政治
借荊州
事件紹介
赤壁の戦いの後、劉備が孫権から荊州の地を借りたという一件と、その地をめぐって両家が繰り広げた争いを借荊州という。正史では、劉備が京口に来て荊州を都督させてほしいと求めると、魯粛ひとりが貸し与えるよう勧め、劉備が益州を得た後、孫権は長沙・零陵・桂陽の3郡を要求して兵を動かした。争いは建安20年(215)、湘水を境に荊州を分けていったん収まった。 正史 呉書 巻9 §47 · 50–52正史 蜀書 巻2 §35
演義はこの一件を「荊州をしばらく借りる」という証文として描き、劉琦が死んだ後、西川を得たら返すという証文を劉備が書き、諸葛亮・魯粛が保証人となる。その後、魯粛と諸葛瑾が重ねて返還を求めに来て、関羽が刀一振りで宴会に赴く場面へと続く。 演義 第54回 §5–10演義 第56回 §27–35演義 第66回 §1–28
正史に見る経過
赤壁の後、孫権は周瑜を南郡太守とし、劉備は劉琦を荊州刺史に上表して南の4郡を収めた。劉琦が病死すると、衆は劉備を荊州牧に推して公安を治めさせ、孫権はやや恐れて妹を嫁がせ、誼を固めた。劉備は京口に赴いて孫権に会い、親交を深めた。 正史 呉書 巻2 §15正史 蜀書 巻2 §24
魯粛の伝によれば、劉備が京口に来て孫権に会い、荊州を都督させてほしいと求めると、魯粛だけが貸し与えてともに曹操を防ぐよう勧めた。曹操は孫権が土地を与えて劉備の基業としたと聞き、書き物をしていた筆を取り落とした。周瑜は反対に、劉備を呉に移して関羽・張飛と引き離すべきであり、土地を割いて基盤を与えれば蛟龍が雲雨を得るようなものだと上疏したが、孫権は北に曹操がいる以上、英雄を広く集めるべきだとして受け入れなかった。 正史 呉書 巻9 §47 · 19–20
周瑜が死んだ後、魯粛がその兵を引き継いで江陵にいたが陸口に移り、南郡太守は程普が務めた。程普の伝は、孫権が荊州を分けて劉備に与えると、程普は再び江夏を領したと記す。その後、魯粛は隣り合う関羽と国境でたびたび疑いや争いが生じたが、常に和睦によってなだめた。 正史 呉書 巻9 §48 · 50正史 呉書 巻10 §6
建安20年、劉備が益州を得ると、孫権は諸葛瑾を遣わして荊州の諸郡を求めた。劉備は、いま涼州を図っており、そこを平定すれば荊州をすべて与えると言い、孫権は、借りて返さず空言で歳月を引き延ばそうとしていると言った。孫権が南の3郡に官吏を置くと関羽がすべて追い出し、孫権は大いに怒って呂蒙に兵2万で長沙・零陵・桂陽を攻めさせ、魯粛を遣わして関羽を防がせた。劉備も兵5万を率いて公安に下り、関羽を益陽に向かわせた。 正史 呉書 巻2 §19–20正史 蜀書 巻2 §35
魯粛は益陽で関羽と対峙し、彼を招いて、双方の兵馬を百歩の外に置き、将軍たちだけが刀一振りずつを帯びて会見した。魯粛は、わが国が土地を貴家に貸したのは、貴家が戦に敗れて遠くから来て元手がなかったからであるのに、今や益州を得ながら返す意思がなく、3郡だけを求めても従わないと責めた。座中の一人が土地はただ徳ある者にあるのみだと言うと、魯粛は声を荒げて叱りつけ、関羽は刀を手に立ち上がって、国家の事をこの者が何を知ろうかと言い、目くばせして退出させた。 正史 呉書 巻9 §50–52
その間に呂蒙は長沙・桂陽を降し、零陵太守郝普を欺いて降伏させた。折しも曹操が漢中に入ると、益州を失うことを恐れた劉備は使者を送って和睦を求め、江夏・長沙・桂陽以東は孫権に、南郡・零陵・武陵以西は劉備に属させて湘水を境とした。零陵は郝普とともに返された。孫権は後に陸遜と周瑜・魯粛・呂蒙を論じ、魯粛が劉備に土地を貸すよう勧めたのは一つの短所だが、二つの長所を損なうには足りないと言った。 正史 呉書 巻2 §20–21正史 呉書 巻9 §75 · 52 · 90–91
演義の描写
演義第54回で、劉琦が死ぬと魯粛が弔問に来て、公子が死ねば荊州を返すという約束を問いただした。諸葛亮は、皇叔である劉備が兄劉表の基業を継ぐのは当然であり、赤壁の功もあると反論したが、魯粛の立場を考えて、荊州をしばらく借りて拠点とし、西川の劉璋を図って得たら返すという証文を劉備に書かせた。諸葛亮と魯粛が保証人として花押を書き、周瑜は、名は借りるというが実は居座るつもりだと地団駄を踏んだ。 演義 第54回 §3–10
第56回で、南郡を預かる周瑜の願いにより孫権が再び魯粛を遣わすと、劉備は諸葛亮の計略どおり大泣きし、諸葛亮は、同じ宗族の劉璋を討てば非難を受け、荊州を返せば身の置き所がないと言って猶予を求めた。魯粛はやむなく帰った。 演義 第56回 §27–35
第65・66回で劉備が西川を得ると、孫権は諸葛瑾の家族を偽って捕らえ、彼を成都に遣わした。劉備は長沙・零陵・桂陽の3郡を先に返すという手紙を与えたが関羽が拒み、孫権が送った官吏も追い出した。魯粛は陸口で関羽を宴会に招き、自分が保証人となって貸した件を問いただしたが、関羽は刀を手に魯粛を捕まえて川岸まで引きずって行き、舟に乗って帰った(「関雲長単刀赴会」)。 演義 第65回 §56演義 第66回 §1–28
第67回で曹操が東川を手に入れると、劉備は伊籍を遣わして江夏・長沙・桂陽の3郡を返し、孫権に合肥を攻めさせた。第77回で呂蒙が荊州を奪った後、孫権は、魯粛が荊州を劉備に貸すよう勧めたのが一つの短所だったと語った。 演義 第67回 §32–36演義 第77回 §25
演義と異なる点
借りた経緯:演義第54回では、劉琦の死後に魯粛が返還を求めに来ると、諸葛亮が西川を得たら返すという証文を書かせ、魯粛が保証人となる。正史の魯粛の伝は、劉備が京口に来て荊州を都督させてほしいと求めると魯粛が貸すよう勧めたとだけ記し、証文・保証はない。返す時期について劉備が持ち出したのは、益州を得た後の「涼州を平定したら」であった。 演義 第54回 §6–8正史 呉書 巻9 §47正史 呉書 巻2 §19
単刀会:演義第66回では、魯粛が陸口に関羽を宴会に招いて伏兵を置き、関羽は刀を手にしたまま魯粛を捕まえて脱出する。正史では、益陽で両軍が対峙する中で魯粛が関羽を呼んで責めた場であり、土地は徳ある者のものだと言った人物は名が記されておらず、演義では周倉がその言葉を言う。 演義 第66回 §14–27正史 呉書 巻9 §50–52
3郡の結末:演義第67回では、劉備が伊籍を遣わして江夏・長沙・桂陽を自ら返す。正史では、呂蒙が兵をもって長沙・桂陽・零陵を奪った後、曹操が漢中に入ると和睦し、湘水を境に江夏・長沙・桂陽は孫権が持ち、零陵は劉備に返された。演義には呂蒙が3郡を攻めたことと郝普の降伏がない。 演義 第67回 §32–36正史 呉書 巻2 §20–21正史 呉書 巻9 §75
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下位事件・演義の場面(1)
- 関雲長単刀赴会 215年