正部曲1万の妻子まで見知り、死ぬと役人・兵士が皆泣いて慕った呉書 巻11 §47呉書 巻11 §60呉書 巻11 §61
朱桓
人物紹介
朱桓は字を休穆といい、呉郡呉県の人である。孫権の幕府で給仕したのち余姚長となって疫病と飢饉に対処し、山賊を討伐したのち周泰に代わって濡須督となった。 正史 呉書 巻11 §47–48
黄武元年(222)、濡須に攻め寄せた魏の大司馬曹仁の軍を5千の兵で防ぎ止めて嘉興侯に封じられ、のちに前将軍・青州牧に昇った。気位が高く人の指図を受けるのを恥とし、嘉禾6年(237)には争いの末に側近と佐軍を殺し、狂気の発作を口実に退いたが、孫権は罪を問わなかった。赤烏元年(238)、62歳で死去した。 正史 呉書 巻11 §49–52 · 55–58 · 60
正史を著した陳寿は評で、彼を朱然とともに勇烈で名を知られた人物に挙げつつ、偏狭さという欠点があったと記した。演義では第38回に孫権が集めた江東の人材の名簿に初めて名が見え、全120回のうち3回に登場し、第85回に濡須で曹仁の部将常雕を斬る場面が代表的である。 正史 呉書 巻11 §67演義 第38回 §26演義 第85回 §12
正史の記録
朱桓は字を休穆といい、呉郡呉県の人である。孫権が将軍となったとき、その幕府で給仕したのち余姚長に任じられた。赴任すると疫病が流行し、穀物が乏しく値が高騰していたが、朱桓は良い役人を分けて配置し、自ら医薬に気を配り、食事と粥を絶え間なく与えたので、士民は感激して彼を敬った。 正史 呉書 巻11 §47
蕩寇校尉に移って兵2千人を授けられ、呉・会稽の二郡で散り散りになった人々を集めて部隊を編成するよう命じられると、一年の間に1万余人を得た。のちに丹楊と鄱陽で山賊が蜂起し、城郭を攻め落として長吏を殺したり略奪したりすると、朱桓は諸将を率いて各地を巡って討伐し、行く先々で平定した。次第に裨将軍に移り、新城亭侯に封じられ、のちに周泰に代わって濡須督となった。 正史 呉書 巻11 §47–48
黄武元年(222)、魏の大司馬曹仁が歩騎数万を率いて濡須へ向かった。曹仁は川の中の州を襲って奪おうとし、偽ってまず東の羨渓を攻めると言いふらした。朱桓が兵を分けて羨渓へ送ったのちになって、曹仁が濡須から70里のところまで来たという知らせが入り、羨渓へ行った兵を呼び戻す前に曹仁が押し寄せた。残った兵は5千人だけで、諸将は皆おびえた。 正史 呉書 巻11 §49
朱桓は、両軍が相対するとき勝敗は将にかかっているのであって兵の多寡にかかっているのではないと諭した。いま曹仁は智も勇もなく、兵は臆病なうえ千里を歩いて疲れているが、こちらは高い城に拠り、南は大江に臨み北は山を背にしているから百戦百勝の形勢であり、曹丕が自ら来ても憂えるに足りないのに、まして曹仁ならなおさらだと言った。 正史 呉書 巻11 §49–51
朱桓は旗を伏せ太鼓を止めて弱いふりをし、曹仁をおびき寄せた。曹仁は案の定、子の曹泰に濡須城を攻めさせ、将軍常雕に諸葛虔・王双らを率いさせて油船で兵の妻子のいる中洲を別に襲わせ、自らは1万人を率いて橐皋に留まり後詰めとなった。朱桓は将兵を分けて油船を奪わせ常雕らを攻撃させる一方、自ら曹泰を防ぐと、曹泰は陣営を焼いて退いた。常雕の首を斬ってさらし、王双を生け捕りにして武昌に送り、戦場で斬ったり溺死させたりした敵は千余人に上った。 正史 呉書 巻11 §51–52
孫権はその功を称えて嘉興侯に封じ、奮武将軍に移して彭城相を兼ねさせた。呉主伝はこの戦いを黄武2年(223)3月のこととし、曹泰が朱桓を激しく攻めたが朱桓の兵が防ぎ、将軍厳圭らを遣わして常雕らを撃破し、その月に魏軍はすべて退いたと記す。 正史 呉書 巻11 §52正史 呉書 巻2 §49
黄武7年(228)、鄱陽太守周魴が魏の大司馬曹休を偽っておびき出すと、曹休は歩騎10万を率いて皖城に至った。陸遜が元帥となり、全琮と朱桓が左右督となって、それぞれ3万人を率いて曹休を攻めた。朱桓は、曹休は親族であるから任用されたにすぎず智勇の名将ではないので、戦えば敗れて夾石・掛車へ逃げるだろう、兵1万でその道を塞げば曹休を生け捕りにし、寿春を奪って淮南を占め、許と洛陽をうかがうことができると献策した。孫権がまず陸遜と協議したが、陸遜は不可としたので実行されなかった。 正史 呉書 巻11 §53–54
黄龍元年(229)、前将軍に任じられて青州牧を兼ね、仮節を与えられた。嘉禾6年(237)、魏の廬江主簿呂習が大軍を送って迎えてくれれば城門を開いて内応すると申し出たので、朱桓は衛将軍全琮とともに兵を率いて赴いたが、事が露見して引き返さねばならなかった。城外の渓流を渡るとき朱桓は自ら殿を務め、廬江太守李膺は半ば渡ったところを撃とうとしたが、朱桓の節と蓋が後尾にあるのを見て、ついに出撃できなかった。 正史 呉書 巻11 §55–56
このとき全琮が督であり、孫権は偏将軍胡綜に詔命を伝えさせ、軍事に参与させていた。全琮が出兵したのに得るところがなかったとして諸将を分けて奇襲しようとすると、もともと気位が高く人から部隊の配置を受けるのを恥としていた朱桓は、全琮のもとへ行って問い詰め言い争った。全琮が、主上が胡綜を督とされたので胡綜の意向がそうなのだと弁解すると、朱桓はますます憤って胡綜を呼び寄せ、側近たちに自分が手を下したら各自立ち去れと言った。一人が抜け出して胡綜を帰らせると、朱桓はその者を斬り、諫めた佐軍まで刺し殺した。 正史 呉書 巻11 §56–58
朱桓は狂気が発作したと称して建業へ行き病を治療した。孫権はその功労と才能を惜しんで罪を問わず、子の朱異に代わって部曲を率いさせ、医者を遣わして看護させた。数か月後に再び中洲へ帰らせるとき、孫権は自ら出て見送り、君に5万人を率いて一方面を担わせようと思うので、病が再発することはないと信じていると言った。朱桓は、臣に重任をお任せくださるのだから病はおのずと治るでしょうと答えた。 正史 呉書 巻11 §58–59
朱桓は人に後れを取るのを嫌い、人の下にいることを恥とし、戦いで指揮を思いどおりにできないとそのたびに怒った。しかし財を軽んじ義を重んじ、一度会った人は数十年たっても忘れず、部曲1万人の妻子までことごとく見知っていた。役人や兵士を大切にし、親族の面倒を見て、俸禄と財産をともに分け合った。病が重くなると全軍が憂え、赤烏元年(238)に62歳で死ぬと、役人・兵士、男女が皆声をあげて泣いた。家に余財がなかったので孫権は塩5千斛を賜って葬儀を助け、子の朱異が跡を継いだ。 正史 呉書 巻11 §60–61
陳寿は評で、朱然と朱桓は勇烈で名を知られたと述べ、呂範の奢侈や朱桓の偏狭のような欠点がありながらも良い最期を遂げられたのは、巡り合わせた時代が異なっていたからだと述べた。 正史 呉書 巻11 §67
演義の描写
演義第38回で、孫権が孫策の跡を継いで江東の人材を広く迎え入れるとき、会稽の闞沢らとともに「呉郡の朱桓、字は休穆」として名が挙がる。彼らは文士の名簿に入っており、呂蒙・陸遜ら武将の名簿は別に続く。 演義 第38回 §26–27
第85回で朱桓は、年わずか27歳ながら胆略に優れ、孫権が大いに目をかける将として描かれる。濡須を守っていて曹仁が羨渓を攻めると聞き、兵をすべて羨渓に送って5千騎だけが残ったとき、曹仁は大将常雕に諸葛虔・王双とともに精兵5万を与えて濡須城へ向かわせる。兵たちがおびえると、剣の柄を握って勝敗は将にかかっていると言い、高い城に拠って逸をもって労を待つのだから、曹丕が自ら来ても憂えることはないと言う。 演義 第85回 §9–11
朱桓は旗を伏せ太鼓を止めて、城を空のように見せかける。常雕が城に近づくと、号砲とともに旗を一斉に立てて馬を走らせて打って出て、三合もしないうちに常雕を斬って馬から落とす。魏軍は大敗し、後から来た曹仁も羨渓から打って出た呉軍に敗れて退く。 演義 第85回 §11–13
第96回で周魴が曹休をおびき出すと、都元帥となった陸遜は奮威将軍朱桓と綏南将軍全琮を左右都督に推挙する。朱桓は、曹休は親族であるから信任されているだけで智勇の将ではなく、敗れれば夾石・掛車へ逃げるだろうから、全琮とともにその道を塞げば曹休を生け捕りにし、寿春を得て許・洛をうかがうことができると献策する。陸遜が良い策ではないと退けると、朱桓は不満を抱いて引き下がる。 演義 第96回 §26–29
戦いで朱桓は全琮とともに3万の軍を率い、石亭の山道から曹休の陣営の背後へ回り込むが、そこで魏の伏兵張普を一刀のもとに斬り、後軍に火を放たせる。曹休の陣営は大混乱に陥り、曹休は夾石の道へ逃げ、朱桓は徐盛・全琮とともに陸遜のもとへ戻って勝利を報告する。 演義 第96回 §38–40 · 42
演義と異なる点
初登場:演義第38回は朱桓を孫権が迎え入れた江東の文士の名簿に入れる。正史で朱桓は、孫権が将軍となったとき幕府で給仕したのち余姚長となり、蕩寇校尉として兵を集め山賊を討伐した武将である。 演義 第38回 §26正史 呉書 巻11 §47–48
濡須の戦いのときの年齢:演義第85回は朱桓がそのとき27歳であったとする。正史は彼が赤烏元年(238)に62歳で死んだと記すので、数え年で計算すると黄武元年(222)には46歳である。 演義 第85回 §9正史 呉書 巻11 §49 · 60
羨渓へ送った兵:演義第85回では、朱桓が曹仁の流言を聞いて兵をすべて羨渓へ送り、のちに羨渓から打って出た呉軍が曹仁を破る。正史では兵を分けて羨渓へ送り、曹仁が近づいたと聞いて使者を遣わして呼び戻そうとしたが、戻る前に曹仁が押し寄せた。 演義 第85回 §9 · 13正史 呉書 巻11 §49
常雕と王双:演義第85回では常雕が濡須城を攻めに来て、朱桓が馬を走らせて打って出て三合で彼を斬る。正史では常雕は油船で中洲を襲い、朱桓が分けて送った将兵が常雕らを攻めてその首を斬ってさらし、ともに来た王双は生け捕りにして武昌へ送った。朱桓自身は濡須城を攻めに来た曹仁の子曹泰を防いだ。 演義 第85回 §12正史 呉書 巻11 §51–52
曹休を討ったときの官職:演義第96回で陸遜は朱桓を「奮威将軍」と呼ぶ。正史で朱桓は濡須の功で「奮武将軍」となり、曹休を討ったときは左右督の一人であった。 演義 第96回 §26正史 呉書 巻11 §52–53
夾石の計略:演義第96回では朱桓が計略を陸遜に献じ、陸遜がその場で退ける。正史では孫権に献じた計略を孫権がまず陸遜と協議し、陸遜が不可としたので実行されなかった。演義の朱桓は全琮とともに道を塞ぐと言うが、正史では自分の率いる兵で道を断ちたいと願い出た。 演義 第96回 §27–29正史 呉書 巻11 §53–54
石亭の戦い:演義第96回で朱桓は石亭の山道から曹休の陣営の背後へ回り込み、伏兵の張普を斬って火を放つ。正史の朱桓伝には戦いの様子がなく、陸遜伝は朱桓・全琮を左右の翼として三方から進み、曹休の伏兵を追い払って夾石まで追撃したとだけ記す。張普は正史に出てこない。 演義 第96回 §38–39正史 呉書 巻11 §53–54正史 呉書 巻13 §30
その後のこと:演義で朱桓は第96回を最後に登場しない。正史では前将軍・青州牧となり、嘉禾6年(237)に廬江で全琮・胡綜と争った末に側近と佐軍を殺して狂気を口実に退き、赤烏元年(238)に死去した。 演義 第96回 §42正史 呉書 巻11 §55–60
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能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率8480−4
- 武力6676+10
- 知力7270−2
- 政治5835−23
- 魅力8452−32
- 徳4250+8
- 処世3845+7
- 文芸3535±0
- 弁舌4040±0
- 用人4240−2
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
正疫病の際に医薬と粥を与え、一年で1万余人を集めた呉書 巻11 §47
演直接の記録なし — 武将として推定第38回 §26
正自ら殿を務めると敵はあえて出撃しなかった、評:勇烈呉書 巻11 §56呉書 巻11 §67
近い項目 7件 — 根拠を見る
正山賊を行く先々で平定し、濡須で曹仁軍を破って常雕を斬った呉書 巻11 §48呉書 巻11 §52呉書 巻11 §56
正逸をもって労を待つ形勢を説き弱いふりをしておびき出した、夾石遮断策呉書 巻11 §50呉書 巻11 §51呉書 巻11 §54
正財を軽んじ義を重んじたが佐軍を刺殺した、評:偏狭呉書 巻11 §57呉書 巻11 §60呉書 巻11 §67
演直接の記録なし — 事績から推定第85回 §10
正人の下にいるのを恥じて激昂し、狂気を口実に罪を逃れた呉書 巻11 §58呉書 巻11 §60
演計略が容れられず不満を抱いて引き下がった第96回 §29
正直接の記録なし — 武将として推定呉書 巻11 §60
演直接の記録なし — 武将として推定第38回 §26
正直接の記録なし — 孫権への返答から推定呉書 巻11 §59
演おびえる兵たちを兵法で諭して落ち着かせた第85回 §10
正直接の記録なし — 部下を大切にした記録から推定呉書 巻11 §60
演直接の記録なし — 事績から推定第96回 §26
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。