諸葛喬
人物紹介
諸葛喬は字を伯松といい、諸葛亮の兄諸葛瑾の次男である。子のなかった諸葛亮が彼を後継ぎにしたいと求めると、諸葛瑾は孫権に申し上げて西へ送り、諸葛亮は彼を嫡子として、もとの字である仲慎を改めた。 正史 蜀書 巻5 §56
駙馬都尉となって諸葛亮に従って漢中に至り、建興6年(228)に25歳で死去した。子の諸葛攀はのちに戻って再び諸葛瑾の後継ぎとなった。 正史 蜀書 巻5 §56–57
正史蜀書巻5の諸葛亮伝の後に短い伝が付されている。陳寿は巻5の評で諸葛亮だけを論じ、諸葛喬は取り上げなかった。演義には登場しない。 正史 蜀書 巻5 §55–57 · 66–67
正史の記録
諸葛喬は字を伯松といい、諸葛亮の兄諸葛瑾の次男で、もとの字は仲慎であった。兄の元遜(諸葛恪)とともに当時名があり、論者は諸葛喬の才は兄に及ばないが、性格と行いは兄にまさると考えた。 正史 蜀書 巻5 §56
はじめ諸葛亮に子がなかったので、諸葛喬を後継ぎにしたいと求めると、諸葛瑾は孫権に申し上げて諸葛喬を西へ送った。諸葛亮は諸葛喬を自分の嫡子とし、そのためその字を改めた。 正史 蜀書 巻5 §56
諸葛喬は駙馬都尉に任じられ、諸葛亮に従って漢中に至った。諸葛亮が諸軍を率いて北に向かい漢中に駐屯したのは建興5年(227)である。蜀書巻11霍王向張楊費伝によれば、諸葛亮は北の漢中に駐屯したとき、霍弋を記室に招き、子の諸葛喬とともに交わらせた。 正史 蜀書 巻5 §56 · 24正史 蜀書 巻11 §6
諸葛喬は建興6年(228)に25歳で死去した。陳寿の本文は、彼がどこでどのように死んだかを記さない。 正史 蜀書 巻5 §56
子の諸葛攀は官が行護軍・翊武将軍に至ったが、やはり早世した。諸葛恪が呉で誅殺されて子孫がみな絶えたが、諸葛亮には別に後裔がいたので、諸葛攀は戻って再び諸葛瑾の後継ぎとなった。諸葛亮伝は続いて諸葛亮の子諸葛瞻の伝を載せ、建興12年(234)に諸葛亮は諸葛瑾に送った手紙で、瞻は今や8歳になったと述べている。 正史 蜀書 巻5 §57 · 59
陳寿は巻5の評で、諸葛亮が宰相として百姓を慈しみ公正な道を広めたと言いながらも、変化に応じる将としての軍略は彼の長所ではなかったようだと論じただけで、諸葛喬については何も述べなかった。 正史 蜀書 巻5 §66–67
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。
- 統率38
- 武力33
- 知力52
- 政治42
- 魅力55
- 徳68
- 処世42
- 文芸48
- 弁舌40
- 用人38
項目別の根拠
正直接の記録なし — 駙馬都尉の経歴から推定蜀書 巻5 §56
正直接の記録なし — 駙馬都尉の経歴から推定蜀書 巻5 §56
正才は兄諸葛恪に及ばないとの評蜀書 巻5 §56
正直接の記録なし — 駙馬都尉の経歴から推定蜀書 巻5 §56
正兄とともに当時名があった蜀書 巻5 §56
正性格と行いは兄にまさるとの評蜀書 巻5 §56
正直接の記録なし — 駙馬都尉の経歴から推定蜀書 巻5 §56
正直接の記録なし — 駙馬都尉の経歴から推定蜀書 巻5 §56
正直接の記録なし — 駙馬都尉の経歴から推定蜀書 巻5 §56
正直接の記録なし — 駙馬都尉の経歴から推定蜀書 巻5 §56
正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。