蜀を平定すると儒林校尉となった。 正史 蜀書 巻12 §9–10

先主が漢中を争おうとして尋ねると、「その地は得られましょうが、その民は得られません。偏軍を出せば必ず不利です」と答えた。呉蘭・雷銅らが武都に入ってみな帰らなかったので、すべて彼の言葉どおりであったとして茂才に推挙された。 正史 蜀書 巻12 §11–12

陳寿は評で、彼は「天を占って験があった」とし、杜瓊とともに純粋な学者であるとした。演義には第65回で劉備が益州牧となった後に抜擢した、降伏した文武の官員60余人の名簿に名が出るだけで、全120回のうち1回に登場し、回目に名が載る回はない。 正史 蜀書 巻12 §102演義 第65回 §46

正史の記録

周群は字を仲直といい、巴西郡閬中県の人である。父の周舒は字を叔布といい、若いころ広漢の楊厚から術数を学び、名声は董扶・任安に次ぎ、何度も招聘を受けたが、ついに出仕しなかった。ある人が『春秋讖』の「漢に代わる者は当塗高である」という言葉の意味を尋ねると、周舒は「当塗高とは魏である」と答え、郷里の学者たちがその言葉をひそかに伝えた。 正史 蜀書 巻12 §9

周群は若いころ周舒に学び、気候をうかがう学業に専心した。庭の中に小さな楼を建て、家が富んで奴婢が多かったので、奴婢たちに交代で楼の上で当番をさせて天の災異を見張らせた。一筋の気でも見えればすぐに周群に知らせ、周群は朝晩を問わず自ら楼に上って観察した。そのため気象の変化があれば見ないものはなく、彼の言うことは多く的中した。 正史 蜀書 巻12 §9–10

益州牧劉璋が彼を招いて師友従事とした。先主が蜀を平定すると、彼を儒林校尉に任じた。 正史 蜀書 巻12 §10

先主が曹公と漢中を争おうとして周群に尋ねると、周群は「その地は得られましょうが、その民は得られません。もし偏軍を出せば必ず不利ですので、戒め慎まれますように」と答えた。当時、益州の後部司馬である蜀郡の張裕も占候に通じ、天賦の才は周群に勝っていたが、漢中を争ってはならず、軍は必ず不利になると諫めた。先主は結局張裕の言葉を用いず、はたして地は得たが民は得られなかった。 正史 蜀書 巻12 §11

先主伝によれば、建安23年(218)、先主は諸将を率いて漢中に進み、将軍呉蘭・雷銅らを分けて武都に送ったが、彼らはみな曹公の軍に全滅させられた。周群伝は、これがすべて周群の言葉どおりであったので、周群を茂才に推挙したと記す。 正史 蜀書 巻2 §37正史 蜀書 巻12 §12

同じ伝に併せて記される張裕は、のちに劉氏の命運が尽きるとひそかに人に語ったことが知られ、かつて先主にひげがないことを皮肉ったことで憎まれていたため、漢中を争うなという諫言が当たらなかったという罪で獄に下された。諸葛亮が上表して許しを請うたが先主は聞き入れず、張裕は市で処刑された。 正史 蜀書 巻12 §13–15

周群が死ぬと、子の周巨がその術をかなり受け継いだ。陳寿の本文は周群の没年を記していない。楊戯が延熙4年(241)に著した「季漢輔臣賛」は、王元泰・何彦英・杜輔国とともに周仲直(周群)を讃え、「儒林校尉は天文に通じていた」とした。 正史 蜀書 巻12 §16正史 蜀書 巻15 §33 · 48–49

陳寿は巻12の評で、杜微を伯夷と四皓の節操になぞらえた後、「周群は天を占って験があり、杜瓊は寡黙で慎重かつ緻密であり、いずれも純粋な学者である」とした。 正史 蜀書 巻12 §102

演義の描写

演義第65回で、劉備は自ら益州牧となった後、降伏した文武の官員に厚く褒賞を与え、名号と爵位を定める。厳顔を前将軍、法正を蜀郡太守、黄権を右将軍とするなど名だたる者たちの官職を明らかにした後、そのほか呉懿・費観・彭羕・李厳・呉蘭・雷銅・譙周・楊洪・周群・費禕・孟達ら降伏した文武の官員60余人をみな抜擢して用いたと記す。 演義 第65回 §46

演義で周群はこの名簿にだけ名が出てきて、彼の占候や言葉は描かれない。 演義 第65回 §46

演義と異なる点

登用:演義第65回で周群は、劉備が益州牧となった後に抜擢した降伏官員60余人の中に名が出るだけである。正史では、劉璋が彼を師友従事として招き、先主が蜀を平定した後に儒林校尉に任じた。 演義 第65回 §46正史 蜀書 巻12 §10

漢中についての予言:正史で周群は先主に、漢中の地は得ても民は得られず、偏軍は不利だと答え、呉蘭・雷銅らが武都から帰らなかったので茂才に推挙された。演義では第70回で雷銅が張郃に、第72回で呉蘭が曹彰に殺されるが、周群の予言は出てこない。 正史 蜀書 巻12 §11–12演義 第70回 §13演義 第72回 §24演義 第65回 §46

呉蘭・雷銅の死:正史の先主伝は、建安23年(218)に武都に入った呉蘭・雷銅らがみな曹公の軍に全滅させられたと記す。演義では、雷銅は第70回の瓦口関の戦いで張郃に、呉蘭は第72回で曹彰の戟に刺されて死ぬ。 正史 蜀書 巻2 §37演義 第70回 §12–13演義 第72回 §24

張裕:正史の周群伝は、占候に通じて漢中を争うなと諫め、のちに処刑された張裕を併せて記す。演義に張裕は登場しない。 正史 蜀書 巻12 §11 · 15演義 第65回 §46

評価:陳寿は評で、彼は天を占って験があったとし、楊戯の「季漢輔臣賛」は儒林校尉が天文に通じていたとした。演義は彼の才能や人柄を語らない。 正史 蜀書 巻12 §102正史 蜀書 巻15 §48演義 第65回 §46

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率3131±0
  • 武力3131±0
  • 知力6040−20
  • 政治4038−2
  • 魅力4238−4
  • 徳4842−6
  • 処世5040−10
  • 文芸6042−18
  • 弁舌4535−10
  • 用人3533−2
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

知力正60演40推定 −20

正漢中は得ても民は得られず、偏軍は敗れると言い、的中した蜀書 巻12 §11蜀書 巻12 §12

演直接の記録なし — 益州平定後に官職を受けた者の名簿から推定第65回 §46

文芸・学術正60演42推定 −18

正父から気候をうかがう学業を専心して学び、子に伝えた蜀書 巻12 §9蜀書 巻12 §16

演直接の記録なし — 益州平定後に官職を受けた者の名簿から推定第65回 §46

処世正50推定演40推定 −10

正直接の記録なし — 官歴から推定蜀書 巻12 §10

演直接の記録なし — 益州平定後に官職を受けた者の名簿から推定第65回 §46

弁舌・外交正45演35推定 −10

正漢中の攻防を尋ねる先主に、戒め慎むよう答えた蜀書 巻12 §11

演直接の記録なし — 益州平定後に官職を受けた者の名簿から推定第65回 §46

近い項目 6件 — 根拠を見る
  • 統率正31推定演31推定 ±0

    正直接の記録なし — 文官の経歴から推定蜀書 巻12 §10

    演直接の記録なし — 益州平定後に官職を受けた者の名簿から推定第65回 §46

  • 武力正31推定演31推定 ±0

    正直接の記録なし — 術数家としての経歴から推定蜀書 巻12 §10

    演直接の記録なし — 益州平定後に官職を受けた者の名簿から推定第65回 §46

  • 政治正40推定演38推定 −2

    正直接の記録なし — 師友従事・儒林校尉の職から推定蜀書 巻12 §10

    演直接の記録なし — 益州平定後に官職を受けた者の名簿から推定第65回 §46

  • 魅力正42推定演38推定 −4

    正直接の記録なし — 茂才に推挙されたことから推定蜀書 巻12 §12

    演直接の記録なし — 益州平定後に官職を受けた者の名簿から推定第65回 §46

  • 徳正48推定演42推定 −6

    正直接の記録なし — 官歴から推定蜀書 巻12 §10

    演直接の記録なし — 益州平定後に官職を受けた者の名簿から推定第65回 §46

  • 識人・用人正35推定演33推定 −2

    正直接の記録なし — 官歴から推定蜀書 巻12 §10

    演直接の記録なし — 益州平定後に官職を受けた者の名簿から推定第65回 §46

スペシャル — 才能 正史 +25 · 演義 +0

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(1回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

所属の変遷

  1. 蜀 · 正史 · 正史 巻42 「先主欲曹公爭漢中,問羣」