後主張皇后
人物紹介
張皇后は後主の皇后で、先の皇后である敬哀皇后の妹である。敬哀皇后は車騎将軍張飛の長女である。建興15年(237)に入宮して貴人となり、延熙元年(238)春正月に皇后に立てられた。咸熙元年(264)、後主に従って洛陽に移った。 正史 蜀書 巻4 §13 · 15
陳寿の本文は、彼女の名と字、年齢、洛陽に移ってからのことや死を記していない。巻4二主妃子伝の評は、夫婦があってのちに父子があるという『易』の言葉を引いて、これを記録して一国の体制を究めようとすると述べるのみで、彼女を別に評してはいない。演義には登場しない。 正史 蜀書 巻4 §14–15 · 27
正史の記録
蜀書巻4二主妃子伝によれば、後主の張皇后は先の皇后である敬哀皇后の妹である。敬哀皇后は車騎将軍張飛の長女で、章武元年(221)に太子妃となり、建興元年(223)に皇后に立てられたが、建興15年(237)に薨じて南陵に葬られた。後主伝は、15年夏6月に皇后張氏が薨じたと記す。 正史 蜀書 巻4 §13 · 15正史 蜀書 巻3 §18
張皇后は建興15年(237)に入宮して貴人となった。延熙元年(238)春正月、後主は策文を下し、大業を継いで天下に君臨し、郊廟と社稷を奉じているとして、いま貴人を皇后とすると述べ、行丞相事・左将軍向朗に節を持たせて璽綬を授けさせた。策文は、中饋の務めに励み、祭祀を慎んで厳粛に奉じるよう諭した。 正史 蜀書 巻4 §15
後主伝は、延熙元年春正月に張氏を皇后に立て、大赦して改元し、子の劉璿を太子に、子の劉瑤を安定王に立てたと記す。太子劉璿の伝は、その母の王貴人がもとは敬哀張皇后の侍女であったと記す。 正史 蜀書 巻3 §19正史 蜀書 巻4 §24
景耀6年(263)冬、蜀が滅んだ。咸熙元年(264)、張皇后は後主に従って洛陽に移った。後主伝は、後主が一家を挙げて東に移り、洛陽に着いて安楽県公に封じられたと記す。 正史 蜀書 巻4 §25 · 15正史 蜀書 巻3 §48
陳寿の本文は、張皇后の名と字、年齢、洛陽に移ってからのことや死を記していない。巻4の評は、『易』に夫婦があってのちに父子があるというのを引いて、これが人倫の始めであるとし、それゆえこれを記録して一国の体制を究めようとすると述べた。 正史 蜀書 巻4 §14–15 · 27
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。
- 統率31
- 武力31
- 知力35
- 政治33
- 魅力40
- 徳45
- 処世38
- 文芸35
- 弁舌33
- 用人33
項目別の根拠
正直接の記録なし — 貴人を経て皇后に冊立された記録のみ蜀書 巻4 §15
正直接の記録なし — 貴人を経て皇后に冊立された記録のみ蜀書 巻4 §15
正直接の記録なし — 貴人を経て皇后に冊立された記録のみ蜀書 巻4 §15
正直接の記録なし — 貴人を経て皇后に冊立された記録のみ蜀書 巻4 §15
正直接の記録なし — 貴人を経て皇后に冊立された記録のみ蜀書 巻4 §15
正直接の記録なし — 貴人を経て皇后に冊立された記録のみ蜀書 巻4 §15
正直接の記録なし — 貴人を経て皇后に冊立された記録のみ蜀書 巻4 §15
正直接の記録なし — 貴人を経て皇后に冊立された記録のみ蜀書 巻4 §15
正直接の記録なし — 貴人を経て皇后に冊立された記録のみ蜀書 巻4 §15
正直接の記録なし — 貴人を経て皇后に冊立された記録のみ蜀書 巻4 §15
正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。
所属の変遷
- 蜀 · 正史 · 正史 巻34 「建興十五年,入為貴人」