正船が沈む危険を顧みず百人余りを救い、正を守って死んだ呉書 巻12 §78呉書 巻12 §81呉書 巻12 §90
演直接の記録なし第38回 §26
吾粲は字を孔休といい、呉郡烏程県の人である。孫河の下の小吏から始めて微賤の身から起こり、顧邵が彼を抜擢して友とした。孫権の主簿を経て、会稽太守・少府を務め、太子太傅に至った。 正史 呉書 巻12 §77 · 80正史 呉書 巻7 §38
黄武元年(222)、洞口で大風のため船が転覆すると、船が沈むのもかまわず水に落ちた人を百人余り救い上げた。二宮の変の際、嫡庶の区別を明らかにして魯王孫覇を外へ出すよう求めたが、孫覇らの讒言を受けて獄に下され、誅殺された。 正史 呉書 巻12 §78–79 · 81
陳寿は評で、彼を朱拠とともに「険難の時に遭い、正を守って身を失った。悲しいかな」と述べた。演義では第38回に、孫権が迎え入れた江東の士人の中に「烏程の吾粲、字は孔休」と名が出るだけで、全120回のうちこの1回に登場し、回目に名が入った回はない。 正史 呉書 巻12 §90演義 第38回 §26
吾粲は字を孔休といい、呉郡烏程県の人である。孫河が県長であったとき吾粲は小吏であったが、孫河は彼をたいへん非凡だと思った。孫河がのちに将軍となって長吏を自ら選べるようになると、上表して吾粲を曲阿丞とし、吾粲は長史に移って、統治に名高い跡を残した。孤立した微賤の身から起こったが、同郡の陸遜・卜静らと肩を並べ、名声を等しくした。 正史 呉書 巻12 §77
顧邵は、微賤から起こった烏程の吾粲や雲陽の殷礼らをみな抜擢して友とし、彼らのために名声を立ててやった。顧邵の伝は吾粲がのちに太子少傅となったと記し、世間は顧邵を人を見る目がある人物とみなしたという。陳寿は巻7の評でも、吾粲は牧童の出であったが、豫章(顧邵)がその長所を顕して陸氏・全氏と並ぶ列に立たせたと記した。 正史 呉書 巻7 §37–39 · 92
孫権が車騎将軍となると、吾粲を召して主簿とし、吾粲は外に出て山陰令となり、戻って参軍校尉となった。 正史 呉書 巻12 §77
黄武元年(222)、吾粲は呂範・賀斉らとともに水軍を率いて洞口で魏の将曹休を防いだ。ちょうど大風が吹いて多くの船の綱が切れ、船は流されて沈んだり、岸に着いて魏軍に捕らえられたり、転覆して水に沈んだりした。まだ残っている大船には、水中で生きている人々がすがりついて泣き叫んだが、ほかの官吏や兵士は船が傾いて沈むのを恐れ、みな戈や矛で突き放して受け入れなかった。 正史 呉書 巻12 §78
吾粲と黄淵だけが船頭たちに命じて彼らを引き上げさせた。左右の者が、船が重くなって必ず沈むと言うと、吾粲は「船が沈めば、ともに死ぬだけだ!人が窮しているのに、どうして見捨てられようか」と言った。吾粲と黄淵が救った者は百人余りであった。 正史 呉書 巻12 §78–79
帰還して会稽太守に移った。処士謝譚を功曹に招いたが、謝譚が病を口実に出てこなかったので、吾粲は教令を下して「応竜は屈伸できることで神妙とされ、鳳凰は美しく鳴くことで尊ばれる。どうして天の外に姿を隠し、深い淵に鱗を潜める必要があろうか」と言った。吾粲は人々を募り集めて昭義中郎将に任じられ、呂岱とともに山越を討伐して平定した。 正史 呉書 巻12 §80
廬陵の賊李桓らが乱を起こすと、孫権は呂岱を送って討たせ、嘉禾5年(236)、中郎将吾粲が李桓を捕らえた。周魴の伝は、賊の頭目董嗣が険要に拠って豫章と臨川を略奪していたとき、吾粲と唐咨が3千の兵で攻め囲んだが、何か月たっても落とせなかったと記す。 正史 呉書 巻2 §78–80正史 呉書 巻15 §73–74
吾粲は中央に入って屯騎校尉・少府となり、太子太傅に移った。赤烏4年(241)、太子孫登は死の前に奉った上書で、諸葛瑾・歩騭・朱然・全琮・朱拠・呂岱・闞沢らとともに吾粲を、国のために忠実で統治の要に通じた臣として挙げた。 正史 呉書 巻12 §80正史 呉書 巻14 §12 · 14
二宮の変に遭うと、吾粲は剛直に言を立てて正を守り、嫡庶の区別を明らかにし、魯王孫覇を外に出して夏口に駐屯させ、楊竺を都に置かないようにしようとした。またたびたび知らせを武昌に駐屯していた陸遜に伝え、陸遜は相次いで上表して諫争した。このため吾粲は孫覇・楊竺らの讒言を受けて獄に下され、誅殺された。孫和伝は、全寄・楊竺が魯王の党派となり、讒訴が日ごとに起こったと記す。 正史 呉書 巻12 §81正史 呉書 巻14 §28
陸遜伝によれば、太子太傅吾粲がたびたび陸遜と書簡をやり取りしたことに連座して獄死すると、孫権は重ねて中使を送って陸遜を責め、陸遜は憤りと無念のあまり世を去った。陸遜は赤烏8年(245)2月に死んだが、正史は吾粲が死んだ年を別に記していない。 正史 呉書 巻13 §56正史 呉書 巻2 §103
陳寿は巻12の評で「吾粲と朱拠は険難の時に遭い、正を守って身を失った。悲しいかな」と述べた。 正史 呉書 巻12 §90
孫権のもとに来た経緯:演義第38回は、孫権が賓館を開いて四方の士を迎え入れたときに江東に来た人々の一人として吾粲を挙げる。正史で吾粲は烏程県の人で、孫河の下の小吏から始めて孫河の推挙で曲阿丞となり、顧邵が彼を抜擢して友とし、孫権が車騎将軍となると彼を主簿に召した。 演義 第38回 §26正史 呉書 巻12 §77正史 呉書 巻7 §38
洞口の救助:正史で吾粲は、黄武元年(222)に洞口で大風のため船が転覆すると、黄淵とともに水に落ちた人を百人余り救い上げた。演義で吾粲は第38回の名簿にしか出てこないので、この話はない。 正史 呉書 巻12 §78–79演義 第38回 §26
官職:演義には吾粲の官職は出てこない。正史では会稽太守・昭義中郎将・少府を経て太子太傅に至った。 演義 第38回 §26正史 呉書 巻12 §80
死:演義には吾粲の死は出てこない。正史では二宮の変の際に嫡庶の区別を明らかにしたため、魯王孫覇と楊竺らの讒言を受けて獄に下され、誅殺された。 演義 第38回 §26正史 呉書 巻12 §81
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正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
正船が沈む危険を顧みず百人余りを救い、正を守って死んだ呉書 巻12 §78呉書 巻12 §81呉書 巻12 §90
演直接の記録なし第38回 §26
正長史として統治に名高い跡を残した呉書 巻12 §77
演直接の記録なし第38回 §26
正山越を平定し李桓を捕らえたが、董嗣攻撃は何か月も失敗呉書 巻2 §80呉書 巻12 §80呉書 巻15 §74
演直接の記録なし — 士人としての事績から推定第38回 §26
正牧童の出で、陸遜・卜静と名声を等しくした呉書 巻12 §77呉書 巻7 §92
演直接の記録なし第38回 §26
正処士謝譚を功曹に招く教令を下した呉書 巻12 §80
演直接の記録なし第38回 §26
正直接の記録なし — 水軍での参戦の事績から推定呉書 巻12 §78
演直接の記録なし第38回 §26
正直接の記録なし呉書 巻12 §81
演直接の記録なし第38回 §26
正二宮の変で剛直に言を立て、讒言を受けて処刑された呉書 巻12 §81
演直接の記録なし第38回 §26
正直接の記録なし — 教令を作った事績から推定呉書 巻12 §80
演直接の記録なし — 孫権が礼遇した士人の名簿から推定第38回 §26
正直接の記録なし呉書 巻12 §81
演直接の記録なし第38回 §26
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。