劉璿
人物紹介
劉璿は蜀の後主の太子で、字は文衡である。母の王貴人は、もとは敬哀皇后の侍女であった。延熙元年(238)正月、15歳で皇太子に立てられた。 正史 蜀書 巻4 §24–25正史 蜀書 巻3 §19
霍弋・譙周・李譔らが太子の官属として彼に仕え、費禕の長女が太子妃となった。景耀6年(263)冬に蜀が滅んだ後、咸熙元年(264)正月に鍾会が成都で乱を起こしたとき、乱兵に殺害された。 正史 蜀書 巻11 §6正史 蜀書 巻12 §47 · 53正史 蜀書 巻14 §27正史 蜀書 巻4 §25
陳寿は巻4二主妃子伝に彼の記録を短く残し、その巻の評では彼を別に論じていない。演義では第118回に後主の長男として初めて名が出て、全120回のうち2回に登場するが、回目に名が見える回はない。第119回で魏の兵に殺される。 正史 蜀書 巻4 §27演義 第118回 §4演義 第119回 §22
正史の記録
後主の太子劉璿は字を文衡という。母の王貴人は、もとは敬哀皇后の侍女であった。延熙元年(238)春正月、後主は張皇后を立て、大赦して改元し、子の劉璿を太子に、子の劉瑤を安定王に立てた。 正史 蜀書 巻4 §24正史 蜀書 巻3 §19
策文は、昔から帝王は世継ぎを立てて国の統を継ぐ副としてきたとして、劉璿を皇太子とし、行丞相事・左将軍向朗に節を持たせて印綬を授けさせた。そして、優れた資質を努めて修め、道義を敬い慎み、典礼を問い学び、師傅を敬い親しんで徳を成すよう諭した。このとき劉璿は15歳であった。 正史 蜀書 巻4 §24–25
後主が太子を立てると、李譔は庶子となり、僕射に移り、中散大夫・右中郎将に転じた後もなお太子に仕えた。太子は彼の博識を愛してたいへん気に入ったが、李譔は振る舞いが軽く冗談やからかいを好んだため、世間は彼を重んじなかった。譙周も太子僕となって家令に移り、中散大夫となった後も太子に仕えた。 正史 蜀書 巻12 §47 · 53 · 60
霍弋は太子劉璿の中庶子となった。劉璿は騎射を好んで出入りに節度がなかったが、霍弋が古の道理を引いて言葉を尽くして諫めたので、互いに切磋する道をよく得たと陳寿は記した。 正史 蜀書 巻11 §6
孟光は郤正に、太子が習い読んでいるものと性情・好みを尋ねた。郤正は、太子は親に敬虔恭順に仕えて昼夜怠らず、古の世子の風があり、群臣に接する振る舞いは仁と寛恕から出ていると答えた。孟光が、それはどの家にもあることだと言って権略と智謀を問うと、郤正は、世子の道は志を承け歓びを尽くすことにあり、智謀と権略の有無はあらかじめ定めることはできないと言った。孟光は、天下がまだ定まっていないのだから智謀が先であり、儲君の読書は博士が策を探って講試を受けるようなものであってはならず、急務に努めるべきだと言った。郤正はその言葉を深くもっともだと思った。 正史 蜀書 巻12 §35–37
費禕の長女は太子劉璿に嫁いで太子妃となった。 正史 蜀書 巻14 §27
景耀6年(263)冬に蜀が滅んだ。咸熙元年(264)正月に鍾会が成都で乱を起こしたとき、劉璿は乱兵に殺害された。 正史 蜀書 巻4 §25
巻4二主妃子伝の評で陳寿は、『易』に夫婦があってのち父子があるというように、人倫の始めとしてこれより尊いものはないとし、これを記録して一国の体制を究めようとするとだけ記した。太子劉璿を別に評してはいない。 正史 蜀書 巻4 §27
演義の描写
演義第118回で、後主が譙周の言に従って降伏しようとすると、五男の北地王劉諶が屏風の後ろから出てきて譙周を叱りつける。この場面で演義は、後主には七人の子がいたとして長男劉璿から七男劉璩まで名を並べ、七人の子のうちただ劉諶だけが幼い頃から聡明で英敏であり、残りはみな軟弱で柔順であったと記す。 演義 第118回 §4–5
第119回で、姜維・鍾会・鄧艾が死に、張翼らも乱軍の中で死んだ後、太子劉璿と漢寿亭侯関彝もともに魏の兵に殺される。演義は、このとき兵と民が大いに乱れ、互いに踏みつけ合って死んだ者は数えきれなかったと記し、続いてこの年が魏の景元5年を改めた咸熙元年であると明かす。 演義 第119回 §22–23
演義と異なる点
性格:演義第118回は、後主の七人の子のうち劉諶だけが聡明で、残りはみな軟弱で柔順であったと記す。正史の霍弋の記録では、太子劉璿は騎射を好んで出入りに節度がなく、李譔の記録では博識な李譔をたいへん気に入っていた。 演義 第118回 §5正史 蜀書 巻11 §6正史 蜀書 巻12 §47
太子冊立と官属:正史では劉璿は延熙元年(238)に15歳で皇太子に立てられ、李譔・譙周・霍弋が太子に仕え、費禕の長女が太子妃となった。演義では長男として名が出て「太子劉璿」と呼ばれるだけで、これらのことは出てこない。 正史 蜀書 巻4 §24–25正史 蜀書 巻12 §47 · 53正史 蜀書 巻11 §6正史 蜀書 巻14 §27演義 第118回 §4演義 第119回 §22
死:演義第119回では、姜維・鍾会・鄧艾が死んだ後の混乱の中で魏の兵に殺される。正史は、咸熙元年(264)正月に鍾会が成都で乱を起こしたとき、乱兵に殺害されたと記す。 演義 第119回 §22正史 蜀書 巻4 §25
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能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率3131±0
- 武力3131±0
- 知力3835−3
- 政治3835−3
- 魅力3835−3
- 徳4542−3
- 処世3533−2
- 文芸4035−5
- 弁舌3533−2
- 用人3533−2
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
10点以上の差がある項目はありません — 演義も正史とほぼ同じように描いています。
近い項目 10件 — 根拠を見る
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。