施績

正史 呉 字 公緒 Shi JiGongxu시적공서施绩

プロフィール
職業正武将 · 左大司馬所属呉
登場正収録呉書
出生正? 推定出身地
死去正270年 推定死去地
実在実在言及正22回

人物紹介

施績は字を公緒といい、呉の将軍朱然の子である。父の朱然はもとは施氏で、母方のおじ朱治の跡継ぎとなった人であり、施績は五鳳年間に上表して本来の姓である施氏に戻った。 正史 呉書 巻11 §12 · 24–26 · 30

赤烏12年(249)に父の跡を継いで平魏将軍・楽郷督となり、翌年、江陵を攻めて退く魏の王昶の軍を追って戦った。孫綝が政権を握ると、呉が乱れることを憂えてひそかに蜀と手を結んだ。孫皓が即位した元興元年(264)に上大将軍から左大司馬となり、建衡2年(270)に死去した。 正史 呉書 巻11 §24 · 26–30正史 呉書 巻3 §50 · 62

正史を著した陳寿は評で呂拠・朱異とともに彼を挙げ、「みな将の才があり、父の業をよく継いだ」と述べた。三国志演義には登場しない。 正史 呉書 巻11 §67

正史の記録

施績は字を公緒といい、朱然の子である。父の任子として郎となり、のちに建忠都尉に任じられた。朱治の子である叔父朱才が死ぬと、その兵を率いて太常潘濬に従って五渓を討伐し、胆力で称えられた。偏将軍・営下督に移って盗賊に関することを担い、法を守るにあたって偏りがなかった。 正史 呉書 巻11 §10 · 24–26

魯王孫覇が施績と交わろうと心を寄せ、彼の役所を訪ねてそばに座り、親しくなろうとしたことがあったが、施績は席から降りて立ち、辞退して受けなかった。赤烏12年(249)に朱然が死ぬと、施績は家業を継いで平魏将軍・楽郷督に任じられた。 正史 呉書 巻11 §24 · 26

翌年、魏の征南将軍王昶が軍勢を率いて江陵城を攻めたが、勝てずに退いた。施績は奮威将軍諸葛融に手紙を送り、王昶は遠くから来て疲れ、馬には食べる物がなく、力尽きて逃げるのであって天の助けであるとし、自分が前で打ち破り、貴殿が後ろでその勢いに乗ろうと述べた。諸葛融が承諾すると、施績は城から30里離れた紀南で王昶に追いつき、初めは戦って勝ったが、諸葛融が進まなかったので、のちに不利になった。 正史 呉書 巻11 §27–28

孫権は施績を大いに称え、諸葛融を厳しく責めたが、諸葛融の兄である大将軍諸葛恪が貴く重んじられていたので、諸葛融は廃されなかった。施績は初めから諸葛恪・諸葛融と仲が悪かったが、この件で溝がいっそう深まった。 正史 呉書 巻11 §28

魏の側の記録である王昶伝は、この戦いを異なって記している。嘉平2年(250)に王昶は江陵へ行き、竹の綱で橋を架けて川を渡って攻撃し、呉軍が南岸へ逃げたのち七つの道から攻めてくると、弩をいっせいに射させたので、賊の大将施績は夜に江陵城へ逃げ込んだ。王昶が軍を大道から帰すふりをして伏兵を置くと、施績は果たして追ってきて戦いに敗れて逃げ、その将の鍾離茂と許旻が斬られた。 正史 魏書 巻27 §40 · 42–44

建興元年(252)に鎮東将軍に移った。2年(253)春、諸葛恪は新城に向かうにあたって施績に力を合わせるよう求めながら、彼を半州にとどめ置き、諸葛融にその任を兼ねさせた。その冬に諸葛恪が殺されると、無難督施寛が将軍の施績・孫壱・全熙らのもとへ行って諸葛融を捕らえさせ、兵が城を囲むと諸葛融は毒を飲んで死んだ。施績は再び楽郷に戻り、仮節を受けた。 正史 呉書 巻11 §28–29正史 呉書 巻7 §66正史 呉書 巻6 §21

これより先、朱然は朱治の喪を終えたのち本来の姓に戻ることを願ったが、孫権は許さなかった。施績は五鳳年間に上表して施氏に戻った。 正史 呉書 巻11 §30

太平2年(257)に驃騎将軍に任じられた。孫綝が政権を握って大臣たちが疑って二心を抱くと、施績は呉が必ず乱れて中原の国がその隙に乗じることを憂え、ひそかに手紙を送って蜀と手を結び、蜀にあわせて併呑する備えをさせた。蜀は右将軍閻宇に兵5千人を率いて白帝の守備を増やさせ、施績の次の命を待たせた。諸葛誕が魏で反乱を起こしたときには、魏の王昶が夾石に拠って江陵に迫り、施績と全熙を足止めして東へ行けないようにした。 正史 呉書 巻11 §29正史 魏書 巻27 §45

永安の初めに上大将軍・都護督に移り、巴丘から上は西陵までを受け持った。永安6年(263)、孫休は大将軍丁奉を魏の寿春に向かわせ、将軍留平を別に南郡の施績のもとへ遣わして兵の向かう先を議させたが、いずれも蜀を救うためであった。蜀の君主劉禅が魏に降伏したという知らせが届くと、取りやめた。 正史 呉書 巻11 §30正史 呉書 巻3 §43–44

元興元年(264)8月、孫皓は上大将軍施績と大将軍丁奉を左・右大司馬とした。その年の10月、魏の詔は、孫休が死んで君主が代わったとし、「偽将施績は賊の名臣であるが、疑いを抱いて自ら不安になり、深く忌み嫌われている」と述べた。建衡2年(270)夏4月に左大司馬施績が死ぬと、陸抗が信陵・西陵・夷道・楽郷・公安の諸軍を都督し、楽郷に治所を置いた。 正史 呉書 巻11 §30正史 呉書 巻3 §50 · 62正史 魏書 巻4 §139 · 141正史 呉書 巻13 §63

陳寿は評で「呂拠・朱異・施績はみな将の才があり、父の業をよく継いだ」と述べ、呂拠と朱異が過ちもないのにかえって禍に遭ったのは、出会った時が違ったからであるとした。 正史 呉書 巻11 §67

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史
  • 統率62
  • 武力58
  • 知力55
  • 政治55
  • 魅力45
  • 徳72
  • 処世62
  • 文芸36
  • 弁舌58
  • 用人40
各項目100点

項目別の根拠

正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

所属の変遷

  1. 呉 · 正史 · 正史 巻56 「建興元年,遷鎮東將軍」

家族

父母朱然 正史

Wikidataの歴史・演義人物項目に基づく。推定バッジのない関係は正史原文でも確認済み。