張梁
人物紹介
張梁は演義第1回に鉅鹿郡の三人兄弟、張角・張宝・張梁の一人として登場する黄巾賊の首領である。兄の張角が兵を挙げて自ら「天公将軍」と称したとき、張宝は「地公将軍」、張梁は「人公将軍」と称する。 演義 第1回 §7 · 11
潁川で張宝とともに皇甫嵩・朱儁の火攻めに敗れて逃げる途中、曹操に再び大いに打ち破られ、第2回では張角が死んだのちその徒衆を率いて皇甫嵩と対峙するが、七度続けて敗れ、曲陽で斬られる。 演義 第1回 §35–36 · 40–41演義 第2回 §8
演義全120回のうち第1・2回の2回に登場し、回目に名が入る回はない。陳寿の本文には登場せず、裴松之の注にのみ記録がある。陳寿の本文の孫破虜討逆伝は、中平元年(184)に黄巾賊の首領張角が魏郡で起こると、朝廷が車騎将軍皇甫嵩と中郎将朱儁を遣わして討たせたと記す。 演義 第1回 §7演義 第2回 §8正史 呉書 巻1 §6
演義の描写
演義第1回は、鉅鹿郡に張角・張宝・張梁の三兄弟がいたと紹介する。張角は南華老仙から『太平要術』を授かって「大賢良師」と称して徒衆を集め、二人の弟と相談して、いま民心はすでに従っているので、この勢いに乗って天下を取らなければまことに惜しいと言い、ひそかに黄色の旗を作って決起の日を定める。弟子の唐周の告発で事が露見すると、張角は夜を徹して兵を挙げ、自ら「天公将軍」と称し、張宝は「地公将軍」、張梁は「人公将軍」と称する。 演義 第1回 §7–8 · 10–11
広宗で張角と対峙した盧植は劉備に、賊の弟の張梁と張宝が潁川で皇甫嵩・朱儁と対峙していると告げる。戦いが不利になった賊たちは長社に退いて草むらに拠って陣を張るが、大風が起こった夜、皇甫嵩と朱儁が一斉に火を放って攻め込むと、馬に鞍を置く暇もなく四方に散り散りになる。夜明けまで戦った末に、張梁と張宝は敗残兵を率いて道を切り開いて逃げる。 演義 第1回 §34–36
その前を赤い旗を掲げた騎都尉曹操の軍馬が遮り、ひとしきり大いに打ち破って首級一万余を斬り、旗や太鼓、馬を数えきれないほど奪うが、張梁と張宝は死に物狂いで戦ってかろうじて逃れる。曹操は皇甫嵩・朱儁に会ったのち二人を追い、遅れて潁川に着いた劉備に、皇甫嵩は力尽きた張梁と張宝が必ず広宗へ行って張角を頼るだろうと言う。 演義 第1回 §36 · 40–42
第2回で朱儁が劉備とともに張宝を攻める間、曹操は皇甫嵩に従って張梁を攻め、曲陽で大いに戦う。陽城を囲む朱儁のもとに戻った偵察兵は、皇甫嵩が到着したとき張角はすでに死んでおり、張梁がその徒衆を率いて対抗したが、皇甫嵩が七度続けて勝って曲陽で張梁を斬り、張角の棺を掘り出して屍の首を斬り都へ送り、残りの徒衆はみな降伏したと伝える。朝廷は皇甫嵩を車騎将軍に昇進させて冀州牧を兼ねさせ、曹操も功によって済南相となる。 演義 第2回 §3 · 8–9
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
陳寿『三国志』本文に記録がないため、演義の点数のみです。
- 統率42
- 武力40
- 知力32
- 政治31
- 魅力45
- 徳28
- 処世38
- 文芸31
- 弁舌31
- 用人31
項目別の根拠
演直接の記録なし — 死に物狂いで戦って逃れたことから推定第1回 §41
演直接の記録なし — 事績から推定第1回 §36
演直接の記録なし — 事績から推定第1回 §11
演兄の張角とともに兵を挙げて反乱した第1回 §11
演直接の記録なし — 事績から推定第1回 §7
演直接の記録なし — 事績から推定第1回 §11
演直接の記録なし — 事績から推定第1回 §11
演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。