劉永
人物紹介
劉永は字を公寿といい、先主劉備の子で、後主劉禅の庶弟である。章武元年(221)6月に魯王に立てられ、建興8年(230)に甘陵王に改封された。 正史 蜀書 巻4 §18–19
かねてより宦官の黄皓を憎んでいたが、黄皓が信任を得て権力を握ると後主に讒言され、10余年にわたって朝見することができなかった。咸熙元年(264)に東の洛陽に移り、奉車都尉に任じられて郷侯に封じられた。正史は彼の没年を記さない。 正史 蜀書 巻4 §19
陳寿は彼が収められた巻4二主妃子伝の評で、夫婦と父子の人倫を記録して一国の体制を究めようとするとだけ記し、劉永を個別に評してはいない。演義では第77回に漢中王劉備と王妃呉氏の間の長男として初めて登場し、120回のうち3回に現れるが、名が回目に入った回はない。第85回では弟の劉理とともに劉備の遺言を聞き、諸葛亮に拝礼する。 正史 蜀書 巻4 §27演義 第77回 §36演義 第85回 §23
正史の記録
劉永は字を公寿といい、先主の子で、後主の庶弟である。先主伝によれば、章武元年(221)夏4月、先主は改元して諸葛亮を丞相、許靖を司徒とし、5月に呉氏を皇后、子の劉禅を皇太子に立てた。6月に子の劉永を魯王、劉理を梁王とした。 正史 蜀書 巻4 §18正史 蜀書 巻2 §68
先主は司徒許靖に劉永を魯王に立てさせ、策文を下した。策文は「小子永よ、この青土を受けよ」で始まり、東の地に国を建てて封じるので、亀山と蒙山をあわせ保ち、代々藩屛となって補佐せよと述べた。続けて、かの魯の国は一変すれば道に至るといわれるように風俗と教化がなお残り、人々が徳を好んで代々その美風を受け継いできたとし、心を固く保ち礼に従って士民を安んぜよと命じた。 正史 蜀書 巻4 §18–19
建興8年(230)に甘陵王に改封された。後主伝は、この年に魯王劉永を甘陵王に、梁王劉理を安平王に移したのは、魯と梁がいずれも呉の分け前とされた境域の内にあったためであると記す。 正史 蜀書 巻4 §19正史 蜀書 巻3 §11
はじめ劉永は宦官の黄皓を憎んでいた。黄皓が信任を得て政務を握ると、後主に劉永を讒言して陥れ、後主はしだいに劉永を遠ざけた。劉永が朝見できなかった期間は10余年に及んだ。 正史 蜀書 巻4 §19
咸熙元年(264)、劉永は東の洛陽に移り、奉車都尉に任じられて郷侯に封じられた。陳寿の本文はその後のことと没年を記さない。 正史 蜀書 巻4 §19
巻4二主妃子伝の末尾の評で陳寿は、『易』に夫婦があってのちに父子があるというように、人倫の始まりであり恩情と綱紀の盛んなることにおいてこれに勝るものはないとし、これを記録して一国の体制を究めようとするとだけ記した。劉永を個別に評してはいない。 正史 蜀書 巻4 §27
演義の描写
演義第77回で、漢中王劉備が東川から成都に戻ると、法正は王妃を迎えて内政を助けさせるよう勧め、呉懿の妹を推薦する。彼女はかつて劉焉の子劉瑁と婚約していたが、劉瑁が早世したため独り身で暮らしていた。漢中王は劉瑁が同じ宗族であるとしてためらうが、法正が晋の文公と懐嬴の故事を挙げると、呉氏を王妃に迎える。演義は、呉氏がのちに二人の子を産み、長男は劉永で字を公寿、次男は劉理で字を奉孝といったと記す。 演義 第77回 §35–36
第80回で漢中王は帝位に即き、章武元年と改元する。その場で呉氏を皇后、長男劉禅を太子に立て、次男劉永を魯王、三男劉理を梁王に封じ、諸葛亮を丞相、許靖を司徒とする。 演義 第80回 §42
第85回で永安宮に臥した先主は病が重くなると、この世に長くはとどまれないと言い、使者を成都に送って丞相諸葛亮、尚書令李厳らを呼び寄せ遺命を受けさせる。孔明らは先主の次男魯王劉永、梁王劉理とともに永安宮に来て、太子劉禅は残って成都を守る。 演義 第85回 §15 · 17
先主は孔明に後事を託したのち彼を寝台の上に座らせ、魯王劉永と梁王劉理を近くに呼んで、朕の死後お前たち三兄弟はみな丞相を父として仕え、怠ってはならないと言い含める。そして二王にともに孔明を拝させ、孔明は肝脳を地にまみれさせても知遇の恩に報いきれないと答える。先主は章武3年夏4月24日、63歳で崩御する。 演義 第85回 §22–23 · 25
演義と異なる点
母:演義第77回は、劉永と劉理を劉備が王妃に迎えた呉氏の産んだ二人の子とする。正史の劉永伝は彼を後主の庶弟とするだけで母を明らかにせず、劉理伝は劉理が劉永と母を異にしたと記す。穆皇后呉氏の伝にも子を産んだという記述はない。 演義 第77回 §36正史 蜀書 巻4 §18 · 21 · 9–11
魯王冊封:演義第80回では、劉備が帝位に即いたその場で皇后・太子とともに劉永を魯王に封じる。正史の先主伝では、章武元年(221)4月に改元し、5月に皇后と皇太子を立てたのち、6月に劉永を魯王とした。劉永伝は、司徒許靖に彼を立てさせて策文を下したと記す。 演義 第80回 §42正史 蜀書 巻2 §68正史 蜀書 巻4 §18
その後:演義は第85回で劉備の遺言を聞いたのち、劉永を再び描かない。正史では建興8年(230)に甘陵王に改封され、宦官黄皓の讒言によって10余年朝見できず、咸熙元年(264)に洛陽に移って奉車都尉となり、郷侯に封じられた。 演義 第85回 §23正史 蜀書 巻4 §19
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能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率3131±0
- 武力3131±0
- 知力4038−2
- 政治4240−2
- 魅力3840+2
- 徳5850−8
- 処世3838±0
- 文芸4240−2
- 弁舌3333±0
- 用人4835−13
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
近い項目 9件 — 根拠を見る
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。