盧植
人物紹介
盧植は涿郡の人である。陳寿の本文には独立した伝がなく、蜀書巻2の先主伝と、魏書巻8・巻22の公孫瓚・盧毓の記録に一度ずつ名が見える。先主伝は彼を劉備と同郡の人である元の九江太守と記し、十五歳の劉備が同族の劉徳然、遼西の公孫瓚とともに彼に仕えたという。公孫瓚の記録でも、侯太守が公孫瓚を涿郡の盧植のもとへ送って経書を学ばせている。 正史 蜀書 巻2 §4正史 魏書 巻8 §2
息子盧毓の記録は、父盧植が世に名があったとし、盧毓が十歳で父を失ったと記す。演義では第1回に初めて登場し、120回のうち3回に登場するが、回目に名が載ることはない。第1回では黄巾賊を討つ中郎将として登場して旧弟子の劉備を受け入れ、第3回では董卓の皇帝廃立に立ち向かう。 正史 魏書 巻22 §90演義 第1回 §12 · 33演義 第3回 §32–33
正史の記録
盧植は陳寿の本文に独立した伝がない。蜀書巻2の先主伝によれば、涿郡涿県の人である劉備は十五歳のとき母に送り出されて学びに行き、同族の劉徳然、遼西の公孫瓚とともに、元の九江太守で同郡の人である盧植に仕えた。公孫瓚は劉備と深く友として交わり、公孫瓚が年長であったので、劉備は彼に兄として仕えた。 正史 蜀書 巻2 §2 · 4
魏書巻8「二公孫陶四張伝」の公孫瓚の記録によれば、遼西令支の人である公孫瓚は郡の門下書佐となったが、容姿がよく声が大きかったので、侯太守が彼を見込んで娘を妻とし、涿郡の盧植のもとへ送って経書を学ばせた。公孫瓚はのちに再び郡吏となった。 正史 魏書 巻8 §2
魏書巻22「桓二陳徐衛盧伝」の盧毓の記録は、盧毓が涿郡涿県の人であり、父盧植が世に名があったと記す。盧毓は十歳で父を失い、本州に乱が起きて二人の兄が乱の中で死んだ。袁紹と公孫瓚が互いに戦っていたとき幽州と冀州に飢饉が起きたが、盧毓はやもめとなった兄嫁と父を亡くした甥を養った。 正史 魏書 巻22 §90
陳寿の本文で盧植の名が見えるのはこの三か所だけである。彼の字、九江太守以外の官歴、没年は記されておらず、巻22の評は息子盧毓を論じるだけで盧植を別に取り上げない。 正史 蜀書 巻2 §4正史 魏書 巻8 §2正史 魏書 巻22 §90 · 108
演義の描写
演義第1回で、張角に従う黄巾賊が四、五十万に達すると、何進は皇帝に急いで詔を下させる一方、中郎将盧植・皇甫嵩・朱儁を派遣し、それぞれ精兵を率いて三路に分かれて討たせる。演義は、劉備が十五歳で遊学して鄭玄と盧植を師として仕え、公孫瓚らと友になったと記す。 演義 第1回 §12 · 16
同じ回で劉備は、中郎将盧植が広宗で張角と戦っていると聞き、かつて彼を師として仕えたので助けに行くと言って、関羽・張飛とともに配下五百人を率いて広宗へ向かう。盧植は大いに喜び、彼らを幕舎の前にとどめる。張角の軍勢十五万と盧植の兵五万が対峙して勝負がつかないので、盧植は、張角の弟張梁・張宝が潁川で皇甫嵩・朱儁と対陣しているとして、劉備に官軍千人を加えて与え、潁川へ行って情勢を探り、ともに攻める日を定めさせる。 演義 第1回 §33–34
劉備が潁川から再び広宗へ向かう途中、檻車に入れられて護送される盧植に出会う。盧植は、張角を包囲してまもなく打ち破るところだったが、張角が妖術を使ったためすぐには勝てず、視察に来た黄門左豊が賄賂を求めたので、軍糧さえ足りないのに勅使に献じる金がどこにあるかと答えたと語る。左豊が恨みを抱き、盧植は塁を高くするばかりで戦わず軍心を怠らせていると奏上したため、朝廷が中郎将董卓にその兵を代わって率いさせ、盧植を都へ連れ戻して罪を問うことにしたというのである。張飛が護送の兵を斬って盧植を救おうとすると、劉備が止める。第2回では皇甫嵩が、盧植には功があって罪はないと上表し、朝廷は盧植に元の官職を戻す。 演義 第1回 §42–44演義 第2回 §9
第3回で何進が董卓を都へ呼び寄せようとすると、盧植は、かねて董卓の人柄をよく知っているが、表向きは善良に見えても内心は凶悪であり、ひとたび宮廷に入れば必ず禍を起こすから、来させないよう止めよと諫める。何進が聞き入れないため鄭泰と盧植はともに官を捨てて去ったというが、宮中に変事が起きたとき、盧植は官を捨てたもののまだ去っておらず、鎧を着て戈を持って楼閣の下に立っている。遠くから段珪が何太后を無理やり連れて来ると盧植は大声で叱りつけ、段珪が身を翻して逃げると、窓から飛び降りた太后を急いで救う。 演義 第3回 §4–5 · 15
同じ回で董卓が宴に百官を集め、皇帝を廃して陳留王を立てようと思うが自分の言葉は公道にかなうかと問うと、盧植は、不明な太甲を桐宮に追放した伊尹と、昌邑王を廃した霍光の例を挙げる。そのうえで、今の皇帝は幼いが毛ほどの過失もなく、董卓は外郡の刺史として国政に参与したこともなく、伊尹・霍光のような大才もないとし、伊尹の志がなければ簒奪であると反論する。董卓が大いに怒って剣を抜き彼を殺そうとすると、侍中蔡邕と議郎彭伯が、盧尚書は天下の人望を集める人物であり、先に害すれば天下が震え恐れるだろうと諫め、董卓は思いとどまる。演義で盧植はこの場面を最後に再び登場しない。 演義 第3回 §28–29 · 32–33
演義と異なる点
劉備の師:演義第1回は、劉備が十五歳で鄭玄と盧植を師として仕えたとする。正史の先主伝は、劉備が同族の劉徳然、遼西の公孫瓚とともに盧植に仕えたと記すだけで、鄭玄は出てこない。 演義 第1回 §16正史 蜀書 巻2 §4
黄巾討伐:演義第1回で盧植は中郎将として広宗で張角を包囲し、劉備が彼の陣中を訪ねて命を受ける。陳寿の本文で盧植の名は先主伝と公孫瓚・盧毓の記録の三か所にしか見えず、黄巾賊を討ったことは記されていない。先主伝では、劉備は自分の手勢を率いて校尉鄒靖に従って黄巾賊を討ち、功を立てる。 演義 第1回 §33–34正史 蜀書 巻2 §4 · 6正史 魏書 巻8 §2正史 魏書 巻22 §90
護送と復職:演義第1回では、賄賂を断った盧植が左豊の讒言で檻車に乗せられて都へ連行され、第2回で皇甫嵩の上表によって元の官職を取り戻す。陳寿の本文にはこのことがない。 演義 第1回 §43–44演義 第2回 §9正史 蜀書 巻2 §4正史 魏書 巻8 §2正史 魏書 巻22 §90
何進への諫言と宮中の変:演義第3回で盧植は、董卓を呼ぶなと何進に諫め、宮中の変の際には段珪を叱りつけて何太后を救う。正史の魏書巻6「董二袁劉伝」の董卓の記録は、何進が董卓を召して兵を率いて京師に来させ、董卓が着く前に何進が敗亡すると、中常侍段珪らが皇帝を脅して小平津へ逃げたと記すだけで、盧植は出てこない。 演義 第3回 §4–5 · 15正史 魏書 巻6 §5–6
廃立に立ち向かったこと:演義第3回で盧植は董卓の廃立の議に立ち向かって殺されかけ、蔡邕・彭伯のとりなしで命拾いする。正史の董卓の記録は、董卓が皇帝を廃して弘農王とし、陳留王を立てたと記すだけで、これに反対した人を挙げない。 演義 第3回 §32–33正史 魏書 巻6 §8
官職:演義は彼を第1回で中郎将、第3回で盧尚書と呼ぶ。陳寿の本文が記す彼の官職は「元の九江太守」だけである。 演義 第1回 §12演義 第3回 §33正史 蜀書 巻2 §4
その後:演義で盧植は第3回を最後に登場せず、死も記されていない。陳寿の本文は盧毓の記録で盧毓が十歳で父を失ったと記すだけで、盧植の没年は明らかにしない。 演義 第3回 §33正史 魏書 巻22 §90
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率4566+21
- 武力3552+17
- 知力4564+19
- 政治5045−5
- 魅力5570+15
- 徳5088+38
- 処世4545±0
- 文芸7266−6
- 弁舌4062+22
- 用人4552+7
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
近い項目 4件 — 根拠を見る
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。