正同郡の秦宓を見出して許靖に推薦した蜀書 巻10 §19
演直接の記録なし — 行跡から推定第62回 §54
彭羕は字を永年といい、広漢の人である。州で書佐にとどまっていたが、誹謗を受けて劉璋に髪を剃られ首に鉄の輪をはめられた囚徒となった。しかし龐統と法正の推挙で先主劉備に用いられ、益州治中従事に昇った。 正史 蜀書 巻10 §19 · 21–22
諸葛亮が彼を安心して置いておくのは難しいと繰り返し述べると、先主は彼を江陽太守に左遷した。彭羕は訪ねた馬超に怨みの言葉を口にし、馬超がその言葉を上表したため捕らえられ、ついに処刑されて37歳で死んだ。 正史 蜀書 巻10 §23–25 · 31
正史を著した陳寿は評で、彭羕と廖立は才によって抜擢されたとしながらも、劉封・李厳・魏延らとともに、彼らが禍を招き咎を得たのはすべて自らに起因すると記した。演義では第62回に龐統の宿舎を訪れて寝台に寝転がる客として初めて登場し、120回のうち4回に登場するが、回目に名が載ることはない。第79回では、孟達と手を結んで内外から呼応しようと言った言葉が馬超を通じて露見し、獄中で死を賜る。 正史 蜀書 巻10 §74演義 第62回 §53–54演義 第79回 §23–24
彭羕は字を永年といい、広漢の人である。身の丈八尺で、容貌は非常に立派であった。性格は驕慢で人を軽んじることが多かったが、ただ同郡の秦子敕(秦宓)だけは敬った。彼は太守の許靖に秦宓を推薦し、高宗が夢に傅説を見、周の文王が呂尚を求めた故事を挙げて、綿竹の処士秦宓を招けば忠直の誉れを得て功業を成し、後世に名を馳せるであろうと述べた。 正史 蜀書 巻10 §19–20
彭羕は州に仕えたが書佐にすぎず、のちに多くの人々から州牧の劉璋に誹謗された。劉璋は彭羕の髪を剃り首に鉄の輪をはめて、労役に服する囚徒とした。 正史 蜀書 巻10 §21
ちょうど先主が蜀に入り、川をさかのぼって北へ進んでいた。彭羕は先主に説こうとして龐統を訪ねた。龐統とは旧知ではなく、折しも客が来ていたが、彭羕はまっすぐ龐統の寝台に上がって寝転び、客が帰ったらよい話をしようと言った。客たちが帰り龐統が彼のもとへ行って座ると、彭羕はまず食事を出せと求め、それからようやく共に語り合い、そのまま二晩泊まって幾日も過ごした。 正史 蜀書 巻10 §21
龐統は彼を大いに優れていると考え、法正も以前から彭羕を知っていたので、二人そろって彼を先主に推挙した。先主も彼を非凡と見て、たびたび軍事に関する命令を伝えさせ諸将を指揮させたが、使命を奉じて意にかなうように処理したので、知遇は日ごとに増した。 正史 蜀書 巻10 §22
建安19年(214)、成都が平定され先主が再び益州牧を兼ねると、彭羕は治中従事に抜擢された。先主伝は、劉璋に排斥された人物であった彭羕を、劉璋が任用していた董和・黄権・李厳らとともに顕職に置き、その才能を尽くさせたと記す。彭羕は徒歩の身から一朝にして州の人々の上に立つと、態度や顔色が騒々しくなり、厚遇を受けていることを自ら誇るのがますます甚だしくなった。 正史 蜀書 巻2 §33–34正史 蜀書 巻10 §22
諸葛亮は表向きは彭羕を接待したが内心では好ましく思わず、たびたびひそかに先主に、彭羕は心が大きく志が広いので安心して置いておくのは難しいと述べた。先主は諸葛亮を敬い信じていたので、彭羕の行状を観察するとしだいに遠ざける気持ちを抱き、彼を江陽太守に左遷した。 正史 蜀書 巻10 §23
彭羕は遠方に出されると聞いて内心不満を抱き、馬超を訪ねた。馬超が、孔明・孝直らと肩を並べて駆けるものと思っていたのに、どうして小さな郡を任されることになったのかと尋ねると、彭羕は「あの老いぼれ兵は耄碌して道理に外れている。これ以上何を言うことがあろう」と言い、さらに「あなたが外を受け持ち、わたしが内を受け持てば、天下を平定するのは難しくない」と言った。流浪の末に帰順した身でつねに危惧の念を抱いていた馬超は大いに驚いて答えず、彭羕が退くとその言葉を詳しく上表した。こうして彭羕は捕らえられて役所に引き渡された。 正史 蜀書 巻10 §24–25
彭羕は獄中から諸葛亮に手紙を送った。曹操は暴虐で孫権は無道、振威将軍は暗愚で惰弱であり、ただ主公だけが覇王の器を備えていると考え、法孝直を通じて自らを売り込み、龐統の取りなしで葭萌において主公に謁見して益州を取る策を立てたと述べた。怨みの心を抱いたのは、自分こそが最初に大業を興した者だと思っていたところに江陽へ出すという議論があって心が激したうえ、かなり酒に酔っていて軽率に「老いた」という言葉を口走ってしまったからだと述べた。 正史 蜀書 巻10 §26–28
内外に関する言葉については、孟起に北方の州で功を立てさせ、主公と力を合わせて共に曹操を討たせようとしただけでほかの意図はなく、孟起が述べたことは正しいが、その間の意味を区別して述べなかったと記した。手紙は龐統と誓い合ったことを振り返り、諸葛亮に主公とよく事を図って大計を成し遂げるよう託し、本心をはっきり理解してほしいという言葉で終わる。 正史 蜀書 巻10 §29–30
彭羕はついに処刑されて死んだ。時に37歳であった。陳寿は評で、彭羕と廖立は才によって抜擢されて進んだとし、劉封・李厳・魏延らとともに彼らの振る舞いを見れば、禍を招き咎を得たのは自らに起因しないものはないと述べた。 正史 蜀書 巻10 §31 · 74
演義第62回で、龐統の宿舎に一人の客が訪ねてくる。身の丈8尺で容貌はたいへん立派、髪を短く切って首筋に垂らしたその男は、返事もせずに堂に上がって寝台に寝転び、酒食を出されると遠慮せずに大いに飲み食いしたのち、また眠ってしまう。龐統が間者ではないかと案じて法正を呼ぶと、法正は「もしや彭永言ではないか」と言う。 演義 第62回 §52–54
第63回で法正は彼を、広漢の人で姓は彭、名は羕、字は永言という蜀の地の豪傑だと紹介し、直言して劉璋の機嫌を損ねたため髪を剃られ鉄の輪をはめられた囚徒となったので髪が短いのだと言う。彭羕は龐統にあなた方数万人の命を救いに来たと言ってから劉備に会い、前方の陣営が涪江にぴったり接しているので、川の水を決壊させて前後を兵でふさげば一人も逃れられないと気づかせ、罡星が西方にあり太白星がこの地に臨んでいるので用心せよと言う。 演義 第63回 §1–2
劉備は彭羕を幕賓とし、魏延と黄忠にひそかに知らせて川の決壊に備えさせる。その夜、堤を切りに来た泠苞は魏延に生け捕られて斬られ、劉備は宴を設けて彭羕をもてなす。第65回で劉備が益州牧となったのちに登用した投降の文武官60余人の中に、彭羕の名が入っている。 演義 第63回 §3–5演義 第65回 §46
第79回で曹丕が王位を継いだのち、劉備は諸葛亮の言葉に従って劉封と孟達を引き離そうと、劉封を綿竹に送る。孟達とたいへん親しかった彭羕はこのことを知らせる手紙を腹心に持たせて送るが、使者は南門の外で馬超の巡視兵に捕らえられる。馬超が訪ねてきて、漢中王の待遇がどうしてこれほど薄くなったのかと探りを入れると、彭羕は酒に酔って「老いぼれ兵めは頭がぼけて道理に外れている。必ず報いてやる」と罵り、馬超が兵を挙げて孟達と結び外から呼応すれば、自分は西川の兵を率いて内から呼応すると言う。 演義 第79回 §20–23
馬超はその男と手紙を漢中王に差し出し、事の次第を詳しく申し上げる。劉備は大いに怒って彭羕を獄に下し、彭羕は獄中で悔やむがすでに遅い。諸葛亮は「彭羕は狂士とはいえ、長く置けば必ず禍を生むでしょう」と言い、劉備は彭羕に獄中で死を賜る。彭羕が死んだと聞いた孟達は大いに驚き、申耽の計に従ってその夜50余騎を率いて魏に降りに行く。 演義 第79回 §24–26
字:演義第62~63回は彼の字を「永言」と記す。正史の彭羕伝は字を「永年」と記す。 演義 第62回 §54演義 第63回 §1正史 蜀書 巻10 §19
囚徒となった理由:演義第63回で法正は、彭羕が直言して劉璋の機嫌を損ねたため囚徒となったと言う。正史では、州で書佐にすぎなかった彭羕が多くの人々から劉璋に誹謗されて囚徒となったと記す。 演義 第63回 §1正史 蜀書 巻10 §21
龐統との出会い:演義第62回では、龐統が寝転がった客を間者ではないかと疑って法正を呼び、法正が彼に気づく。正史では、彭羕は客が帰るのを待ってから龐統と語り合って二晩泊まり、龐統は彼を大いに優れていると考えて、以前から彼を知っていた法正とともに先主に推挙した。 演義 第62回 §54正史 蜀書 巻10 §21–22
涪江の水:演義第63回で彭羕は泠苞が涪江を決壊させることを前もって指摘し、泠苞は生け捕られて斬られる。正史の彭羕伝にはこの件がなく、先主伝は泠苞らが涪県で先主を防いだがみな敗れて退き、綿竹を守ったとだけ記す。 演義 第63回 §2–5正史 蜀書 巻10 §18–31正史 蜀書 巻2 §32
任された職務:演義で彭羕は第63回に幕賓となり、第65回には登用された60余人の中に名前が出るだけである。正史では、彼は軍事に関する命令を伝えて諸将を指揮し、成都が平定されたのちに治中従事に抜擢された。 演義 第63回 §3演義 第65回 §46正史 蜀書 巻10 §22
左遷:正史では、諸葛亮がたびたびひそかに進言したことで先主が彭羕を江陽太守に左遷し、この知らせが馬超を訪ねるきっかけとなった。演義第79回には左遷がなく、馬超が漢中王の待遇がどうしてこれほど薄くなったのかと探る言葉があるだけである。 正史 蜀書 巻10 §23–24演義 第79回 §22
馬超に言った言葉:演義第79回では、孟達に送った手紙が馬超の巡視兵に捕らえられ、馬超がわざわざ訪ねて探りを入れると、彭羕は酒に酔って、馬超と孟達が外から、自分が内から呼応しようと言う。正史では、彭羕が自ら馬超を訪ね、馬超が外を受け持ち自分が内を受け持てば天下を平定するのは難しくないと言っており、孟達は出てこない。馬超は驚いて答えず、のちにその言葉を上表した。 演義 第79回 §22–23正史 蜀書 巻10 §24–25
獄中のこと:正史では、彭羕は獄中から諸葛亮に長い手紙を送り、酒に酔って「老いた」という言葉を口走っただけであり、内外に関する言葉は馬超とともに曹操を討とうという意味であったと明かした。演義第79回にはこの手紙がなく、彭羕は悔やんだがすでに遅かったとだけあり、諸葛亮が彼を狂士と呼んで、長く置けば禍を生むと言う。 正史 蜀書 巻10 §26–30演義 第79回 §24
死の時期:演義は彭羕の死を第79回、曹丕が王位を継いだのち劉封と孟達を引き離そうとした時に置く。正史は死んだ年を明らかにせず、江陽太守に左遷されると聞いたのち馬超に言った言葉のために捕らえられて処刑され、時に37歳であったと記す。 演義 第79回 §20–24正史 蜀書 巻10 §23–25 · 31
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正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
正同郡の秦宓を見出して許靖に推薦した蜀書 巻10 §19
演直接の記録なし — 行跡から推定第62回 §54
正故事を備えた推薦文と獄中の手紙を書いた蜀書 巻10 §20蜀書 巻10 §26
演直接の記録なし — 蜀の地の豪傑と呼ばれたことから推定第63回 §1
正先主に説き、使命を意にかなうよう果たして才により抜擢された蜀書 巻10 §22蜀書 巻10 §74
演龐統に劉将軍に会ってから話すと言って面会を得た第63回 §1
正先主の軍令を伝え、諸将を指揮した蜀書 巻10 §22
演直接の記録なし — 幕賓であることから推定第63回 §3
正直接の記録なし — 文士であることから推定蜀書 巻10 §19
演直接の記録なし — 文士であることから推定第63回 §1
正龐統に高く評価され、益州を取る策を論じた蜀書 巻10 §22蜀書 巻10 §26
正直接の記録なし — 治中従事の職務から推定蜀書 巻10 §22
演直接の記録なし — 登用された官員であることから推定第65回 §46
正驕慢で人を軽んじ、諸葛亮に好まれなかった蜀書 巻10 §19蜀書 巻10 §23
演直接の記録なし — 諸葛亮が狂士と呼んだことから推定第79回 §24
正厚遇をひどく誇り、左遷されると先主を老いぼれ兵と罵った蜀書 巻10 §22蜀書 巻10 §24
演怨みから馬超に孟達とともに謀反しようと持ちかけた第79回 §23
正不安を抱える馬超に失言して処刑され、禍は自ら招いたと評された蜀書 巻10 §24蜀書 巻10 §31蜀書 巻10 §74
演熟達 +10 罡星と太白星の位置から凶兆を警告した第63回 §2
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。