常雕

正史演義 Chang Diao상조

プロフィール
職業正武将 · 将軍 演武将 · 先鋒所属
登場正演収録
出生正? 推定出身地
死去正223年 推定死去地正演濡須口
死因正戦死 演戦死 推定
実在実在言及正4回

人物紹介

常雕は魏の将である。正史には独立した伝がなく、呉書の呉主伝と朱桓・駱統の記録に名が見える。呉主伝によれば、黄武2年(223)3月、大司馬曹仁の命により兵5千とともに油船に乗って明け方に濡須の川中の島(中洲)へ渡ったが、呉軍に破られた。朱桓の記録は、彼が首を斬られてさらされたと記す。 正史 呉書 巻2 §49正史 呉書 巻11 §51–52正史 呉書 巻12 §62

陳寿の本文は彼の字や出身、その他の事績を記しておらず、彼に対する評もない。演義では第85回に魏の先鋒として登場し、濡須城の前で朱桓と三合も戦わずに斬られる。全120回のうちこの1回だけに登場し、名が回目に入った回はない。 正史 呉書 巻2 §49正史 呉書 巻11 §51–52正史 呉書 巻12 §62演義 第85回 §12

正史の記録

朱桓の記録によれば、黄武元年(222)、魏は大司馬曹仁に歩兵と騎兵数万を率いて濡須に向かわせた。曹仁は川中の島を急襲して奪おうとし、まず東の羨渓を攻めるかのように言いふらし、朱桓が兵を分けて羨渓へ送った隙に突然攻め寄せた。このとき朱桓のそばに残っていた兵は5千であった。魏書の蒋済の伝は、黄初3年(222)、曹仁が濡須の中洲を攻めようとすると、蒋済が、賊は西岸に拠って上流に船を並べているのに、兵を洲の中に入れるのは自ら地獄に入る道だと諫めたが、曹仁は従わず、果たして敗れたと記す。 正史 呉書 巻11 §49正史 魏書 巻14 §121

朱桓は旗を伏せ太鼓を止めて、外見は弱いふりをして曹仁をおびき寄せた。曹仁は案の定、子の曹泰に濡須城を攻めさせ、将軍常雕を分けて遣わし、諸葛虔・王双らを率いて油船に乗り別に中洲を襲わせた。中洲は部曲の妻子のいる所であった。曹仁自身は1万人を率いて橐皋に留まり、曹泰らの後詰めとなった。 正史 呉書 巻11 §51

朱桓は将兵を分けて油船を攻め奪わせ、また別に常雕らを攻めさせ、自らは曹泰を防いだ。曹泰は陣営を焼いて退いた。ついに常雕は首を斬られてさらされ、王双は生け捕りにされて武昌に送られ、戦場で斬られたり溺死したりした者は千余人に上った。 正史 呉書 巻11 §52

呉主伝はこの戦いを黄武2年(223)3月のこととして記す。曹仁が将軍常雕らに兵5千を与えて油船に乗せ、明け方に濡須の川中の島へ渡らせ、曹仁の子曹泰はこの隙に兵を率いて朱桓を激しく攻めたが、朱桓の兵がこれを防いだ。将軍厳圭らが遣わされて常雕らを撃破し、その月に魏軍はすべて退いた。 正史 呉書 巻2 §49

駱統の記録は、黄武の初め、曹仁が濡須を攻め、別将の常雕らに中洲を襲わせると、駱統が厳圭とともにこれを防いで破り、新陽亭侯に封じられたと記す。陳寿の本文で常雕が現れるのはこの三つの記録だけであり、彼の字や出身、官歴は記されていない。 正史 呉書 巻12 §62正史 呉書 巻2 §49正史 呉書 巻11 §51–52

演義の描写

演義第85回で、曹丕は賈詡と劉曄の制止を聞かずに三路の大軍で呉を攻めさせ、呉は朱桓に濡須を守らせて曹仁を防がせる。濡須で軍を監督していた朱桓は、曹仁が大軍を率いて羨渓を攻めに行くと聞き、兵をすべて羨渓に送って5千騎だけを残すが、そこへ曹仁が大将常雕に諸葛虔・王双とともに精兵5万を率いて濡須城へ急行させたという知らせが入る。 演義 第85回 §6–9

朱桓はおびえる兵たちに、勝敗は将にかかっており兵の多少にかかっているのではないと言い、旗を伏せ太鼓の音を止めさせて、守る者がいないかのように装う。魏の先鋒常雕は城上に兵馬がまったくいないのを見て兵を急き立てて進むが、城から遠くない所まで来ると号砲が一発鳴り、旗が一斉に立ち、刀を横たえた朱桓が馬を走らせて打って出て、まっすぐ彼に向かってくる。常雕は三合も戦わないうちに朱桓の一刀で馬から斬り落とされる。 演義 第85回 §10–12

呉軍が勢いに乗って攻め立てると、魏軍は大敗して死者は数え切れず、朱桓は数え切れないほどの旗・兵器・軍馬を得る。後から来た曹仁も羨渓から打って出た呉軍に大敗して退き、曹丕は三路の軍がすべて敗れたと聞いて、賈詡と劉曄の言葉を聞かなかったためにこのように敗れたと嘆く。 演義 第85回 §12–14

演義と異なる点

率いた兵:演義第85回では、曹仁が常雕に諸葛虔・王双とともに精兵5万を率いさせる。正史の呉主伝で曹仁が常雕らに与えた兵は5千である。 演義 第85回 §9正史 呉書 巻2 §49

攻めた場所:演義第85回では、常雕は先鋒として濡須城を攻めに来る。正史の朱桓の記録で濡須城を攻めたのは曹仁の子曹泰であり、常雕は油船に乗って別に部曲の妻子のいる中洲を襲った。 演義 第85回 §12正史 呉書 巻11 §51正史 呉書 巻2 §49

常雕を斬った人物:演義第85回では、朱桓が馬を走らせて打って出て、三合もしないうちに自ら刀で常雕を斬る。正史の朱桓の記録では、朱桓は将兵を分けて常雕らを別に攻めさせ、自らは曹泰を防ぎ、常雕は首を斬られてさらされた。呉主伝は将軍厳圭らが常雕らを撃破したと記し、駱統の記録は駱統が厳圭とともに防いで破ったと記す。 演義 第85回 §12正史 呉書 巻11 §52正史 呉書 巻2 §49正史 呉書 巻12 §62

ともに行った王双:演義第85回では、王双は常雕・諸葛虔とともに濡須城へ来たというところで終わる。正史の朱桓の記録では、常雕とともに中洲を襲った王双は生け捕りにされて武昌に送られた。 演義 第85回 §9正史 呉書 巻11 §51–52

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率4240−2
  • 武力4025−15
  • 知力3828−10
  • 政治3331−2
  • 魅力3835−3
  • 徳4542−3
  • 処世3835−3
  • 文芸3131±0
  • 弁舌3131±0
  • 用人3331−2
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

武力正40推定演25 −15

正直接の記録なし — 曹仁配下の将であることから推定呉書 巻11 §52

演朱桓と渡り合い、三合もしないうちに斬られた第85回 §12

知力正38推定演28 −10

正直接の記録なし — 曹仁配下の将であることから推定呉書 巻11 §51

演城上に兵馬がいないと見て急いで進み、計略にかかった第85回 §12

近い項目 8件 — 根拠を見る
  • 統率正42演40 −2

    正5千を率いて油船で中洲を襲ったが撃破され、首を斬られた呉書 巻11 §51呉書 巻11 §52呉書 巻2 §49

    演精兵5万を率いる先鋒の将であったが、伏兵にかかって大敗第85回 §9第85回 §12

  • 政治正33推定演31推定 −2

    正直接の記録なし — 曹仁配下の将であることから推定呉書 巻11 §51

    演直接の記録なし — 曹仁配下の将であることから推定第85回 §9

  • 魅力正38推定演35推定 −3

    正直接の記録なし — 曹仁配下の将であることから推定呉書 巻11 §51

    演直接の記録なし — 曹仁配下の将であることから推定第85回 §9

  • 徳正45推定演42推定 −3

    正直接の記録なし — 曹仁配下の将であることから推定呉書 巻11 §51

    演直接の記録なし — 曹仁配下の将であることから推定第85回 §9

  • 処世正38推定演35推定 −3

    正直接の記録なし — 曹仁配下の将であることから推定呉書 巻11 §52

    演直接の記録なし — 曹仁配下の将であることから推定第85回 §12

  • 文芸・学術正31推定演31推定 ±0

    正直接の記録なし — 曹仁配下の将であることから推定呉書 巻11 §51

    演直接の記録なし — 曹仁配下の将であることから推定第85回 §9

  • 弁舌・外交正31推定演31推定 ±0

    正直接の記録なし — 曹仁配下の将であることから推定呉書 巻11 §51

    演直接の記録なし — 曹仁配下の将であることから推定第85回 §9

  • 識人・用人正33推定演31推定 −2

    正直接の記録なし — 曹仁配下の将であることから推定呉書 巻11 §51

    演直接の記録なし — 曹仁配下の将であることから推定第85回 §9

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(1回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

関連事件(2)

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