正荀攸らと董卓を刺殺したのち殽・函に拠ることを謀った魏書 巻10 §52
演董卓を豺狼と呼び、都に入れば人を食らうと見抜いた第3回 §4
鄭泰は河南の人である。霊帝が崩じて何進が政治を補佐するようになると、荀攸・華歆らとともに何進に招かれた。弟鄭渾の伝は鄭渾を河南開封県の人と記し、高祖父の鄭衆と鄭衆の父鄭興はともに名高い儒者であったという。 正史 魏書 巻13 §29正史 魏書 巻16 §80
董卓が都を長安に移した後、議郎として荀攸・何顒らとともに董卓を殺そうと謀った。のちに揚州刺史となって死去し、鄭渾が彼の幼い子の鄭袤を連れて淮南へ難を避けた。 正史 魏書 巻10 §52正史 魏書 巻16 §80–81
正史には彼の伝がなく評もなく、陳寿の本文では荀攸・華歆・鄭渾の伝に名が見える。演義では第2回に、何進に従って霊帝の柩の前で太子弁を立てる大臣の一人として初めて登場し、全120回のうち2回に登場するが、回目に名が挙がる回はない。第3回で侍御史として董卓を都に呼ばないよう諫め、聞き入れられないと官を捨てて去る。 正史 魏書 巻10 §52正史 魏書 巻13 §29正史 魏書 巻16 §80演義 第2回 §41演義 第3回 §4–5
華歆伝によれば、霊帝が崩じて何進が政治を補佐するようになると、河南の鄭泰、潁川の荀攸、そして華歆らを招いた。荀攸伝は、何進が政権を握ると荀攸ら天下の名士二十余人を招き寄せたと記す。 正史 魏書 巻13 §29正史 魏書 巻10 §52
董卓の乱が起こって関東で兵が挙がると、董卓は都を長安に移した。荀攸は議郎の鄭泰・何顒、侍中の种輯、越騎校尉の伍瓊らと謀って言った。「董卓の無道は桀・紂よりも甚だしく、天下はみな彼を怨んでいる。強兵を頼みとしてはいるが、実は一介の匹夫にすぎない。いまただちに彼を刺し殺して百姓に謝し、そののち殽山と函谷関に拠り、王命を輔けて天下に号令すれば、これは桓公・文公の挙と同じである。」 正史 魏書 巻10 §52
事がほぼ成ろうとしたところで発覚し、何顒と荀攸が捕らえられて獄につながれた。何顒は憂え恐れて自ら命を絶ち、荀攸はちょうど董卓が死んだために放免されることができた。荀攸伝はこのとき鄭泰がどうなったかを記していない。 正史 魏書 巻10 §53
弟鄭渾の伝は、鄭渾が河南開封県の人であり、高祖父の鄭衆と鄭衆の父鄭興はともに名高い儒者であったと記す。続けて、鄭渾の兄鄭泰は荀攸らとともに董卓を誅しようと謀り、揚州刺史となって死去したという。 正史 魏書 巻16 §80
鄭渾は鄭泰の幼い子の鄭袤を連れて淮南へ難を避け、袁術は賓客の礼をもって非常に手厚くもてなした。鄭渾は袁術が必ず敗れることを知っていた。そのころ華歆が豫章太守であり、もともと鄭泰と親しかったので、鄭渾は長江を渡って華歆に身を寄せた。 正史 魏書 巻16 §81
陳寿の本文は鄭泰の字・年齢・没年を記していない。鄭渾が収められた巻16の評は、鄭渾を名太守に数えるだけで鄭泰には触れない。 正史 魏書 巻16 §80 · 98
演義第2回で霊帝が崩じると、何進は司隷校尉の袁紹に御林軍五千を与え、何顒・荀攸・鄭泰ら大臣三十余人を率いて相次いで宮中に入り、霊帝の柩の前で太子弁を帝位に即かせる。 演義 第2回 §41
第3回で何進がひそかに各地の軍鎮へ密詔を送ると、西涼刺史の董卓は上表して洛陽に入り張譲らを除きたいと請う。何進がその表を大臣たちに示すと、侍御史の鄭泰が「董卓は豺狼のような者です。都に引き入れれば必ず人を食らうでしょう」と諫める。何進は「おまえは疑い深く、大事を謀るに足る者ではない」と答える。 演義 第3回 §1–4
盧植も、董卓は表向きは善良に見えても内心は凶悪であるから来させないよう止めよと諫める。何進が聞き入れないため、鄭泰と盧植はともに官を捨てて去り、朝廷の大臣の大半が去ってしまう。演義で鄭泰はこれ以降登場しない。 演義 第3回 §4–5
官職:演義第3回で鄭泰は侍御史として登場する。正史の荀攸伝では董卓を殺そうと謀ったとき彼は議郎であり、鄭渾伝ではのちに揚州刺史となった。 演義 第3回 §4正史 魏書 巻10 §52正史 魏書 巻16 §80
董卓を招くこと:演義第3回で鄭泰は董卓を都に引き入れないよう何進を諫め、聞き入れられないと官を捨てて去る。陳寿の本文にはこの諫言と辞職がなく、鄭泰は何進に招かれた名士の一人として登場する。 演義 第3回 §4–5正史 魏書 巻13 §29正史 魏書 巻10 §52–53正史 魏書 巻16 §80–81
太子弁の即位:演義第2回で鄭泰は、何進に従って霊帝の柩の前で太子弁を立てる大臣の一人である。陳寿の本文には鄭泰がこの即位に加わったという記録はない。 演義 第2回 §41正史 魏書 巻13 §29正史 魏書 巻10 §52–53正史 魏書 巻16 §80–81
董卓殺害の謀議:正史の荀攸伝では、鄭泰は董卓が都を長安に移した後、荀攸・何顒・种輯・伍瓊らとともに董卓を刺し殺そうと謀った。演義で鄭泰は第3回に官を捨てて去った後は登場しないため、この謀議にも名がない。 演義 第3回 §5正史 魏書 巻10 §52
死と家族:演義は鄭泰の死と家族を記さない。正史の鄭渾伝では鄭泰は揚州刺史となって死去し、弟の鄭渾が彼の幼い子の鄭袤を連れて淮南へ難を避けた。 演義 第3回 §5正史 魏書 巻16 §80–81
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
正荀攸らと董卓を刺殺したのち殽・函に拠ることを謀った魏書 巻10 §52
演董卓を豺狼と呼び、都に入れば人を食らうと見抜いた第3回 §4
正直接の記録なし — 事績から推定魏書 巻16 §80
演諫言が無視されるとすぐに官を捨てて去った第3回 §5
正何進に名士として招かれ、華歆と親しかった魏書 巻13 §29魏書 巻16 §81
演直接の記録なし — 事績から推定第2回 §41
正直接の記録なし — 揚州刺史であることから推定魏書 巻16 §80
演直接の記録なし — 侍御史であることから推定第3回 §4
正直接の記録なし — 文官であることから推定魏書 巻10 §52
演直接の記録なし — 文官であることから推定第3回 §4
正直接の記録なし — 揚州刺史であることから推定魏書 巻16 §80
演直接の記録なし — 大臣であることから推定第2回 §41
正無道な董卓を殺そうと荀攸らと謀った魏書 巻10 §52魏書 巻16 §80
正直接の記録なし — 儒者の家系から推定魏書 巻16 §80
演直接の記録なし — 大臣であることから推定第2回 §41
正直接の記録なし — 事績から推定魏書 巻10 §52
演何進を諫めたが、疑い深いと言われただけだった第3回 §4
正直接の記録なし — 事績から推定魏書 巻10 §52
演直接の記録なし — 事績から推定第3回 §4
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。