劉瑁
人物紹介
劉瑁は益州牧劉焉の子で、劉璋の兄である。兄弟の劉範・劉誕・劉璋が献帝に従って長安にいたとき、別部司馬としてただ一人ずっと劉焉に従っていた。劉焉は、人相見の上手な者が呉懿の妹(のちの先主穆皇后)の相を見て大いに貴くなると言ったと聞き、彼女を劉瑁の妻に迎えた。 正史 蜀書 巻1 §9 · 14正史 蜀書 巻4 §9
劉璋が曹公に使者を送って敬意を表すと、劉璋は振威将軍、劉瑁は平寇将軍の称号を加えられた。劉瑁は狂疾で死に、妻は寡婦として暮らしたが、先主(劉備)が益州を平定したのち先主の夫人となった。 正史 蜀書 巻1 §14正史 蜀書 巻4 §9–10
正史には独立した伝がなく、蜀書巻1の劉二牧伝と巻4の二主妃子伝の先主穆皇后の記事に見える。演義では全120回のうち第77回の1回にのみ名が見え、回目に名が見える回はない。法正が漢中王に呉懿の妹を王妃として推薦する際、彼女はかつて劉焉の子劉瑁と婚約したが劉瑁が早世したと述べる。 正史 蜀書 巻1 §9 · 14正史 蜀書 巻4 §9演義 第77回 §35
正史の記録
劉瑁は益州牧劉焉の子である。劉焉は字を君郎といい、江夏郡竟陵県の人で、漢の魯恭王の後裔であった。監軍使者として出て益州牧を兼ね、陽城侯に封じられた。 正史 蜀書 巻1 §2 · 5
劉焉の野心がしだいに大きくなり、天子の乗る車とその道具を千余りも作らせていたころ、劉焉の子の劉範は左中郎将、劉誕は治書御史、劉璋は奉車都尉として、みな献帝に従って長安におり、ただ子の別部司馬劉瑁だけがずっと劉焉に従っていた。献帝は劉璋を遣わして劉焉を諭させたが、劉焉は劉璋を引き留めて帰さなかった。 正史 蜀書 巻1 §9
劉焉と劉範は馬騰と共謀して長安を襲おうとしたが、謀が漏れ、劉範はほどなく殺され、劉誕も捕らえられて刑に処された。劉焉は治所を成都に移したが、子らを失ったことを悼むうえ、天火で城が焼けた災いに心を傷め、興平元年(194)に背中に悪性の腫れ物ができて死んだ。州の高官趙韙らが劉璋を益州刺史に推す書を奉り、詔は劉璋を監軍使者とし益州牧を兼ねさせた。 正史 蜀書 巻1 §10–11
先主穆皇后伝によれば、呉懿の父がかねて劉焉と旧交があったので、一家を挙げて劉焉に従って蜀に入った。異志を抱いていた劉焉は、人相見の上手な者が呉懿の妹の相を見て大いに貴くなると言ったと聞き、その時子の劉瑁を連れていたので、ついに劉瑁のために彼女を妻に迎えた。 正史 蜀書 巻4 §9
劉璋は曹公が荊州を征伐し、すでに漢中を平定したと聞き、河内の人陰溥を遣わして曹公に敬意を表した。これにより劉璋には振威将軍、兄の劉瑁には平寇将軍の称号が加えられた。劉瑁は狂疾で死んだ。陳寿の本文は彼の死んだ年を明らかにしていない。 正史 蜀書 巻1 §14
劉瑁が死ぬと、妻は寡婦として暮らした。先主が益州を平定したのち孫夫人が呉に帰ると、臣下たちが先主に彼女を迎えるよう勧めたが、先主は劉瑁と同族であるとしてためらった。法正が進み出て、親疎を論じるなら晋の文公と子圉の関係と比べてどうかと言うと、先主は彼女を迎えて夫人とし、建安24年(219)に漢中王后に立てた。 正史 蜀書 巻4 §9–10
陳寿は劉二牧伝の評で、劉焉は董扶の言葉を聞いて益州の地に心を寄せ、人相見の言葉を聞いて呉氏との婚姻を求め、急いで天子の車と衣服を作って神器を盗もうとしたのであり、その惑いは甚だしいと述べた。 正史 蜀書 巻1 §21
演義の描写
演義第77回で、漢中王が東川から成都に戻ると、法正は、王上の先の夫人は世を去り、孫夫人は南に帰ったので、必ず王妃を迎えて内政を助けさせるべきだと奏上する。続けて、呉懿には美しくしかも賢い妹が一人おり、人相見が後に必ず大いに貴くなると言ったこと、かつて劉焉の子劉瑁と婚約したが劉瑁が早世し、その女性は今まで独り身でいることを語る。 演義 第77回 §35–36
漢中王は、劉瑁は自分と同じ宗族であり道理上よろしくないと言うが、法正がその親疎を論じるなら晋の文公と懐嬴の場合と何が違うのかと言うと、これを許して呉氏を王妃に迎える。演義で劉瑁の名はこの二節にしか見えず、彼が何をしたかは記されていない。 演義 第77回 §36
演義と異なる点
呉氏との婚姻:演義第77回で法正は、呉氏がかつて劉瑁と婚約したが劉瑁が早世したと言う。正史では劉焉が子の劉瑁のために彼女を妻に迎え、劉瑁が死ぬと彼女は寡婦として暮らした。 演義 第77回 §35–36正史 蜀書 巻4 §9
劉焉のそばの劉瑁:演義は劉瑁を劉焉の子としか記さない。正史では、兄弟の劉範・劉誕・劉璋が献帝に従って長安にいたとき、別部司馬としてただ一人ずっと劉焉に従っていた。 演義 第77回 §35正史 蜀書 巻1 §9
死:演義第77回は劉瑁が早世したとだけ言う。正史では、劉璋が曹公に使者を送って敬意を表したのちに平寇将軍の称号を加えられ、狂疾で死んだ。 演義 第77回 §35正史 蜀書 巻1 §14
再婚の時期:演義第77回では、漢中王が東川から成都に戻ったのち、法正の勧めで呉氏を王妃に迎える。正史では、先主が益州を平定し孫夫人が呉に帰ったのち、臣下たちの勧めで彼女を夫人に迎え、建安24年(219)に漢中王后に立てた。 演義 第77回 §35–36正史 蜀書 巻4 §9–10
法正が挙げた故事:演義第77回で法正は晋の文公と懐嬴の場合を挙げる。正史で法正は晋の文公と子圉の関係を挙げた。 演義 第77回 §36正史 蜀書 巻4 §9
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能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率4033−7
- 武力3831−7
- 知力3535±0
- 政治3335+2
- 魅力3540+5
- 徳4245+3
- 処世3335+2
- 文芸3340+7
- 弁舌3335+2
- 用人3333±0
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
10点以上の差がある項目はありません — 演義も正史とほぼ同じように描いています。
近い項目 10件 — 根拠を見る
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。