劉璩
人物紹介
劉璩は蜀漢の後主の子である。陳寿の本文には登場せず、裴松之の注にのみ記録がある。陳寿の本文の後主伝は、後主の子の劉璿・劉瑤・劉琮・劉瓚・劉諶・劉恂・劉虔を太子や王に立てたことを順に記すが、劉璩の名は挙げていない。 正史 蜀書 巻3 §19 · 32 · 36 · 39正史 蜀書 巻4 §25
演義では第118回に後主の7人の子のうち七男として名だけが見え、120回のうち1回に登場し、名が回目に入った回はない。演義は、7人の子のうち五男の北地王劉諶だけが聡明で英敏さが人より優れ、残りはみな懦弱で温順であったと記す。 演義 第118回 §4–5
演義の描写
演義第118回で、鄧艾が綿竹を奪い、諸葛瞻父子がすでに死んだとの知らせが成都に届くと、官員たちは南中の七郡へ逃れるか、呉に身を寄せるかを議論する。光禄大夫の譙周は、呉に身を寄せるより魏に降るほうがよいと言い、翌日ふたたび上疏して諫める。後主が譙周の言に従って出て降伏しようとすると、屏風の後ろから五男の北地王劉諶が現れて譙周を罵る。 演義 第118回 §1–4
演義はこの場面で後主の7人の子を挙げる。長男は劉璿、次男は劉瑤、三男は劉琮、四男は劉瓚、五男が北地王劉諶、六男は劉恂、七男は劉璩である。7人の子のうち劉諶だけが幼いころから聡明で英敏さが人より優れ、残りはみな懦弱で温順であったという。演義で劉璩の名が出るのはこの一度だけである。 演義 第118回 §4–5
劉諶は城を背に一戦して社稷とともに死のうと泣いて諫めるが、後主は聞き入れず、近臣に命じて彼を宮門の外へ押し出させたのち、譙周に降伏の文書を作らせる。12月1日に君臣が出て降伏することが決まると、劉諶は妻の崔夫人が先に死んだのち3人の子を殺し、昭烈皇帝(劉備)の廟で自ら首をはねる。翌日、魏軍が大挙して至ると、後主は太子と諸王、臣下60人余りを率い、自ら後ろ手に縛り棺を車に載せて、北門の外10里まで出て降伏する。 演義 第118回 §6–7 · 9–11 · 13
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
陳寿『三国志』本文に記録がないため、演義の点数のみです。
- 統率33
- 武力33
- 知力38
- 政治35
- 魅力38
- 徳45
- 処世40
- 文芸38
- 弁舌35
- 用人35
項目別の根拠
演直接の記録なし — 後主の七男として名が出るのみ第118回 §4
演直接の記録なし — 後主の七男として名が出るのみ第118回 §4
演直接の記録なし — 後主の七男として名が出るのみ第118回 §4
演直接の記録なし — 後主の七男として名が出るのみ第118回 §4
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演直接の記録なし — 後主の七男として名が出るのみ第118回 §4
演直接の記録なし — 後主の七男として名が出るのみ第118回 §4
演直接の記録なし — 後主の七男として名が出るのみ第118回 §4
演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。