正直接の記録なし — 東興で魏の諸将が敵を侮った呉書 巻19 §29
胡遵
人物紹介
胡遵は安定の人である。正史には独立した伝がなく、魏の本紀や諸人の伝に名が見える。張既が礼を尽くして招き用いた人々の一人で、張既伝は彼らがついにみな名声と地位を得たと記す。 正史 魏書 巻15 §55
司馬懿の配下の将軍として匈奴の反乱を討伐し、遼東では公孫淵の将卑衍を破った。征東将軍として東興の呉の堤と城を攻めたが諸葛恪に大敗し、毌丘倹と文欽が反乱すると青州・徐州の軍を率いて彼らの帰路を断った。衛将軍に昇り、甘露元年(256)に死去した。 正史 魏書 巻3 §32正史 魏書 巻8 §47正史 魏書 巻4 §34 · 56 · 75正史 呉書 巻19 §28–30正史 魏書 巻28 §22
演義では第106回に司馬懿の遼東征伐の先鋒として初めて登場し、全120回のうち3回に登場するが、名が回目に入った回はない。第108回では東興の戦いの先鋒となり、雪の降る日に酒宴を開いていたところを丁奉の奇襲を受けて逃げる。 演義 第106回 §9演義 第108回 §10 · 13–17
正史の記録
胡遵は安定の人である。張既は二州を十余年にわたって治め、扶風の龐延、天水の楊阜、安定の胡遵、酒泉の龐淯、敦煌の張恭、周生烈らを礼を尽くして招き用いたが、彼らはついにみな名声と地位を得た。正史は胡遵の字と若い頃のことを記していない。 正史 魏書 巻15 §55
青龍元年(233)秋9月、安定の保塞匈奴の大人胡薄居姿職らが反乱すると、司馬懿が将軍胡遵らを派遣して追討させ、これを破って降伏させた。 正史 魏書 巻3 §28 · 32
景初2年(238)6月、公孫淵を征伐に向かった司馬懿の軍が遼東に至った。公孫淵は将軍卑衍・楊祚らに歩騎数万を率いて遼隧県に駐屯させ、めぐらした塹壕は20余里に及んだ。司馬懿の軍が到着すると公孫淵は卑衍に迎え撃たせ、司馬懿は将軍胡遵らを派遣してこれを撃破した。司馬懿は続いて包囲を突き抜け、襄平へ急行した。 正史 魏書 巻8 §47
嘉平4年(252)冬11月、詔を下して征南大将軍王昶・征東将軍胡遵・鎮南将軍毌丘倹らに呉を討たせた。これに先立つ同年10月、呉の諸葛恪は東興に再び大堤を築き、左右の山に拠って二つの城を築いて全端と留略に守らせていた。魏は大将胡遵・諸葛誕らに7万の兵を率いさせ、二つの塢を包囲攻撃して堤を壊させようとした。 正史 魏書 巻4 §34正史 呉書 巻19 §28正史 呉書 巻3 §4
胡遵らは麾下の諸軍に命じて浮橋を作って渡らせ、堤の上に陣を敷いてから兵を分けて二つの城を攻めた。しかし城は高く険しい所にあり、すぐには落とせなかった。諸葛恪は兵4万で昼夜を分かたず救援に駆けつけ、留賛・呂拠・唐咨・丁奉を先鋒として送った。寒く雪が降っており、魏の諸将は集まって酒を飲んでいたが、留賛らの兵が少なく、鎧を脱いで兜と刀・盾だけを備えているのを見て大いに笑い、すぐには兵を整えなかった。 正史 呉書 巻19 §29
呉軍が堤の上に登って太鼓を鳴らし手当たり次第に斬りかかると、魏軍は驚いて散り散りになり先を争って浮橋を渡り、橋が壊れて切れると自ら水に飛び込み互いに踏みつけ合った。楽安太守桓嘉らがともに死に、死者は数万に上り、魏の前軍督となっていた韓綜も斬られた。朱異伝は、朱異が水軍を率いて浮橋を攻めて壊し、魏軍が大敗したと記す。魏の本紀は、12月に呉の大将軍諸葛恪が迎え撃って東関で諸軍を大破し、魏軍は不利となって引き返したと記す。呉の記録で魏軍が大敗した日は12月戊午の日で、西暦では253年の初めにあたる。 正史 呉書 巻19 §30正史 呉書 巻11 §65正史 魏書 巻4 §34正史 呉書 巻3 §4–5
正元2年(255)春正月、鎮東将軍毌丘倹と揚州刺史文欽が反乱し、淮水を渡って項県に至った。大将軍司馬師はこれを討つにあたり、別に諸葛誕に豫州の諸軍を率いて安風津から寿春をうかがわせ、征東将軍胡遵に青州・徐州の諸軍を率いて譙と宋の間に出て彼らの帰路を断たせた。司馬師は諸軍に城壁を固く守って戦わないよう命じ、毌丘倹と文欽は進んでも戦えず、退こうにも寿春が襲われることを恐れて、計略が尽きた。 正史 魏書 巻4 §54正史 魏書 巻28 §21–22
同年秋7月、征東大将軍胡遵は衛将軍となり、鎮東大将軍諸葛誕が征東大将軍となった。甘露元年(256)秋7月己卯の日、衛将軍胡遵が死去した。正史は彼の死因と年齢を記していない。 正史 魏書 巻4 §56 · 75
演義の描写
演義第106回で、司馬懿は公孫淵討伐に出るにあたり胡遵を先鋒とし、先に遼東に陣営を築かせる。公孫淵が卑衍と楊祚に8万の兵で遼隧に20余里の堀をめぐらせて守らせると、胡遵はこれを司馬懿に知らせ、司馬懿はそこを捨て置いて間道から襄平へ向かう。公孫淵父子が夜に城を抜け出して司馬懿に道を阻まれると、胡遵の兵が到着し、夏侯覇・夏侯威・張虎・楽綝が四方を囲んで、二人は馬を下りて降伏する。司馬懿が襄平を取りに行くと、胡遵はすでに兵を率いて城に入っている。 演義 第106回 §9 · 24–26
第108回で孫権が死ぬと、司馬師は呉を討つことを決め、征南大将軍王昶に南郡を、征東将軍胡遵に東興を、鎮南都督毌丘倹に武昌をそれぞれ兵10万で攻めさせ、弟の司馬昭を大都督として三路を総括させる。その年の冬12月、司馬昭は胡遵を先鋒として三路の兵を総括して進ませ、まず浮橋を架けて東興の大堤を取り、さらに左右の二城を奪えと命じる。 演義 第108回 §7–10
胡遵は浮橋を渡って堤の上に兵を駐屯させ、桓嘉と韓綜に二つの城を攻めさせるが、呉将全端と留略が城を死守して落とせない。胡遵は徐塘に陣営を築き、真冬に大雪が降ると諸将と酒席を設けて盛大な宴を開く。戦船30隻が来るとの報告を受けて出て見ると、「3千人に過ぎぬ、何を恐れることがあろう」と言い、部将に偵察だけさせて相変わらず酒を飲む。 演義 第108回 §13–14
短刀だけを帯びた丁奉の兵が岸に上がって陣営に斬り込み、韓綜と桓嘉を殺すと、胡遵は急いで馬に乗り、道を切り開いて逃げる。魏軍は浮橋へ殺到するが、浮橋はすでに切れていて大半が水に落ちて死に、司馬昭・王昶・毌丘倹も東興の敗報を聞いて兵を収めて退く。のちに諸葛恪が新城を包囲すると、司馬師は主簿の言に従い、司馬昭には郭淮を助けて姜維を防がせ、毌丘倹と胡遵には呉軍を防がせる。 演義 第108回 §15–17 · 20–21
第110回で毌丘倹と文欽が反乱すると、司馬師は病身をおして自ら東へ向かい、征東将軍胡遵に青州の諸軍を率いて譙・宋の地に出て彼らの帰路を断たせる。文欽が項城へ戻ろうとすると胡遵・王基・鄧艾の三路の軍がそろって到着し、毌丘倹が城中の兵をすべて率いて出撃すると、胡遵と王基が四方から挟撃し、毌丘倹は騎兵10余人とともに逃げる。 演義 第110回 §6 · 24–25
演義と異なる点
遼東の先鋒:演義第106回で胡遵は先鋒として先に遼東に陣営を築き、公孫淵父子を包囲したのち司馬懿より先に襄平城に入る。正史公孫淵伝における胡遵の事績は、司馬懿が将軍胡遵らを派遣して、迎え撃ってきた卑衍を撃破したことだけである。 演義 第106回 §9 · 25–26正史 魏書 巻8 §47
東興出征の指揮:演義第108回では司馬昭が大都督として三路を総括し、王昶・胡遵・毌丘倹がそれぞれ兵10万を率いる。正史三少帝紀では詔によって王昶・胡遵・毌丘倹らに呉を討たせ、呉側の記録は諸葛誕・胡遵らが歩騎7万で東興を包囲したと記す。これらの記録に司馬昭の名はない。 演義 第108回 §8正史 魏書 巻4 §34正史 呉書 巻3 §4正史 呉書 巻19 §28
ともに東興を攻めた将:演義第108回で東興を攻めるのは胡遵と、その配下の桓嘉・韓綜である。正史では諸葛誕が胡遵とともに東興を攻撃し、毌丘倹伝は諸葛誕が東関で戦って不利だったと記す。 演義 第108回 §13正史 呉書 巻10 §99正史 魏書 巻28 §19
酒宴と徐塘:演義第108回では胡遵が徐塘に陣営を築いて諸将と酒宴を開き、船30隻を見て3千人だけだと侮る。正史諸葛恪伝と丁奉伝は、寒く雪が降って魏の諸将が集まって酒を飲んだとだけ記し、胡遵の言葉はない。徐塘を占拠したのも丁奉である。 演義 第108回 §13–14正史 呉書 巻19 §29正史 呉書 巻10 §100
崩れた浮橋:演義第108回では丁奉が自ら韓綜を斬り桓嘉を刺し、魏軍はすでに切れた浮橋の前で水に落ちる。正史諸葛恪伝では、魏軍が先を争って浮橋を渡るうちに橋が壊れて切れ、桓嘉らがともに死に、韓綜は斬られた。朱異伝は朱異が水軍で浮橋を攻めて壊したと記す。 演義 第108回 §16–17正史 呉書 巻19 §30正史 呉書 巻11 §65
毌丘倹討伐:演義第110回で胡遵は青州の兵を率いて出陣し、のちに王基とともに毌丘倹を四方から挟撃する。正史で胡遵が率いたのは青州・徐州の諸軍で、任務は譙と宋の間で帰路を断つことだった。司馬師は諸軍に戦わないよう命じ、毌丘倹は文欽が敗れたと聞いて夜に逃げ、軍勢は崩れ去った。 演義 第110回 §6 · 25正史 魏書 巻28 §22 · 24
匈奴討伐:正史明帝紀には、青龍元年(233)に安定の匈奴の大人胡薄居姿職らの反乱を胡遵らが討伐したことが見える。演義で胡遵は第106回に初めて登場し、この件は出てこない。 正史 魏書 巻3 §32演義 第106回 §9
官職と死:演義で胡遵の官職は征東将軍としてのみ現れ、第110回を最後に登場しない。正史では正元2年(255)秋7月に征東大将軍から衛将軍となり、甘露元年(256)秋7月に死去した。 演義 第108回 §8演義 第110回 §6正史 魏書 巻4 §56 · 75
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率5852−6
- 武力4242±0
- 知力4022−18
- 政治3833−5
- 魅力4238−4
- 徳4540−5
- 処世4538−7
- 文芸3131±0
- 弁舌3331−2
- 用人3833−5
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
近い項目 9件 — 根拠を見る
正直接の記録なし — 張既に招かれて名声と地位を得た魏書 巻15 §55
演直接の記録なし — 将軍としての役割から推定第108回 §10
正直接の記録なし — 武将としての経歴から推定魏書 巻15 §55
演直接の記録なし — 武将としての役割から推定第108回 §13
正直接の記録なし — 将軍としての経歴から推定魏書 巻28 §22
演直接の記録なし — 桓嘉・韓綜を派遣した記録のみ第108回 §13
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。