正兄孫綝の廃立に加担して劉丞を殺し、権勢は君主を凌いだ呉書 巻19 §88呉書 巻19 §96
孫恩
人物紹介
孫恩は呉の大将軍孫綝の弟である。太平3年(258)9月、孫亮が孫綝を殺そうと謀ると、孫綝の命で蒼龍門の外で将軍劉丞を攻め殺し、孫綝は宮殿を包囲して孫亮を廃した。 正史 呉書 巻3 §18正史 呉書 巻19 §88
新帝孫休が来ると、武衛将軍として丞相の事を代行し、百官を率いて迎えた。永安元年(258)10月に御史大夫・衛将軍・中軍督となって県侯に封じられ、続いて侍中を加えられて孫綝と諸事を分担して見た。その年の12月、孫休は孫綝を斬って三族を滅ぼしたが、陳寿は孫恩の最期を別に記していない。 正史 呉書 巻3 §22 · 24 · 27正史 呉書 巻19 §100–101
陳寿は彼の伝を別に立てていない。演義には第113回にのみ登場し、全120回のうち1回に登場し、回目に名は載らない。孫綝が諸営に分けて駐屯させた弟の武衛将軍として名が見え、布塞亭で車駕を持って来て孫休を迎える。 正史 呉書 巻19 §87演義 第113回 §4 · 13
正史の記録
孫恩は呉書巻19諸葛滕二孫濮陽伝に載る孫綝の記事と、巻3三嗣主伝に現れる。兄の孫綝は字を子通といい、孫峻と祖父を同じくし、父の孫綽は安民都尉であった。孫峻が死ぬと孫綝は侍中・武衛将軍として中外諸軍事を領して朝政を担い、のちに大将軍に昇って永寧侯に封じられた。 正史 呉書 巻19 §79 · 83
魏の大将軍諸葛誕が寿春を挙げて反乱すると、呉は救援軍を送った。孫綝は鑊里に駐屯して朱異に魏を攻めさせたが、朱異が敗れ続け、3万の兵で死戦せよという命令にも従わなかったので、鑊里で彼を斬り、弟の孫恩を送って救援させた。ちょうど諸葛誕が敗れたので、軍を率いて帰還した。陳寿は、孫綝が諸葛誕を救い出せず、兵と軍勢を失い、自ら名将を殺したので、恨まない者はいなかったと記した。 正史 呉書 巻19 §84–86
孫亮が初めて親政して詰問することが多くなると、孫綝はひどく恐れた。建業に戻ると病と称して朝廷に出ず、弟の威遠将軍孫拠を蒼龍門に入れて宿衛させ、弟の武衛将軍孫恩、偏将軍孫幹、長水校尉孫闓を諸営に分けて駐屯させ、朝政をほしいままにして自らの地位を固めようとした。 正史 呉書 巻19 §87
孫亮は公主孫魯班、太常全尚、将軍劉丞と孫綝を殺すことを議したが、孫綝の従姉の娘である孫亮の妃がその謀議を孫綝に知らせた。太平3年(258)9月戊午の日、孫綝は夜に全尚を襲い、弟の孫恩を遣わして蒼龍門の外で劉丞を攻め殺させたうえで宮殿を包囲し、大臣たちを宮門に集めて孫亮を廃し、会稽王とした。 正史 呉書 巻19 §88正史 呉書 巻3 §18
孫綝は宗正孫楷と中書郎董朝を遣わして琅邪王孫休を迎えさせた。10月、孫休が布塞亭に至ると、武衛将軍孫恩が丞相の事を代行し、百官を率いて乗輿・法駕を整え、永昌亭で迎えた。行宮を築き、武帳を便殿として御座を設けた。己卯の日、孫休は便殿を望んで立ち止まり、孫楷に先に孫恩と会わせ、孫楷が戻ってからようやく輦に乗って進んだ。のちに孫休は、永昌亭で奉迎し陪従した将吏をみな一級ずつ昇進させた。 正史 呉書 巻3 §21–22 · 28
永安元年(258)冬10月壬午の日、孫休は詔を下して孫綝を丞相・荊州牧とし、武衛将軍孫恩を御史大夫・衛将軍・中軍督として県侯に封じた。孫綝伝は、孫恩と孫拠がともに県侯、孫幹と孫闓が亭侯となり、孫綝の一門から5人が諸侯となってみな禁軍を率い、その権勢は君主を凌ぎ、呉の朝臣としてかつてなかったことだと記す。 正史 呉書 巻3 §24正史 呉書 巻19 §96
孫綝が牛肉と酒を奉じて訪ねたが孫休が受け取らなかったので、孫綝は左将軍張布のもとへ行って恨み言を述べ、張布がこれを孫休に知らせた。孫休は変事を恐れてたびたび恩賞を与え、また孫恩に侍中を加えて孫綝と文書を分担して見させた。三嗣主伝は11月戊戌の日の詔で、大将軍の職務が煩多であるので、衛将軍・御史大夫孫恩に侍中を加え、大将軍と諸事を分担して見させたと記す。 正史 呉書 巻19 §97正史 呉書 巻3 §26–27
孫休がひそかに尋ねると、張布は丁奉とともに宴会で孫綝を殺すことを謀った。永安元年12月戊辰の日(西暦259年初め)の臘祭の宴で、丁奉と張布が左右に目配せして孫綝を縛らせ、孫休は彼を斬った。孫綝の首を掲げて、彼と共謀した者はみな赦すと告げると、武器を捨てた者は5千人にのぼり、船に乗って北へ降ろうとした孫闓は追って殺し、三族を滅ぼした。陳寿の本文には、このとき孫恩がどうなったかは別に記されていない。 正史 呉書 巻19 §98–101正史 呉書 巻3 §28
演義の描写
演義第113回で、呉主孫亮は蜜の中の鼠の糞から黄門の罪を見抜くほど聡明であったが、孫綝に抑えつけられて自ら決めることができない。孫綝は弟の威遠将軍孫拠を蒼龍門に入れて宿衛させ、武衛将軍孫恩、偏将軍孫幹、長水校尉孫闓に諸営に分かれて駐屯させる。 演義 第113回 §3–4
孫亮が国舅全紀に密詔を与え、将軍劉丞とともに孫綝を殺させようとすると、孫綝の姉妹である全尚の妻がこれを孫綝に知らせる。孫綝はその夜、兄弟4人を呼んで精兵を点呼し、まず宮殿を包囲して全尚と劉丞を殺したのち、孫亮を廃して会稽王とする。演義はこの場面で弟たちの名を挙げない。 演義 第113回 §5–8 · 10
孫綝は宗正孫楷と中書郎董朝を虎林に送って琅邪王孫休を迎えさせる。孫休が布塞亭に至ると孫恩が車駕を持って来て迎えるが、孫休はあえて輦に乗らず小さな車で入る。孫休は即位して年号を永安元年と改め、孫綝を丞相・荊州牧に封じ、孫綝の一門から5人の侯が出てみな禁軍を掌り、権勢は君主を凌ぐ。 演義 第113回 §12–14
冬12月、孫休は丁奉の計に従って臘日の宴に孫綝を呼び、左将軍張布に捕らえて斬らせる。孫綝は宴に行く前、我ら兄弟がともに禁軍を掌っているのに、誰があえて身に近づけようかと言っていた。丁奉・魏邈・施朔らが孫綝の兄弟を捕らえて来ると、孫休は市でことごとく斬らせ、その三族を滅ぼす。演義で孫恩の名は第113回の二つの場面にだけ現れる。 演義 第113回 §15 · 17 · 19–21
演義と異なる点
寿春救援:正史の孫綝伝で、孫綝は朱異を斬ったのち、弟の孫恩を送って諸葛誕を救援させた。演義第112回では、孫綝は敗れ続けた朱異を斬ったのち全禕を叱責して自ら建業に帰り、孫恩は登場しない。 正史 呉書 巻19 §86演義 第112回 §8
劉丞を殺した者:正史では、孫綝は弟の孫恩を遣わして蒼龍門の外で劉丞を殺させた。演義第113回では、孫綝が兄弟4人を呼んで宮殿を包囲し、まず全尚・劉丞らを殺したとするだけで、孫恩が劉丞を殺したという話はない。 正史 呉書 巻19 §88正史 呉書 巻3 §18演義 第113回 §7–8
謀議を知らせた者:正史では、孫綝の従姉の娘である孫亮の妃が謀議を孫綝に知らせた。演義第113回では、孫綝の姉妹である全尚の妻が人を遣わして孫綝に知らせる。 正史 呉書 巻19 §88演義 第113回 §6–7
孫休の出迎え:正史では、武衛将軍孫恩が丞相の事を代行し、百官を率いて永昌亭で迎え、孫休は孫楷に先に孫恩と会わせてからようやく進んだ。演義第113回では、孫休が布塞亭に至ると孫恩が車駕を持って来て迎える。 正史 呉書 巻3 §22演義 第113回 §13
官職:正史で孫恩は永安元年(258)10月に御史大夫・衛将軍・中軍督となって県侯に封じられ、11月に侍中を加えられて孫綝と事を分担して見た。演義で孫恩は武衛将軍としてのみ登場し、孫綝の一門から5人の侯が出たという話があるだけである。 正史 呉書 巻3 §24 · 26–27演義 第113回 §4 · 14
孫綝兄弟の最期:演義第113回では、孫綝が斬られたのち丁奉らが孫綝の兄弟を捕らえて来て、孫休が市でみな斬らせる。正史の孫綝伝は、孫綝と共謀した者を赦し、北へ逃げる途中で追われて殺された孫闓だけを名指しし、それ以外は三族を滅ぼしたと記すのみである。 演義 第113回 §21正史 呉書 巻19 §100–101
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能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率5045−5
- 武力4240−2
- 知力3538+3
- 政治5040−10
- 魅力3538+3
- 徳2540+15
- 処世4040±0
- 文芸3133+2
- 弁舌3538+3
- 用人3131±0
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
近い項目 8件 — 根拠を見る
正禁軍を率い、蒼龍門の外で劉丞を攻め殺し、寿春救援を任された呉書 巻3 §18呉書 巻19 §86
正直接の記録なし — 孫綝の弟で武衛将軍であることから推定呉書 巻19 §87
正直接の記録なし — 孫綝の弟で武衛将軍であることから推定呉書 巻19 §87
正直接の記録なし — 孫綝の弟で武衛将軍であることから推定呉書 巻19 §87
正直接の記録なし — 孫綝の弟で武衛将軍であることから推定呉書 巻19 §87
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。