全禕
人物紹介
全禕は呉の大将全琮の一族で、全琮の跡を継いだ子全懌の兄全緒の子である。正史には独立した伝がなく、呉書巻3三嗣主伝・巻5妃嬪伝・巻15全琮伝に名が見える。魏の諸葛誕が寿春を挙げて呉に帰順し、全懌が寿春へ彼を救援に向かっている間に、太平2年(257)11月、全儀とともに母を連れて魏へ奔った。全琮伝は、彼が魏に降って郡守・列侯を歴任したと記す。 正史 呉書 巻3 §15 · 17正史 呉書 巻5 §29正史 呉書 巻15 §30
魏書巻28鍾会伝は同じ出来事を全懌の兄の子全輝・全儀のこととして記し、鍾会が二人の名で手紙を書いて寿春城内の全懌らを降伏させたとする。演義には120回のうち第112回の1回にのみ登場し、名が回目に入った回はない。演義は彼を全端の子として描き、司馬昭に降って偏将軍となったのち、父全端と叔父全懌に手紙を書いて城内に射込み、降伏させる。 正史 魏書 巻28 §99–100演義 第112回 §8–10
正史の記録
全琮伝によれば、全琮は字を子璜といい、呉郡銭唐県の人で、孫権のもとで右大司馬・左軍師に至った。全琮が親しく信任され重用されると、一族の子弟はみな寵愛と貴い地位を受けた。全琮は赤烏12年(249)に死に、子の全懌が後を継いだ。全禕は全懌の兄の子であり、三嗣主伝の孫亮の記録は彼を全緒の子と記す。 正史 呉書 巻15 §21 · 28 · 30正史 呉書 巻3 §17
妃嬪伝によれば、全尚の娘が孫亮の皇后となったのち、全氏で侯に封じられた者は五人で、みな兵馬を掌った。そのほかの者は侍郎・騎都尉となって左右で宿衛し、呉が興って以来、外戚の貴さと盛んなことがこれに及んだことはなかった。 正史 呉書 巻5 §28–29
魏の諸葛誕が寿春で反乱を起こして呉に降伏を求めると、呉は文欽・唐咨・全端・全懌ら3万人を送って彼を救援させた。鍾会伝によれば、全琮は孫権と婚姻で結ばれた親族かつ重臣であり、全琮の子全懌、孫の全静、甥の全端・全翩・全緝らがみな兵を率いて諸葛誕を救いに行った。 正史 呉書 巻19 §84正史 魏書 巻28 §99
三嗣主伝の孫亮の記録は、太平2年(257)11月に全緒の子全禕と全儀が母を連れて魏へ奔り、12月に全端・全懌らが寿春城から司馬文王(司馬昭)のもとに赴いたと記す。鍾会伝はこの出来事を、全懌の兄の子全輝・全儀が建業に残っていたところ、家の中で争いと訴訟が起こったので、母を連れ部曲数十家を率いて長江を渡り、自ら文王に帰順したものとして記す。 正史 呉書 巻3 §15 · 17正史 魏書 巻28 §99
鍾会は計略を立て、ひそかに全輝・全儀に代わって手紙を書き、二人が親しく信頼する者にそれを持たせて城に入らせ、全懌らに知らせた。手紙には、呉の朝廷は全懌らが寿春の包囲を破れないことに怒り、諸将の家族をことごとく殺そうとしているので、逃げてきて命を託したと書かれていた。全懌らは恐れて、率いる兵を連れて東の城門を開いて出て降伏し、みな封爵と寵愛を受け、城内はこれによって互いに背き離れた。 正史 魏書 巻28 §99–100
妃嬪伝は、諸葛誕が寿春を挙げて帰順してきたとき、全懌・全端・全禕・全儀らがみなこの機に乗じて魏に降り、全熙は謀議が漏れて殺され、これによって全氏一族が衰えたと記す。全琮伝は、全懌の兄の子全禕・全儀・全静らも魏に降り、みな郡守・列侯を歴任したと記す。陳寿の本文は、彼がどの郡の郡守となったのか、いつ死んだのかを記していない。 正史 呉書 巻5 §29正史 呉書 巻15 §30
演義の描写
演義第112回で、寿春の諸葛誕を救いに来た呉軍は安豊に駐屯し、孫綝は朱異に、寿春城一つも救えないのかと言い、再び勝てなければ首を斬ると叱りつける。於詮が南門から城に入り内外から挟み撃ちにしようと言うと、全懌・全端・文欽らもみな城内に入ることを望み、於詮とともに兵1万を率いて南門から入る。 演義 第112回 §4–6
朱異が王基・陳騫に背後を突かれて大敗して戻ると、孫綝は負け続けの将が何の役に立つかと言って彼を斬らせる。そして全端の子全禕を叱りつけ、魏軍を退けられなければお前たち父子は二度と私に会おうと思うなと言い、自らは建業へ帰ってしまう。 演義 第112回 §7–8
鍾会の言に従って司馬昭が軍を急がせて城を包囲すると、全禕は兵を率いて寿春に入ろうとしたが、魏軍の勢いが盛んなのを見て進むことも退くこともできないと考え、司馬昭に降伏する。司馬昭は彼を偏将軍とする。全禕は司馬昭の恩徳に感じ入り、父全端と叔父全懌に、孫綝は不仁であるから魏に降るに越したことはないという家書を書いて、城内に射込む。 演義 第112回 §9
手紙を受け取った全懌は全端とともに数千人を率いて城門を開いて出て降伏し、諸葛誕は城内で憂え悩む。謀士の蒋班と焦彝が打って出ようと進言したが、諸葛誕に叱りつけられ、その夜城壁を越えて魏に降ったので、城内では誰もあえて戦おうと言い出せなくなる。演義はその後の全禕のことを記さない。 演義 第112回 §10–11
演義と異なる点
父:演義第112回では、全禕は全端の子で、全懌はその叔父である。正史では、三嗣主伝の孫亮の記録で全緒の子とされ、全琮伝では全懌の兄の子とされる。鍾会伝では全端は全琮の甥である。 演義 第112回 §8–9正史 呉書 巻3 §17正史 呉書 巻15 §30正史 魏書 巻28 §99
降伏の経緯:演義第112回では、孫綝に叱責されたのち兵を率いて寿春に入ろうとし、魏軍の勢いを見て司馬昭に降伏する。正史鍾会伝では、全輝・全儀が建業に残っていたところ、家の争いと訴訟のために母を連れ部曲数十家を率いて長江を渡り文王に帰順したとし、三嗣主伝も全緒の二人の子が母を連れて魏へ奔ったと記す。 演義 第112回 §9正史 魏書 巻28 §99正史 呉書 巻3 §17
手紙:演義第112回では、全禕が司馬昭の恩徳に感じ入って自ら家書を書いて城内に射込み、手紙は孫綝が不仁であると述べる。正史鍾会伝では、鍾会が計略を立ててひそかに二人に代わって手紙を書き、二人が信頼する者に持たせて城に入らせた。その手紙は、呉の朝廷が全懌らが包囲を破れないことに怒り、将たちの家族をことごとく殺そうとしていると述べていた。 演義 第112回 §9正史 魏書 巻28 §99
孫綝の叱責:演義第112回で、孫綝は朱異を斬ったのち全禕を叱りつけて建業へ帰る。正史孫綝伝は、孫綝が鑊里で朱異を斬り、弟の孫恩を遣わして救援させたと記すのみで、全禕を叱った事はない。 演義 第112回 §8正史 呉書 巻19 §86
魏での官職:演義第112回で、司馬昭は全禕を偏将軍とする。正史全琮伝は、全禕・全儀・全静らが魏に降り、みな郡守・列侯を歴任したと記す。 演義 第112回 §9正史 呉書 巻15 §30
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能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率4038−2
- 武力3838±0
- 知力3840+2
- 政治3533−2
- 魅力3840+2
- 徳3228−4
- 処世5052+2
- 文芸3535±0
- 弁舌3858+20
- 用人3535±0
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
近い項目 9件 — 根拠を見る
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。