高覧 高覽
| 職業 | 正武将 演武将 · 偏将軍 | 所属 | |
|---|---|---|---|
| 登場 | 正演 | 収録 | |
| 実在 | 実在 | 言及 | 正3回 |
人物紹介
高覧は袁紹の将である。正史には独立した伝がなく、魏書巻1の武帝紀と巻6の董二袁劉伝に、建安5年(200)の官渡の戦いの際のこととしてそれぞれ一度ずつ名が見える。曹操が淳于瓊を攻めに出た隙に、袁紹は張郃と高覧を遣わして曹洪を攻めさせたが、張郃らは淳于瓊が敗れたと聞くと、やって来て降伏した。 正史 魏書 巻1 §58 · 68–70正史 魏書 巻6 §54
陳寿の本文は彼の字と出身、降伏後の官職と事績、死を記さず、彼を評してもいない。演義では第22回に孔融が袁紹配下の名将として挙げる名として初めて登場し、全120回のうち3回に登場するが、回目に名が載ることはない。第30回では郭図の讒言によって袁紹に呼び出されると、その使者を斬ったのち張郃とともに曹操に降伏し、第31回では劉備を阻んで劉辟を斬るが、趙雲の槍を受けて落馬する。 正史 魏書 巻1 §70正史 魏書 巻6 §54演義 第22回 §30演義 第30回 §47–49演義 第31回 §32–33
正史の記録
建安5年(200)、曹操は官渡で袁紹と数か月にわたって対峙し持ちこたえた。冬10月、袁紹は車で穀物を運ばせ、淳于瓊ら5人に兵1万余りを率いて護送させ、彼らは袁紹の陣営の北40里の地に宿営した。袁紹のもとから逃げてきた許攸が淳于瓊らを攻めるよう勧めると、曹操は曹洪を残して守らせ、自ら歩兵・騎兵5千を率いて夜に出発した。 正史 魏書 巻1 §58 · 68–69
武帝紀によれば、袁紹は曹操が淳于瓊を攻めると聞いて長男の袁譚に、彼らが淳于瓊らを攻める隙にその陣営を攻め取れば、彼らは帰るところがなくなるだろうと言った。そこで張郃と高覧に曹洪を攻めさせた。張郃らは淳于瓊が敗れたと聞くと、ついにやって来て降伏し、袁紹の軍が大いに崩れると、袁紹と袁譚は軍を捨てて逃げ、黄河を渡った。 正史 魏書 巻1 §70
董二袁劉伝は同じことを次のように記す。沮授が将の蒋奇を遣わして外側に別働隊を置き、曹公の略奪を断つよう進言したが、袁紹は従わず、淳于瓊は袁紹の軍営から40里離れた烏巣に宿営した。曹操は淳于瓊らを撃破してことごとく斬ったが、曹操が引き返して陣営に着く前に、袁紹の将の高覧・張郃らがその軍勢を率いて降伏した。袁紹の軍勢は大いに崩れ、袁紹は袁譚とともに単騎で退いて黄河を渡った。 正史 魏書 巻6 §53–54
張郃の伝は、このとき張郃が淳于瓊を救援しようと言ったが、郭図は曹操の本営を攻めようと言い、袁紹は軽騎兵だけを送って淳于瓊を救援させ、大軍で曹操の陣営を攻めたが陥落させられなかったと記す。淳于瓊らが撃破されると郭図が張郃を讒言し、張郃は恐れて曹操に帰順し、偏将軍・都亭侯となった。張郃の伝には高覧の名は出てこない。 正史 魏書 巻17 §42–45
陳寿の本文で高覧の名が出てくるのは、武帝紀と董二袁劉伝のこの二か所だけである。彼の字と出身、降伏後の官職と事績、死は記されておらず、彼に対する評もない。 正史 魏書 巻1 §70正史 魏書 巻6 §54
演義の描写
演義第22回で、袁紹が攻めて来るとの知らせに、孔融は袁紹を役に立たない人物と言ってはならないとして配下の謀士と将を挙げ、高覧・張郃・淳于瓊らもみな世に名高い将であると言う。荀彧は、そのほかの凡庸な連中は百万いたとしても言うに足りないと応じる。 演義 第22回 §30–31
第30回で官渡に進んだ袁紹が陣前に馬を立てると、その左右に張郃・高覧・韓猛・淳于瓊らが居並ぶ。張遼と張郃が四、五十合戦っても勝負がつかないと、許褚が刀を振るって助けに出て、高覧が槍をしごいてこれを迎え、四将が組になって戦う。続いて審配の弩兵と弓兵によって曹操の軍は大敗し、官渡に退く。 演義 第30回 §5 · 7–8
同じ回で烏巣に火の手が上がると、張郃は高覧とともに救いに行くと言うが、郭図は曹操が自ら出向いたはずだから空になった曹操の陣営をまず攻めようと再三求める。袁紹は張郃と高覧に兵5千を率いて官渡へ行き曹操の陣営を攻めさせ、蒋奇には兵1万で烏巣を救わせる。曹操の陣営を攻めた二人は、夏侯惇・曹仁・曹洪の三方からの攻撃と背後から戻ってきた曹操に包囲されて大敗し、道を奪ってかろうじて逃れる。 演義 第30回 §42–43 · 46
郭図は二人が戻って是非を問いただすことを恐れ、張郃と高覧はもともと曹操に降る意を抱いており、わざと力を尽くさなかったと袁紹に讒言し、先に人を遣わして二人に主公が殺そうとしていると知らせる。袁紹の使者が来ると、高覧は何の用で呼ぶのかと問い、使者が知らないと言うと剣を抜いて使者を斬る。驚く張郃に高覧は、袁紹は讒言を真に受けるので必ず曹操に捕らえられるだろう、座して死を待つより曹操のもとへ行って降伏しようと言い、張郃は自分もそう思って久しいと答える。 演義 第30回 §47–48
二人が本隊の兵馬を率いて降伏しに行くと、夏侯惇は真偽がわからないと言うが、曹操は恩をもって遇すれば異心があっても変わるだろうと言って陣門を開いて迎え入れる。戈を逆さにし鎧を脱いでひれ伏した二人に、曹操は微子が殷を去り韓信が漢に帰したのと同じだと言い、張郃を偏将軍・都亭侯に、高覧を偏将軍・東萊侯に封じる。二人は先鋒となることを願い出て、その夜袁紹の陣営を襲う。 演義 第30回 §49–51
第31回で曹操が程昱の十面埋伏の計を用いるとき、高覧は右の第五隊を受け持ち、逃げる袁紹を左の夏侯淵とともに飛び出して討つ。同じ回で、許都を攻めに来た劉備が敗れて逃げると、前を阻んだ張郃に続いて高覧が山の麓から兵を率いて現れる。劉備が剣を抜いて自ら首をはねようとすると劉辟が止めて進み出るが、高覧は三合もしないうちに劉辟を一刀のもとに斬り落とす。しかし高覧の後軍がにわかに乱れ、趙雲が陣を突き破って入ってきて、槍がひらめいたところで高覧は身を翻して落馬する。演義はこののち高覧を再び登場させない。 演義 第31回 §15 · 17 · 22–23 · 29 · 31–33
演義と異なる点
官渡の初戦:演義第30回で、高覧は袁紹の陣前で許褚と渡り合う。正史で高覧の名が出るのは淳于瓊が敗れたのちに降伏した箇所だけで、許褚と戦ったことはない。 演義 第30回 §7正史 魏書 巻1 §70正史 魏書 巻6 §54
曹操の陣営への攻撃:演義第30回では、張郃と高覧が兵5千で曹操の陣営を攻めたが、夏侯惇・曹仁・曹洪に大敗して逃れ、袁紹のもとに戻る。正史の武帝紀では、袁紹が二人に曹洪を攻めさせ、張郃らは淳于瓊が敗れたと聞くとやって来て降伏した。 演義 第30回 §43 · 46正史 魏書 巻1 §70
降伏の経緯:演義第30回では、郭図が張郃と高覧をともに讒言し、高覧が袁紹の使者を斬ったのち、先に降伏しようと言い出す。正史の張郃伝は、郭図が讒言したのは張郃で、張郃が恐れて帰順したと記し、高覧が使者を斬ったり降伏を勧めたりしたことはない。董二袁劉伝は、曹操が陣営に戻る前に高覧・張郃らが軍勢を率いて降伏したとだけ記す。 演義 第30回 §47–48正史 魏書 巻17 §44正史 魏書 巻6 §54
降伏後の封爵:演義第30回では、曹操が微子と韓信の故事を引いて二人を迎え、張郃を偏将軍・都亭侯に、高覧を偏将軍・東萊侯に封じる。正史でその言葉を聞いて偏将軍・都亭侯となったのは張郃だけで、高覧の官職と爵位は記されていない。 演義 第30回 §49–50正史 魏書 巻17 §45正史 魏書 巻6 §54
倉亭:演義第31回で、高覧は曹操の十面埋伏で右の第五隊を受け持って袁紹を討つ。正史の武帝紀は、建安6年(201)夏4月に倉亭にいた袁紹の軍を攻め破ったとだけ記し、高覧は出てこない。 演義 第31回 §15 · 17正史 魏書 巻1 §73
劉辟と最期:演義第31回で、高覧は許都を攻めに来て敗れた劉備を阻んで劉辟を斬り、趙雲の槍を受けて落馬する。正史の武帝紀では、曹操が南へ劉備を討つと劉備は劉表のもとへ逃げ、龔都らは散り散りになったと記すだけで高覧は出てこず、陳寿の本文は高覧の死を記していない。 演義 第31回 §32–33正史 魏書 巻1 §73 · 70正史 魏書 巻6 §54
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率5558+3
- 武力5070+20
- 知力4048+8
- 政治3131±0
- 魅力4045+5
- 徳3830−8
- 処世5862+4
- 文芸3131±0
- 弁舌3335+2
- 用人3333±0
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
近い項目 9件 — 根拠を見る
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。