曹嵩

正史演義 後漢 字 巨高 Cao SongJugao조숭거고

プロフィール
職業正文官 · 太尉所属後漢
登場正演収録
出生出身地沛国 譙県 推定
死因正殺害 演殺害 推定
実在実在言及正5回

人物紹介

曹嵩は曹操の父である。正史には独立した伝がなく、魏書巻1武帝紀の冒頭に、中常侍・大長秋曹騰の養子として跡を継ぎ、官は太尉に至ったが、その出生の本末は誰も詳しく知ることができなかったと記される。 正史 魏書 巻1 §1

官を辞したのち譙県に帰っていたが、董卓の乱のときに琅邪へ避難し、陶謙に殺害された。曹操はこのため東を討って仇を報いることに志を置いた。孫の曹丕が魏王となったのち太王に、皇帝となったのち太皇帝に追尊された。 正史 魏書 巻1 §28正史 魏書 巻2 §6 · 17

独立した伝がないため、陳寿の評も彼を論じていない。演義では第1回で曹操を紹介する際に、もとは夏侯氏であったが曹騰の養子となって曹姓を名乗ったとして初めて名が見え、120回のうち5回に名が見え、回目に名が入った回はない。第10回では、陶謙が護送を任せた都尉張闓の兵に一家もろとも殺される。 演義 第1回 §36演義 第10回 §28 · 30–31

正史の記録

魏書巻1の武帝紀は冒頭で、太祖武皇帝が沛国譙県の人で漢の相国曹参の子孫であると述べたのち、桓帝のとき曹騰が中常侍・大長秋となって費亭侯に封じられたと記す。養子の曹嵩が跡を継いで官は太尉に至ったが、その出生の本末は誰も詳しく知ることができなかった。曹嵩が太祖を生んだ。陳寿の本文は曹嵩の字・出身・生年を記さない。 正史 魏書 巻1 §1

武帝紀は興平元年(194)春に太祖が徐州から帰還したことを記す際に、これより先、太祖の父曹嵩は官を辞したのち譙県に帰っていたが、董卓の乱のときに琅邪へ避難し、陶謙に殺害されたと付け加える。それゆえ太祖は東を討って仇を報いることに志を置いた。陳寿の本文は、彼が死んだ年・場所・経緯を別に明らかにしていない。 正史 魏書 巻1 §28

その年の夏、太祖は荀彧と程昱に鄄城を守らせて再び陶謙を討ち、五城を落とし、地を攻略して東海に至った。帰途に郯県を通ったとき、陶謙の将曹豹が劉備とともに郯県の東に駐屯して阻んだが、太祖はこれを破って襄賁を落とし、通過した所では多くの人を殺した。陶謙伝は、この征討で陶謙が恐れて丹楊に逃げ帰ろうとしたが、ちょうど張邈が背いて呂布を迎え入れたので、太祖は引き返して呂布を討ったと記す。陶謙伝には曹嵩は登場しない。 正史 魏書 巻1 §28正史 魏書 巻8 §24–28

建安25年(220)を改めた延康元年の5月戊寅の日、天子は魏王曹丕に命じて、祖父の太尉を太王に、夫人丁氏を太王后に追尊させた。黄初元年(220)11月癸酉の日には、皇祖太王を太皇帝に、父の武王を武皇帝に追尊した。 正史 魏書 巻2 §1 · 6 · 17

明帝は即位後に下した詔で、魏の皇室が天の序を承けて以来、高皇帝と太皇帝から事績を起こし、武皇帝と文皇帝に至って功業が隆盛したと述べた。太和3年(229)11月に洛陽の宗廟がようやく完成すると、太常韓曁に節を持たせて高皇帝・太皇帝・武帝・文帝の神主を鄴から迎えさせ、12月己丑の日に到着して神主を廟に安置した。 正史 魏書 巻14 §103正史 魏書 巻3 §11 · 15

魏書巻21の陳琳の記録によれば、陳琳は冀州に難を避け、袁紹のもとで文書をつかさどり、袁氏が敗れると太祖に帰順した。太祖は彼に、卿がかつて本初(袁紹)のために檄文を書いたとき、私の罪状を並べるだけでよかったはずだ、悪を憎むにしてもその当人で止めるべきなのに、どうして上は父や祖父にまで及んだのかと言った。陳琳が謝罪すると、太祖はその才を惜しんで咎めなかった。陳寿の本文はその檄文の文章を載せていない。 正史 魏書 巻21 §14–15

演義の描写

演義第1回は、張梁と張宝の敗残兵を阻んだ騎都尉曹操を紹介する際に、曹操の父曹嵩はもとは夏侯氏であったが、中常侍曹騰の養子となって曹姓を名乗ったと記す。幼い曹操の放蕩ぶりを見た叔父がいつも曹嵩に告げ口するので、曹操は叔父の前でわざと倒れて中風にかかったふりをする。驚いた叔父の話を聞いて駆けつけた曹嵩が、何ともない息子を見て、叔父がお前は中風にかかったと言っていたが、もう治ったのかと尋ねると、曹操はもともとそんな病はなく、叔父に嫌われて陥れられたのだと答える。曹嵩はその言葉を信じ、以後は叔父の言うことに耳を貸さなくなり、曹操は思うままに放蕩できるようになった。 演義 第1回 §36–38

第5回で夏侯惇と夏侯淵が曹操に合流する場面は、二人がもともと曹操の兄弟筋にあたり、曹嵩がもとは夏侯氏の子で曹家に養子に入ったので、同族であると説明する。 演義 第5回 §4–5

第10回で曹操は泰山太守応劭を琅邪郡に遣わし、父の曹嵩を迎えに行かせる。陳留から難を避けて琅邪に隠れ住んでいた曹嵩は、書状を受け取ると弟の曹徳、一家の老若40人余り、従者100人余り、車100台余りを率いて兗州へ向かう。徐州の陶謙はかねて曹操と交わりを結びたいと思っていたがきっかけがなかったところ、曹操の父が通ると知って境界の外まで出迎え、2日間宴を設けてもてなし、出発の際は城郭の外まで見送って、都尉張闓に兵500で護送させる。華県と費県の間に至ったとき、夏の終わりから秋の初めの大雨に遭い、一行は古寺に泊まる。 演義 第10回 §27–28

もとは黄巾の残党であった張闓は、雨に濡れて恨み言を言う兵たちを集め、三更に曹嵩一家を殺して財物を奪い、山中に入って山賊になろうと謀る。その夜、剣を持って出た曹徳は槍で突き殺され、曹嵩は妾一人を連れて方丈の裏へ逃げ、塀を越えようとしたが、妾が太っていて抜け出せなかったため、妾とともに厠に隠れたところを乱兵に殺される。応劭は脱出して袁紹に身を寄せ、張闓は曹嵩の一家を皆殺しにして財物を奪ったのち、寺に火を放って淮南へ逃げる。 演義 第10回 §29–31

知らせを聞いた曹操は慟哭して地に倒れたのち、陶謙が兵を放って父を殺したのだから、ともに天を戴くことはできないとして、徐州へ兵を出す。陳宮は、尊父が害されたのは張闓の悪行であって陶謙の罪ではないと諫めるが、曹操は聞き入れない。曹操の中軍には「報仇雪恨(仇を報い恨みを雪ぐ)」の四字を大書した白旗2旒が立ち、曹操は白い喪服を着て陣前で陶謙を罵る。陶謙は、もともと曹操とよしみを結ぼうとして張闓に護送を任せたが、賊の心が改まっていなかったためにこのようなことが起きたのであり、自分のせいではないと弁明する。第11回では、孔融が連れてきた麋竺が劉備に、張闓が曹嵩を殺したことを詳しく語って救援を求める。 演義 第10回 §33 · 35–38演義 第11回 §19

第22回で袁紹の命により書記の陳琳が作った檄文は、曹操の祖父の中常侍曹騰を非難したのち、父の曹嵩は物乞いの子を引き取って育てた養子で、賄賂によって官位を借り、金を車に積み璧を輿に載せて権門に献じ、三公の位を盗んだと責め立てる。 演義 第22回 §10 · 12

演義と異なる点

出生:演義第1回と第5回は、曹嵩がもとは夏侯氏の子で曹騰の養子になったと明かす。正史の武帝紀は、曹騰の養子曹嵩が跡を継いだが、その出生の本末は誰も詳しく知ることができなかったと記す。 演義 第1回 §36演義 第5回 §5正史 魏書 巻1 §1

避難先:演義第10回で曹嵩は、陳留から難を避けて琅邪に隠れ住んでいた。正史の武帝紀では、官を辞したのち譙県に帰っていたが、董卓の乱のときに琅邪へ避難した。 演義 第10回 §27正史 魏書 巻1 §28

殺した者:演義第10回で曹嵩を殺したのは、陶謙が護送を任せた都尉張闓の兵であり、陶謙はこれが自分のせいではないと弁明する。正史の武帝紀は曹嵩が陶謙に殺害されたと記し、陳寿の本文には張闓という名は出てこない。 演義 第10回 §30–31 · 38正史 魏書 巻1 §28

死の様子:演義第10回は、華県と費県の間の古寺で弟の曹徳が先に死に、曹嵩が妾とともに厠に隠れたのちに殺される場面を描く。正史の武帝紀は死んだ場所と経緯を記さず、陳寿の本文には曹徳も登場しない。 演義 第10回 §28 · 30正史 魏書 巻1 §28

仇討ち:演義第10回では、陳宮が曹操を訪ねて陶謙の罪ではないと諫める。正史の武帝紀は、太祖が仇を報いることに志を置いて再び陶謙を討ち、通過した所では多くの人を殺したと記すだけで、陳宮が諫めたという話はない。陳宮はその直後に張邈とともに背いて呂布を迎え入れる。 演義 第10回 §35–36正史 魏書 巻1 §28–29

官職と追尊:演義では第22回の檄文が賄賂で三公の位を盗んだと非難するだけで、太尉という官職と追尊は登場しない。正史では官は太尉に至り、孫の曹丕のときに太王を経て太皇帝に追尊された。 演義 第22回 §12正史 魏書 巻1 §1正史 魏書 巻2 §6 · 17

檄文:演義第22回は陳琳の檄文をそのまま載せ、その中で曹嵩を物乞いの子を引き取って育てた養子として非難する。陳寿の本文は檄文の文章を載せず、陳琳が帰順したのち、太祖がその檄文が上は父や祖父にまで及んだことを問いただしたと記すだけである。 演義 第22回 §12正史 魏書 巻21 §15

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率3131±0
  • 武力3128−3
  • 知力3830−8
  • 政治5038−12
  • 魅力3838±0
  • 徳4040±0
  • 処世4035−5
  • 文芸3833−5
  • 弁舌3533−2
  • 用人3533−2
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

政治正50演38推定 −12

正曹騰の養子として跡を継ぎ、官は太尉に至った魏書 巻1 §1

演直接の記録なし — 事績から推定第10回 §27

近い項目 9件 — 根拠を見る
  • 統率正31推定演31推定 ±0

    正直接の記録なし — 文官としての事績から推定魏書 巻1 §1

    演直接の記録なし — 戦闘記録がないため推定第10回 §27

  • 武力正31推定演28 −3

    正直接の記録なし — 文官としての事績から推定魏書 巻1 §1

    演乱兵から逃れようとして厠に隠れ、殺された第10回 §30

  • 知力正38推定演30 −8

    正直接の記録なし — 事績から推定魏書 巻1 §1

    演曹操の嘘を信じ、叔父の言葉に耳を貸さなかった第1回 §37第1回 §38

  • 魅力正38推定演38推定 ±0

    正直接の記録なし — 事績から推定魏書 巻1 §1

    演直接の記録なし — 事績から推定第10回 §28

  • 徳正40推定演40推定 ±0

    正直接の記録なし — 事績から推定魏書 巻1 §28

    演直接の記録なし — 事績から推定第10回 §27

  • 処世正40推定演35推定 −5

    正直接の記録なし — 官を辞して琅邪へ避難した事績から推定魏書 巻1 §28

    演直接の記録なし — 琅邪へ避難した事績から推定第10回 §27

  • 文芸・学術正38推定演33推定 −5

    正直接の記録なし — 事績から推定魏書 巻1 §1

    演直接の記録なし — 事績から推定第1回 §36

  • 弁舌・外交正35推定演33推定 −2

    正直接の記録なし — 事績から推定魏書 巻1 §1

    演直接の記録なし — 事績から推定第10回 §28

  • 識人・用人正35推定演33推定 −2

    正直接の記録なし — 事績から推定魏書 巻1 §1

    演直接の記録なし — 事績から推定第1回 §38

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(5回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

所属の変遷

  1. 後漢 · 正史 · 正史 巻1 「靈帝擢拜大司農、大鴻臚,代崔烈爲太尉」

家族

子曹操 演義・正史
親族曹騰 正史, 夏侯惇 正史, 曹安民 正史

Wikidataの歴史・演義人物項目に基づく。推定バッジのない関係は正史原文でも確認済み。