諸葛融

正史 呉 字 叔長 Zhuge RongShuchang제갈융숙장诸葛融

プロフィール
職業正武将 · 奮威将軍所属呉
登場正収録呉書
出生正? 推定出身地琅邪国 陽都県 推定
死去正253年 推定死去地
死因正自害 推定
実在実在言及正11回

人物紹介

諸葛融は、呉の大将軍諸葛瑾の子で、諸葛恪の弟である。正史には巻7の諸葛瑾の伝の末尾に付された短い伝があり、陳寿の本文は彼の字を記さない。諸葛恪がすでに自ら侯に封じられていたので諸葛融が爵位を継ぎ、兵を引き継いで公安に駐屯した。 正史 呉書 巻7 §63–65

孫権の死後、奮威将軍に移った。それより前、施績とともに魏の王昶を追撃することにしながら進まず、孫権から厳しく叱責された。建興2年(253)冬に諸葛恪が誅殺されると、彼を捕らえに来た兵が城を囲む中で毒を仰いで死に、3人の息子はみな処刑された。 正史 呉書 巻7 §66正史 呉書 巻11 §27–29

陳寿は巻7の評で彼に触れず、巻19の諸葛恪の伝の評で、諸葛恪が陸遜と弟の諸葛融に送った手紙を挙げただけである。演義には登場しない。 正史 呉書 巻7 §100正史 呉書 巻19 §108

正史の記録

諸葛融の父諸葛瑾は琅邪陽都の人で、孫権が尊号を称すると大将軍・左都護となり、豫州牧を兼ねた。諸葛瑾の子諸葛恪は当代に名声が高く、孫権はたいへん重んじたが、諸葛瑾は常に彼を家を保つ子ではないと言って憂えた。諸葛瑾は赤烏4年(241)、68歳で死去した。 正史 呉書 巻7 §51 · 63

諸葛恪がすでに自ら侯に封じられていたので、弟の諸葛融が爵位を継いだ。諸葛融は兵を率いる任を引き継いで公安に駐屯し、部曲の吏士は彼に親しみ従った。朱然の伝によれば、諸葛瑾の子諸葛融と歩騭の子歩協がそれぞれ父の職務を継いだが、孫権は特にまた朱然をそれらすべてを統べる大督とした。 正史 呉書 巻7 §65正史 呉書 巻11 §22

国境の外に事がないとき、諸葛融は秋と冬には狩猟をして武芸を磨き、春と夏には賓客を招いて盛大な宴を開いた。休暇を得た吏士の中には千里の道も遠しとせずに訪れる者がいた。宴のたびに賓客にそれぞれ自分の特技を言わせたうえで、力量をはかって相手を選んで組み合わせ、囲碁と樗蒲、投壺と弓、弾弓を部門別に分けて競わせた。美味な果物と清酒が次々に出される中、諸葛融はあちこち巡って見物し、一日中疲れを見せなかった。 正史 呉書 巻7 §65

諸葛融の父と兄は質素で、軍中にあっても身に飾りがなかったが、諸葛融は錦や毛織物、刺繍の衣でひとり贅沢で華美であった。 正史 呉書 巻7 §66

施績の伝によれば、朱然が死んだ翌年、魏の征南将軍王昶が江陵城を攻めたが勝てずに退いた。施績は奮威将軍諸葛融に手紙を送り、自分が前で打ち破り、あなたが後ろでその勢いに乗ろうと言い、諸葛融はこれを承諾した。施績は城から30里離れた紀南で王昶に追いつき、初めは戦って勝ったが、諸葛融が進まなかったため、のちに不利となった。 正史 呉書 巻11 §24 · 26–28

孫権は施績を大いに称賛し、諸葛融を激しく叱責して怒ったが、諸葛融の兄の大将軍諸葛恪が貴く重んじられていたので、諸葛融は罷免されずにすんだ。施績はもとから諸葛恪・諸葛融と仲が悪かったが、この件で溝がいっそう深まった。施績の伝はこのときすでに彼を奮威将軍と呼んでいるが、諸葛瑾の伝は孫権の死後に奮威将軍に移ったと記す。 正史 呉書 巻11 §27–28正史 呉書 巻7 §66

孫権が死ぬと、諸葛恪は公安督である弟の諸葛融に手紙を送った。自分は顧命を受けて幼い君主を補佐することになったが才が足りず憂えていると言い、弟のいる所は敵と犬の歯のように入り組んでいるので、軍備を整え将兵を励まし、警戒を平時以上に厳しくし、命を顧みず朝廷に報いて先祖を辱めないようにと言った。 正史 呉書 巻19 §23–25

建興2年(253)春、諸葛恪は新城に向かうにあたって施績に力を合わせるよう求めながら、彼を半州にとどめ置き、諸葛融にその任務を兼ねさせた。諸葛瑾の伝は、諸葛恪が淮南を征伐したとき、諸葛融に節を与え、兵を率いて沔水に入って西の兵を撃たせたと記す。 正史 呉書 巻11 §28–29正史 呉書 巻7 §66

その年の冬に諸葛恪が誅殺されると、無難督施寛を将軍施績・孫壱・全熙らのもとに遣わして諸葛融を捕らえさせた。諸葛融は突然兵が来たと聞いて恐れためらい、決断できず、兵が到着して城を包囲すると毒を仰いで死んだ。3人の息子はみな処刑された。孫奐の伝も、孫峻が諸葛恪を殺したとき、孫壱が全熙・施績とともに公安督諸葛融を攻め、諸葛融が自殺したと記す。 正史 呉書 巻11 §29正史 呉書 巻7 §66正史 呉書 巻6 §21

陳寿は巻7の評で、諸葛瑾と歩騭は徳と度量、規範と節度によって当世に重んじられたと言ったが、諸葛融には触れなかった。巻19の評では、諸葛恪が陸遜と弟の諸葛融に送った手紙の内容を自ら実践していれば、過ちや禍はなかったであろうと言った。 正史 呉書 巻7 §100正史 呉書 巻19 §108

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史
  • 統率28
  • 武力45
  • 知力35
  • 政治38
  • 魅力65
  • 徳22
  • 処世20
  • 文芸40
  • 弁舌38
  • 用人48
各項目100点

項目別の根拠

  • 統率正28

    正施績と挟撃を約束しながら進まず、敗北させた呉書 巻11 §28

  • 武力正45

    正秋と冬には狩猟をして武芸を磨いた呉書 巻7 §65

  • 知力正35推定

    正直接の記録なし — 諸葛瑾の爵位を継いだ将であることから推定呉書 巻7 §65

  • 政治正38推定

    正直接の記録なし — 諸葛瑾の爵位を継いだ将であることから推定呉書 巻7 §65

  • 魅力正65

    正部曲の吏士が従い、千里の道を訪れる者もいた呉書 巻7 §65

  • 徳正22

    正ひとり贅沢で、施績との約束を破り孫権に叱責された呉書 巻7 §66呉書 巻11 §28

  • 処世正20

    正兵が来ると恐れためらって決断できず、毒を仰いだ呉書 巻7 §66

  • 文芸・学術正40推定

    正直接の記録なし — 賓客を集めて盛大な宴を開いたことから推定呉書 巻7 §65

  • 弁舌・外交正38推定

    正直接の記録なし — 諸葛瑾の爵位を継いだ将であることから推定呉書 巻7 §65

  • 識人・用人正48

    正賓客ごとに特技を言わせ、力量をはかって組み合わせた呉書 巻7 §65

正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

所属の変遷

  1. 呉 · 正史 · 正史 巻52 「權以融代表」

家族

父母諸葛瑾 正史
兄弟姉妹諸葛恪 正史, 諸葛喬 正史

Wikidataの歴史・演義人物項目に基づく。推定バッジのない関係は正史原文でも確認済み。