霍峻

正史演義 蜀 字 仲邈 Huo JunZhongmiao곽준중막

プロフィール
職業正武将 · 裨将軍所属蜀
登場正演収録蜀書
出生正178年 推定出身地南郡 枝江県
死去正217年 推定死去地
実在実在言及正6回

人物紹介

霍峻は字を仲邈といい、南郡枝江県の人である。兄が集めた部曲を劉表の命で引き継いで率い、劉表が死ぬと衆を率いて劉備に帰順し、中郎将となった。 正史 蜀書 巻11 §2

劉備が劉璋を討つため南へ転じたとき葭萌城を守り、劉璋の将たちが一万余人で一年近く包囲したが、数百人の兵で持ちこたえ、打って出て大いに破った。蜀が平定されると、新設された梓潼郡の太守・裨将軍となり、三年後に四十歳で死去した。 正史 蜀書 巻11 §2–3

陳寿は評で、彼が孤城を守って傾かせなかったと述べた。演義では第62回に孟達が推挙する人物として初めて登場し、全120回のうち3回に登場するが、回目に名が入った回はない。孟達とともに葭萌関を守る将として登場する。 正史 蜀書 巻11 §50演義 第62回 §52演義 第70回 §23

正史の記録

霍峻は字を仲邈といい、南郡枝江県の人である。兄の霍篤が郷里で部曲数百人を集めていたが、霍篤が死ぬと荊州牧劉表は霍峻にその衆を率いさせた。劉表が死ぬと霍峻は衆を率いて劉備に帰順し、劉備は彼を中郎将とした。 正史 蜀書 巻11 §2

劉備が葭萌から南へ転じて劉璋を襲ったとき、霍峻を残して葭萌城を守らせた。張魯が将の楊帛を遣わし、ともに城を守ろうと持ちかけて霍峻を誘うと、霍峻は「小人の首は得られても、城は得られぬ」と言い、楊帛は退いた。 正史 蜀書 巻11 §2–3

のちに劉璋の将扶禁・向存らが一万余人を率いて閬水を遡り、霍峻を攻めて包囲したが、一年近くたっても陥とせなかった。城中の兵はわずか数百人であったが、霍峻は敵が緩んだ隙をうかがい、精鋭を選んで打って出て大いに破り、その場で向存の首を斬った。 正史 蜀書 巻11 §3

劉備は蜀を平定すると霍峻の功を嘉し、広漢郡を分けて梓潼郡を設け、霍峻を梓潼太守・裨将軍とした。劉備が雒城を破り成都を囲んで劉璋の降伏を受けたのは、建安19年(214)のことである。 正史 蜀書 巻11 §3正史 蜀書 巻2 §33

霍峻は在官三年にして四十歳で死去し、成都に帰葬された。劉備はひどく悼み惜しんで諸葛亮に「霍峻は立派な士であるうえ国に功があるので、爵位を与えたい」と詔した。そして自ら群臣を率いて弔祭に臨み、さらに墓のそばに泊まったので、当時の人々はこれを栄誉とした。 正史 蜀書 巻11 §3–4

子の霍弋は字を紹先といい、劉備の晩年に太子舎人となり、のちに南方の諸郡の事務を統べた。景耀6年(263)、蜀が魏に併合されると、一方面を保全したうえでそのまま魏に帰順した。 正史 蜀書 巻11 §6–8

陳寿は蜀書巻11の評で、霍峻は孤城を守って傾かせなかったと述べ、王連・向朗・張裔・楊洪・費詩とともに、みな記すべき点があるとした。 正史 蜀書 巻11 §50

演義の描写

演義第62回で、東呉の孫権が東川の張魯と手を結んで葭萌関を攻めようとしているとの報が入ると、龐統は孟達に葭萌関を守らせようとする。孟達はともに関を守る者として「かつて荊州の劉表の配下で中郎将を務めた、南郡枝江の人で、姓は霍、名は峻、字は仲邈」という人物を推挙し、劉備は大いに喜んで、すぐに孟達と霍峻を葭萌関へ送る。 演義 第62回 §51–52

第65回では、孟達と霍峻が守る葭萌関を、張魯の遣わした馬超が楊柏・馬岱とともにきわめて激しく攻めているという早馬の報が届く。馬超が劉備に帰順したのち、劉備は再び霍峻と孟達に関を守らせて成都へ進む。劉備が益州牧となって降った文武の官を抜擢するとき、その名簿に霍峻の名も入っている。 演義 第65回 §7 · 36 · 46

第70回で張郃の軍が葭萌関に迫ると、霍峻は堅守のみを望んだが、孟達はあくまで打って出て迎え撃ち、大敗する。霍峻は急ぎ文書を送って成都に知らせる。劉備が黄忠と厳顔を遣わして張郃と戦わせると、孟達と霍峻は、これほど重要な地になぜ老人二人だけを寄こしたのかと内心あざ笑う。 演義 第70回 §23 · 26–27

黄忠は連敗して関上へ退き、敵を驕らせたのち、夜に反撃に出る際「今夜、霍峻は残って関を守れ」と言う。演義で霍峻はこの回を最後に登場しない。 演義 第70回 §35–37

演義と異なる点

中郎将:演義第62回で、孟達は霍峻をかつて劉表の配下で中郎将を務めた人物と紹介する。正史では、霍峻は劉表の命で兄の衆を率いたのであり、中郎将は劉表の死後に帰順した彼に劉備が与えた官職である。 演義 第62回 §52正史 蜀書 巻11 §2

葭萌を任された経緯:演義第62回では、孟達の推挙により孟達とともに葭萌関を守りに行く。正史では、劉備が葭萌から南へ劉璋を討ちに向かう際に霍峻を残して葭萌城を守らせたのであり、霍峻伝に孟達は登場しない。正史の劉封伝では、劉備は孟達に彼が率いてきた兵を併せて率いさせ、江陵に留めて駐屯させた。 演義 第62回 §52正史 蜀書 巻11 §2–3正史 蜀書 巻10 §3

張魯の将楊帛:正史では、張魯が将の楊帛を遣わし、ともに城を守ろうと霍峻を誘ったが、霍峻が「首は得られても城は得られぬ」と言うと退いた。演義第65回では、張魯の遣わした馬超が楊柏・馬岱とともに葭萌関を攻めるという報が出るだけで、霍峻のこの言葉はない。 正史 蜀書 巻11 §2–3演義 第65回 §7

一年の籠城:正史で霍峻は、劉璋の将扶禁・向存ら一万余人に一年近く包囲されたのち、数百人で打って出て向存を斬った。演義には扶禁・向存も、この戦いも登場しない。 正史 蜀書 巻11 §3演義 第62回 §52演義 第65回 §7 · 36

蜀平定後の処遇:演義第65回で、霍峻は劉備が抜擢した降伏官員の名簿に名が入っている。正史で霍峻は劉表の死後に劉備に帰順した人物であり、劉備はその功を嘉して広漢郡を分けて梓潼郡を設け、彼を梓潼太守・裨将軍とした。 演義 第65回 §46正史 蜀書 巻11 §2–3

張郃が来た葭萌関:演義第70回で霍峻は、張郃が攻め寄せた葭萌関を孟達とともに守り、黄忠が反撃する夜にも関に残る。正史の霍峻伝には、蜀平定後に梓潼太守となったことと三年後に死んだことしかなく、張郃・黄忠とともに登場する場面はない。 演義 第70回 §23 · 37正史 蜀書 巻11 §1–4

死:演義で霍峻は第70回を最後に登場せず、死も描かれない。正史では四十歳で死去して成都に葬られ、劉備が自ら群臣を率いて弔問し、墓のそばに泊まった。 演義 第70回 §37正史 蜀書 巻11 §3–4

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率7455−19
  • 武力5040−10
  • 知力5550−5
  • 政治4840−8
  • 魅力5840−18
  • 徳8255−27
  • 処世5545−10
  • 文芸3531−4
  • 弁舌4035−5
  • 用人3832−6
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

徳正82演55推定 −27

正首は得られても城は得られぬと言い、評は孤城を守ったとする蜀書 巻11 §2蜀書 巻11 §50

演直接の記録なし — 関を守り急報を送ったことから推定第70回 §23

武力正50演40推定 −10

正精鋭を選んで出撃し、向存の首を斬った蜀書 巻11 §3

演直接の記録なし — 関を守る将であることから推定第62回 §52

処世正55演45推定 −10

正劉表が死ぬと衆を率いて先主に帰順した蜀書 巻11 §2

演直接の記録なし — 関を守る将であることから推定第70回 §23

近い項目 5件 — 根拠を見る
  • 知力正55演50 −5

    正敵が緩んだ隙をうかがって出撃した蜀書 巻11 §3

    演孟達と違って堅守を説き、孟達は出撃して敗れた第70回 §23

  • 政治正48推定演40推定 −8

    正直接の記録なし — 梓潼太守の職から推定蜀書 巻11 §3

    演直接の記録なし — 登用された官員の名簿から推定第65回 §46

  • 文芸・学術正35推定演31推定 −4

    正直接の記録なし — 武将の職から推定蜀書 巻11 §4

    演直接の記録なし — 武将であることから推定第62回 §52

  • 弁舌・外交正40演35推定 −5

    正楊帛の誘いを一言で退けた蜀書 巻11 §2

    演直接の記録なし — 武将であることから推定第70回 §23

  • 識人・用人正38推定演32 −6

    正直接の記録なし — 武将の職から推定蜀書 巻11 §3

    演黄忠・厳顔を見て、老人二人だけを寄こしたと嘲った第70回 §27

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(3回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

所属の変遷

  1. 蜀 · 正史 · 正史 巻41 「表卒,峻率眾歸先主」

家族

子霍弋 正史

Wikidataの歴史・演義人物項目に基づく。推定バッジのない関係は正史原文でも確認済み。

関連事件(2)

ウィキペディア情報ボックス・原文キーワードの自動照合(推定)を含みます。