桓階

正史演義 魏 字 伯緒 Huan JieBoxu환계백서桓阶

プロフィール
職業正文官 · 尚書令 演文官 · 軍吏所属魏
登場正演収録魏書
出生出身地長沙郡 臨湘県
死因正病死 推定
実在実在言及正26回

人物紹介

桓階は字を伯緒といい、長沙郡臨湘県の人である。孫堅の推挙で尚書郎となり、孫堅が戦死すると危険を冒して劉表のもとへ行き、その遺骸を取り戻した。曹操が官渡で袁紹と対峙したときには、長沙太守張羨に劉表を見限って曹操に呼応するよう勧めた。 正史 魏書 巻22 §2–4

曹操のもとで侍中・尚書を務めて曹丕を後継に立てるべきだと繰り返し諫め、樊城が包囲されたときには曹操に自ら行かず摩陂に留まるよう勧めた。曹丕が即位すると尚書令となり、見舞いに来た曹丕から幼い孤児を託そうという言葉を受けた。病が重くなって太常に任じられたのち死去した。 正史 魏書 巻22 §5–8

正史を著した陳寿は評で、彼は成敗を見抜き、才能は当世に行き渡ったと述べた。演義では第7回に孫策の軍吏として初めて登場し、全120回のうち4回に登場し、孫堅の遺骸を求めて劉表のもとへ行く使者と、第79〜80回の曹丕が帝位を譲り受ける場面に名が見える。 正史 魏書 巻22 §108演義 第7回 §46演義 第79回 §39演義 第80回 §16

正史の記録

桓階は字を伯緒といい、長沙郡臨湘県の人である。郡で功曹を務め、太守孫堅の推挙で孝廉となって尚書郎に任じられた。父の喪で郷里に帰っていたとき、初平3年(192)、劉表を攻めていた孫堅が襄陽を囲み、峴山で黄祖の兵が射た矢に当たって死んだ。桓階は危険を冒して劉表のもとへ行き、孫堅の遺骸を返すよう請い、劉表はその義を称えて引き渡した。 正史 魏書 巻22 §2正史 呉書 巻1 §21

のちに曹操が官渡で袁紹と対峙すると、劉表は荊州を挙げて袁紹に呼応した。桓階は自分の郡の太守張羨に、事を起こして義に基づかずに失敗しなかった者はいないと言い、斉の桓公と晋の文公の故事を挙げた。袁氏はその反対をしているのに劉表が呼応するのは禍を招く道だと言った。どこへ向かうべきかと問われると、曹公は弱いとはいえ義に拠って起ち、朝廷を危機から救い、王命を奉じて罪ある者を討っているのだから誰が服さないことがあろうかと言い、四郡を挙げて三江を保ちつつ彼の来るのを待ち、内応しようと述べた。 正史 魏書 巻22 §2–4

張羨はその言葉に従い、長沙と隣接する三郡を挙げて劉表に対抗し、曹操に使者を送ったので、曹操は大いに喜んだ。しかし曹操は袁紹と続けざまに戦っていたため南へ軍を下すことができず、劉表が急攻するなかで張羨は病死した。城が陥落すると、桓階は身を隠した。久しくのち、劉表は彼を従事祭酒に招き、妻の妹の蔡氏を嫁がせようとしたが、桓階はすでに結婚していると言って断り、病を口実に退いた。 正史 魏書 巻22 §4

曹操は荊州を平定したのち、桓階が張羨のために計略を立てたことを聞いて非凡に思い、彼を丞相掾主簿に招き、趙郡太守に移した。魏国が初めて建てられると虎賁中郎将・侍中となった。当時、太子が定まっておらず、臨菑侯曹植が寵愛を受けていたが、桓階は曹丕が徳に優れ年長であるから後継とすべきだと、公然とも内密にも幾度も懇切に申し述べた。 正史 魏書 巻22 §5

毛玠と徐奕は剛直で徒党を組まなかったため、西曹掾の丁儀に憎まれた。丁儀はたびたび彼らの欠点を言い立てたが、桓階がそばで助けたおかげで身を全うすることができた。毛玠が誹謗を受けて獄に下されたときも、桓階は和洽とともに上言して彼を救おうとしたが、毛玠は結局罷免されて家で死んだ。また魏諷らの謀反で中尉楊俊が左遷されると、奸邪を防ぐ臣を求める曹操の問いに、桓階は徐奕こそその人だと推挙し、徐奕が中尉となった。陳寿は、桓階が善事は奉じて従い、過ちは正して救ったことはおおむねこのようであったと記した。 正史 魏書 巻22 §5–6正史 魏書 巻12 §27 · 34 · 38

尚書に移り、官吏の選挙を担当した。曹仁が関羽に包囲され、徐晃を送っても囲みが解けないと、曹操は自ら南へ行こうとして群臣に問うた。皆が急いで行かなければ敗れると言ったが、桓階だけは、曹操が曹仁らの判断力を信じ、彼らが力を惜しむとも心配していないという答えを引き出したうえで、ではなぜ自ら行こうとするのかと問うた。 正史 魏書 巻22 §6–7

曹操が、敵の兵が多く徐晃らの形勢が不利ではないかと心配だと言うと、桓階は、曹仁らが幾重もの包囲のなかでも死守して二心を抱かないのは、曹操が遠くから後ろ盾となっているからだと言った。万死の地に置かれれば必ず死戦する心が生まれる。内にその心があり外に強い援軍がある以上、六軍を止めて余力を示しさえすればよいというのであった。曹操はこれをもっともだとし、建安24年(219)に摩陂に軍を留め、敵はついに退いた。 正史 魏書 巻22 §7正史 魏書 巻9 §8

曹丕が即位すると尚書令に移り、高郷亭侯に封じられ、侍中を加えられた。桓階が病むと、曹丕は自ら見舞って「私はまさに六尺の孤を卿に託し、天下の命運を卿に預けようとしている。励めよ」と言った。安楽郷侯に移封されて食邑600戸となり、三人の子も関内侯の爵位を賜った。後継ぎと定められた子の桓祐は封じられなかったが、彼が病死すると関内侯を追贈された。 正史 魏書 巻22 §8

呉主伝によれば、孫権がうわべだけ魏に仕えていたので、魏は侍中辛毗と尚書桓階を遣わして盟約を結び、人質として子を送るよう求めようとしたが、孫権は辞退して受け入れなかった。黄武元年(222)秋9月、魏はついに曹休・曹仁・曹真らを遣わして三方から呉を攻めた。 正史 呉書 巻2 §41–42

のちに桓階の病が重くなると、曹丕は使者を遣わしてその場で太常に任じた。桓階が死ぬと曹丕は彼のために涙を流し、諡を貞侯とした。正史は彼が死んだ年を記していない。子の桓嘉が跡を継ぎ、弟の桓纂は散騎侍郎となって関内侯の爵位を賜った。桓嘉は公主を娶り、嘉平年間に楽安太守として東関で呉と戦ったが、軍が敗れて戦死した。正始4年(243)7月、太常桓階は曹真・曹休らとともに太祖の廟庭に配享された。 正史 魏書 巻22 §8–9正史 魏書 巻4 §14

陳寿は評で、桓階は成敗を見抜き、その才能は当世に行き渡ったと述べた。 正史 魏書 巻22 §108

演義の描写

演義第7回で、孫堅が劉表の部将呂公の伏兵にかかって死に、遺骸が襄陽城内に運ばれると、黄蓋は捕らえた黄祖と遺骸を交換しようと言う。その言葉が終わらないうちに軍吏の桓階が進み出て、自分は劉表と旧知の間柄なので城に入って使者となりたいと言い、孫策がこれを許す。 演義 第7回 §43–46

城に入った桓階に、劉表は孫堅の遺骸はすでに棺に納めてあるので、黄祖を返して互いに兵を引こうと言う。しかし蒯良が進み出て、まず桓階を斬って江東を攻めようと言い、第7回は「和を求めし桓階 また殃に遭う」という句で終わる。第8回で劉表は心腹の黄祖を見捨てられないとして桓階を帰し、孫策は黄祖と遺骸を交換して父を曲阿の原に葬る。 演義 第7回 §46–48演義 第8回 §1–2

第79回で瑞祥が相次ぐと、李伏と許芝が禅譲を議し、桓階は華歆・王朗・辛毗・賈詡ら文武の官僚40余人とともに内殿に入り、献帝に魏王曹丕へ帝位を譲るよう請う。第80回で献帝はやむなく再び桓階に詔の草案を書かせ、張音に節を持たせ玉璽を奉じて魏王宮へ行かせる。 演義 第79回 §39演義 第80回 §16

演義と異なる点

身分:演義第7回の桓階は孫策の軍中の軍吏として登場し、劉表と旧知の間柄だとして使者を買って出る。正史では長沙郡の功曹から太守孫堅の推挙で孝廉となり尚書郎に任じられた人物で、父の喪で郷里に帰っていた。劉表との旧交は正史に出てこない。 演義 第7回 §46正史 魏書 巻22 §2

孫堅の遺骸:演義第7〜8回では、蒯良が桓階を斬れと言うなかで、劉表が黄祖を惜しんで遺骸と黄祖を交換することにし、桓階を帰す。正史では桓階が危険を冒して劉表のもとへ行き遺骸を請うと、劉表はその義を称えて引き渡した。黄祖と交換したことは桓階伝にも孫堅伝にもない。 演義 第7回 §46–47演義 第8回 §1–2正史 魏書 巻22 §2正史 呉書 巻1 §21

官渡のころの事績:正史で桓階は長沙太守張羨に劉表を見限って曹操に呼応するよう説き、張羨の死後は身を隠したのち、劉表の従事祭酒の地位と縁談を退けた。演義で桓階は第8回以後第79回まで登場せず、張羨も出てこない。 正史 魏書 巻22 §2–4演義 第8回 §1演義 第79回 §39

後継問題:正史で桓階は、曹植が寵愛を受けていたころ、曹丕を後継に立てるべきだと公然とも内密にも繰り返し諫めた。演義で桓階は後継を議する場面に登場せず、第79回で禅譲を請う官僚たちのなかに初めて再び名が見える。 正史 魏書 巻22 §5演義 第79回 §39

摩陂駐屯:正史では群臣が皆急ぐよう言うなか、桓階だけが曹操に自ら行かず六軍を止めて余力を示すよう言い、曹操はこれに従って摩陂に留まった。演義第76回では、曹操が董昭の計略に従って自ら大軍を率いて陽陵陂へ行き曹仁を救おうとし、樊城の包囲が解けたのちに摩陂に戻って駐屯する。桓階はこの場面に登場しない。 正史 魏書 巻22 §6–7演義 第76回 §5–6 · 24

禅譲:演義第79〜80回で、桓階は献帝に禅譲を請う官僚たちのなかにおり、献帝の命で禅譲の詔の草案を書く。正史の桓階伝は曹丕が即位すると尚書令になったとだけ記し、禅譲の詔を書いたことはない。文帝紀は、兼御史大夫張音が節を持ち璽綬を奉じて禅位したと記す。 演義 第79回 §39演義 第80回 §16正史 魏書 巻22 §8正史 魏書 巻2 §13

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率4235−7
  • 武力3131±0
  • 知力8245−37
  • 政治6645−21
  • 魅力5540−15
  • 徳8245−37
  • 処世7245−27
  • 文芸4248+6
  • 弁舌7264−8
  • 用人6838−30
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

知力正82演45推定 −37

正曹仁救援の親征を思いとどまらせ敵が退いた、評は成敗を見抜いたとする魏書 巻22 §6魏書 巻22 §108

演直接の記録なし — 劉表との交渉役から推定第8回 §1

処世正72演45推定 −27

正張羨の敗亡後に身を隠し病を口実に劉表を去った、文帝の擁立を諫めた魏書 巻22 §4魏書 巻22 §5

演直接の記録なし — 敵陣への使者に立った記録から推定第7回 §46

魅力正55演40推定 −15

正文帝が自ら見舞い、幼い孤児を託そうとした魏書 巻22 §8

演直接の記録なし — 官僚40余人の一人としてのみ記録第79回 §39

近い項目 4件 — 根拠を見る
  • 統率正42推定演35推定 −7

    正直接の記録なし — 丞相主簿・趙郡太守を務めた文官の経歴から推定魏書 巻22 §5

    演直接の記録なし — 軍吏の身分から推定第7回 §46

  • 武力正31推定演31推定 ±0

    正直接の記録なし — 文官の経歴のみ記録魏書 巻22 §2

    演直接の記録なし — 使者の役割のみ記録第7回 §46

  • 文芸・学術正42推定演48 +6

    正直接の記録なし — 孝廉推挙・尚書郎の経歴から推定魏書 巻22 §2

    演献帝の命で禅譲の詔の草案を書いた第80回 §16

  • 弁舌・外交正72演64 −8

    正張羨を説いて四郡を曹操に帰順させ、呉への盟約の使者となった魏書 巻22 §2呉書 巻2 §42

    演劉表との旧交から使者となり、遺骸と黄祖の交換をまとめた第7回 §46第8回 §1

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(4回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

所属の変遷

  1. 魏 · 正史 · 正史 巻22 「太祖定荊州,聞其爲張羨謀也」

家族

子桓嘉 正史

Wikidataの歴史・演義人物項目に基づく。推定バッジのない関係は正史原文でも確認済み。