正忠実・清廉で継母に孝行し、評は心を忠と公に専らにしたとする蜀書 巻11 §35蜀書 巻11 §50
演直接の記録なし第80回 §37
楊洪は字を季休といい、犍為武陽の人である。劉璋の時代に諸郡の官職を歴任し、劉備が蜀を平定したのち李厳の功曹、部蜀従事を経た。劉備が漢中を争った時には兵を送るべきだと諸葛亮に述べ、蜀郡太守を兼ねたのち正式に任命され、益州治中従事に移った。 正史 蜀書 巻11 §28–29
劉備が永安で病に倒れた時、漢嘉太守黄元が反乱を起こすと、太子に申し上げて親兵を送り出し、逃げ道を塞がせたので、陳曶・鄭綽が黄元を捕らえた。建興元年(223)に関内侯の爵位を賜り、再び蜀郡太守・忠節将軍となり、のちに越騎校尉として従来どおり郡を治め、建興6年(228)に在職のまま没した。 正史 蜀書 巻11 §30–31 · 35
陳寿は評で「楊洪は心を忠と公に専らにした」と述べた。演義では第65回に劉備が登用した降伏官僚の中に初めて登場し、全120回のうち3回に登場するが、回目に名が載ることはない。第80回では即位を請う治中として、第91回では北伐の際に残された尚書として名前だけが出る。 正史 蜀書 巻11 §50演義 第65回 §46演義 第80回 §37演義 第91回 §40
楊洪は字を季休といい、犍為武陽の人である。劉璋の時代に諸郡の官職を歴任した。劉備が蜀を平定すると、太守李厳が彼を功曹とした。李厳が郡治の官舎を移そうとすると、楊洪は強く諫めたが李厳は聞き入れず、楊洪はついに功曹を辞して退くことを願い出た。李厳は楊洪を州に推挙し、部蜀従事とした。 正史 蜀書 巻11 §28
劉備が漢中を争った際、急ぎ書簡を送って兵を徴発させると、軍師将軍諸葛亮はこれを楊洪に諮った。楊洪は「漢中は益州の喉元であり、存亡の分かれ目です。漢中がなければ蜀もありません。これは家の門前に迫った禍です。今は男は戦い女は物資を運ぶべき時であり、兵を送るのに何をためらうことがありましょう」と述べた。この時、蜀郡太守法正は劉備に従って北に赴いていたため、諸葛亮は上表して楊洪に蜀郡太守を兼ねさせ、万事がよく処理されると正式に任命した。まもなく益州治中従事に移った。 正史 蜀書 巻11 §28–29
先主伝によれば、建安25年(220)、魏の文帝が尊号を称し、漢の皇帝が害されたとの噂が伝わったのち、各地から瑞兆が報告された。そこで治中従事楊洪は偏将軍張裔・黄権、勧学従事譙周らとともに上書し、図讖と緯書の徴験を挙げて、劉備に天に応じ民に従って速やかに大業に就くよう請うた。 正史 蜀書 巻2 §55 · 59
劉備は尊号を称したのち呉を討ったが勝てず、帰って永安に留まった。平素から諸葛亮に良く思われていなかった漢嘉太守黄元は、劉備が病んだと聞いて後の禍を恐れ、郡を挙げて反乱を起こし、臨邛城を焼いた。この時、諸葛亮は東へ見舞いに赴いており、成都は空になっていた。楊洪はただちに太子に申し上げて太子の親兵を送り出し、将軍陳曶・鄭綽に黄元を討たせた。 正史 蜀書 巻11 §30
人々は、黄元が成都を包囲できなければ越巂を経て南中を占拠するだろうと論じた。楊洪は「黄元はもともと凶暴で、人に恩義や信義を施したことがないのに、どうしてそのようなことができましょう。せいぜい川の流れに乗って東へ下り、主上がご無事であることを願って自ら縛って死を請うか、別の考えがあれば呉に逃げて生き延びようとするだけです」と言い、陳曶・鄭綽に南安の峡口で遮りさえすれば捕らえられると述べた。陳曶と鄭綽は楊洪の言葉に従い、果たして黄元を捕らえた。先主伝は、黄元が兵を挙げたのを章武2年冬12月(西暦223年初め)、臨邛県を攻めたのを章武3年(223)3月と記し、敗れた黄元は流れに沿って江を下る途中で自らの親兵に縛られ、生きたまま成都に送られて斬られたと記す。 正史 蜀書 巻11 §30–31正史 蜀書 巻2 §72–73
楊洪は建興元年(223)に関内侯の爵位を賜り、再び蜀郡太守・忠節将軍となり、のちに越騎校尉となって従来どおり郡を治めた。 正史 蜀書 巻11 §31
建興5年(227)、丞相諸葛亮は北の漢中に駐留し、張裔を留府長史に用いようとして楊洪にどうかと尋ねた。楊洪は、張裔は生まれつき聡明で細やかであり、煩雑な事務を治めるのに長けているので才能はその任に堪えるが、性格が公平でないので全面的に任せることはできないだろうと述べた。そして向朗を残し、張裔は傍らに随行させてその才能を発揮させれば、双方にとって良いだろうと答えた。 正史 蜀書 巻11 §32
これより先、張裔は若い頃に楊洪と親しかった。張裔が呉に流されていた時、楊洪が張裔の本郡を治めたが、張裔の子張郁が郡吏を務めていて小さな過ちで罰を受けた際、楊洪は特に寛大に扱わなかった。のちに帰還した張裔はこれを聞いて深く恨み、二人の友情は損なわれた。楊洪は諸葛亮に会って退出すると張裔のもとへ行き、自分の言ったことをすべて話した。張裔は「公が私を残すと決められたのだから、それで終わりです。明府でも止められません」と答えた。張裔は射声校尉として留府長史を兼ねた。 正史 蜀書 巻11 §32–33 · 25
当時の人々の中には、楊洪が自ら長史になりたかったのではないかと疑う者もいれば、張裔が自分を嫌っていると知って、張裔が要職に就き後方の事を司るのを望まなかったのではないかと疑う者もいた。のちに張裔は司塩校尉岑述と不和になり、憤り恨むまでに至った。諸葛亮は張裔に書簡を送り、仇敵でさえ推挙して互いに益し合うという石交の道を挙げて彼を責めた。論者たちはこれによって、楊洪に私心がなかったことをはっきりと知った。 正史 蜀書 巻11 §33–34
楊洪は若い頃学問を好まなかったが、忠実で清廉、誠実で聡明であり、国事を自分の家の事のように憂え、継母に至孝をもって仕えた。建興6年(228)、在職のまま没した。はじめ楊洪が李厳の功曹であった時、李厳がまだ犍為を去らないうちに楊洪はすでに蜀郡太守になっていた。楊洪が門下書佐として迎えた何祗は、才略と事務の能力があって郡吏に推挙され、数年で広漢太守となったが、その時楊洪もまだ蜀郡にいた。このため西方の人々は皆、諸葛亮が当時の人々の才能を余すところなく用いることができると感服した。 正史 蜀書 巻11 §35 · 37
楊戯が延熙4年(241)に著した『季漢輔臣賛』は、彼を「越騎校尉はひたすら忠実で、志を励まして自らを慎み、内外の職にあっては公を思い私を忘れた」と讃えた。陳寿は評で霍峻・王連・向朗・張裔・費詩とともに彼を挙げ、楊洪は心を忠と公に専らにしたとし、皆記録すべき点があると述べた。 正史 蜀書 巻15 §33 · 58正史 蜀書 巻11 §50
演義第65回で、劉備は自ら益州牧となり、降伏した文武の官僚に厚く恩賞を与えて名号と爵位を定める。楊洪は呉懿・李厳・譙周・霍峻・費禕・費詩らとともに、登用された六十余人の降伏官僚の中に名が出る。 演義 第65回 §46
第80回で、諸葛亮が寝台から起き上がって屏風を一度打つと、外にいた文武の官僚が入ってきて地に伏し、日を選んで大礼を行うよう請う。演義はその中に治中楊洪を、太傅許靖、太常卿頼恭、光禄卿黄権、司業譙周、偏将軍張裔らとともに記し、漢中王は自分を不義に陥れたのは皆そなたたちだと驚く。 演義 第80回 §37–38
第91回で、諸葛亮は北伐を請う表を奉り、天文を挙げて諫める譙周の言葉に従わない。出発に先立ち、郭攸之・董允・費禕を侍中として、張裔を長史として残し、杜微と楊洪を尚書として、内外の文武官僚百余人とともに蜀の政務を治めさせる。演義で楊洪が登場するのはこの回が最後である。 演義 第91回 §39–40
登用:演義第65回で、楊洪は劉備が益州牧となったのち登用した降伏官僚の中に名前だけが出る。正史では李厳の功曹であったが、郡治を移すことを強く諫めて退き、李厳の推挙で部蜀従事となった。劉備が漢中を争った時に兵を送るべきだと諸葛亮に述べたのち、蜀郡太守を兼ね、やがて正式に任命された。 演義 第65回 §46正史 蜀書 巻11 §28–29
即位の勧め:演義第80回では、諸葛亮が屏風を打つ合図に合わせて治中楊洪らが入ってきて伏し、大礼を請う。正史の先主伝では、建安25年(220)に各地から瑞兆が報告されたのち、治中従事楊洪がほかの官僚とともに図讖と緯書の徴験を挙げ、大業に就くよう請う上書をした。 演義 第80回 §37正史 蜀書 巻2 §55 · 59
黄元の反乱:演義では楊洪は第65・80・91回に名前だけが出て、漢嘉太守黄元の反乱は描かれない。正史では、劉備が永安で病に倒れた時、楊洪は反乱を起こした黄元を討つ兵を太子に申し上げて送り出し、南安の峡口で遮らせて捕らえた。 演義 第65回 §46演義 第80回 §37演義 第91回 §40正史 蜀書 巻11 §30–31
北伐時の職位:演義第91回で、諸葛亮は北伐に出るにあたり楊洪を尚書として残す。正史では、楊洪は建興元年(223)に再び蜀郡太守・忠節将軍となり、のちに越騎校尉として従来どおり郡を治めたのであって、尚書になったという記録はない。 演義 第91回 §40正史 蜀書 巻11 §27–35
張裔の起用:演義第91回で、諸葛亮は張裔を長史として残して丞相府の事務を任せるが、それに先立って楊洪に尋ねる場面はない。正史では、建興5年(227)に諸葛亮が張裔を留府長史に用いようと楊洪に尋ねると、楊洪は張裔の性格が公平でないとして向朗を残すよう答えた。それでも張裔は留府長史を兼ねた。 演義 第91回 §40正史 蜀書 巻11 §32 · 25
死:演義では楊洪は第91回を最後に登場せず、死も記されない。正史は、彼が建興6年(228)に在職のまま没したと記す。 演義 第91回 §40正史 蜀書 巻11 §35
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
正忠実・清廉で継母に孝行し、評は心を忠と公に専らにしたとする蜀書 巻11 §35蜀書 巻11 §50
演直接の記録なし第80回 §37
正張裔が公平でないことを指摘し、取り立てた何祗は広漢太守となった蜀書 巻11 §32蜀書 巻11 §37
演直接の記録なし第65回 §46
正漢中を益州の喉元と述べ、黄元の逃げ道を言い当てた蜀書 巻11 §28蜀書 巻11 §31
演直接の記録なし第80回 §37
正蜀郡太守を兼ねて万事をよく処理し、正式に任命された蜀書 巻11 §29蜀書 巻11 §31
正太子の親兵と陳曶・鄭綽を送って黄元を討たせた蜀書 巻11 §30
演直接の記録なし第65回 §46
正漢中への派兵をためらう理由はないと説いた蜀書 巻11 §28
演直接の記録なし第80回 §37
正李厳に諫めても聞き入れられず、功曹を辞した蜀書 巻11 §28
演直接の記録なし — 劉備に降って登用された第65回 §46
正若い頃学問を好まなかったと記録される蜀書 巻11 §35
演直接の記録なし第91回 §40
正直接の記録なし蜀書 巻11 §28
演直接の記録なし第65回 §46
正直接の記録なし蜀書 巻11 §35
演直接の記録なし第65回 §46
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。