趙韙
人物紹介
趙韙は巴西の人である。太倉令であったが官を辞し、益州牧となって赴任する劉焉に従った。正史には独立した伝がなく、蜀書巻1の劉二牧伝に3回名が見える。 正史 蜀書 巻1 §5 · 11 · 13
興平元年(194)に劉焉が死ぬと、州の高官としてほかの者たちとともに劉璋を益州刺史に推し、征東中郎将となって兵を率いて劉表を攻めた。のちに兵を挙げて劉璋に矛先を向けたが、配下が散って殺された。 正史 蜀書 巻1 §11 · 13
陳寿は巻1の評で趙韙に特に触れていないが、劉璋伝の本文で、龐羲との不和と趙韙の反乱はいずれも劉璋に明断が乏しく、外からの言葉を受け入れたためであると記した。演義では第59回に劉璋を紹介する場面で、劉璋を益州牧に推戴した州の高官として一度だけ名が見え、全120回のうちこの1回にのみ登場し、回目に名が挙がることはない。 正史 蜀書 巻1 §13 · 21–22演義 第59回 §50
正史の記録
劉焉が益州に意を向けていたころ、益州刺史郤倹が租税を煩わしく苛酷に取り立てて怨みの歌が遠くまで聞こえ、并州では刺史張壱が、涼州では刺史耿鄙が殺されたため、劉焉の計略は実行に移すことができた。劉焉は監軍使者として出て益州牧を兼ね、陽城侯に封じられた。このとき董扶も蜀郡西部属国都尉となることを求め、太倉令であった巴西の人趙韙も官を辞し、みな劉焉に従った。 正史 蜀書 巻1 §4–5
興平元年(194)、劉焉が背中に悪性の腫れ物ができて死ぬと、州の高官趙韙らは劉璋の温和で仁愛深いことを望んで、ともに劉璋を益州刺史に推す書を奉った。詔はこれに従って劉璋を監軍使者として益州牧を兼ねさせ、趙韙を征東中郎将として兵を率いて劉表を攻めさせた。 正史 蜀書 巻1 §11
劉璋は張魯の母と弟を殺して張魯と仇敵となり、たびたび龐羲らを派遣して張魯を攻めたが、そのたびに敗れたので、龐羲を巴西太守として張魯を防がせた。のちに龐羲と劉璋の間が不和になり、趙韙は兵を挙げて矛先を内に向けたが、配下が散って殺された。陳寿は、これらはすべて劉璋に明断が乏しく、外からの言葉を受け入れたためであると記した。 正史 蜀書 巻1 §13
陳寿の本文は趙韙の字と生没年、兵を挙げた年を記していない。陳寿は巻1の評で劉焉と劉璋を評したが、趙韙については特に触れていない。 正史 蜀書 巻1 §1–22
演義の描写
演義第59回で、張魯が西川を先に取ろうと兵を挙げようとし、間者がこれを西川に知らせると、演義は益州の劉璋を紹介する。劉焉が興平元年に疽を病んで死ぬと、州の高官趙韙らがともに劉璋を益州牧に推戴したと記し、劉璋が張魯の母と弟を殺したため恨みがあり、龐羲を巴西太守として張魯を防がせたという話に続く。演義で趙韙が登場するのはこの場面だけである。 演義 第59回 §49–50
演義と異なる点
劉焉に従ったこと:演義第59回には趙韙が劉璋を推戴したことしか出てこない。正史では、太倉令であった趙韙が董扶とともに官を辞し、益州牧となって赴任する劉焉に従った。 演義 第59回 §50正史 蜀書 巻1 §5
劉璋の推戴:演義第59回では趙韙らが劉璋を益州牧に推戴する。正史では趙韙らが劉璋の温和で仁愛深いことを望んで益州刺史に推す書を奉り、詔がこれに従って劉璋を監軍使者として益州牧を兼ねさせた。 演義 第59回 §50正史 蜀書 巻1 §11
劉表攻撃:演義第59回には趙韙の官職と出征は出てこない。正史では、劉璋が益州牧となる際に詔によって征東中郎将となり、兵を率いて劉表を攻めた。 演義 第59回 §50正史 蜀書 巻1 §11
反乱と死:演義で趙韙は第59回の推戴の場面にのみ登場し、反乱と死は記されていない。正史では、のちに兵を挙げて劉璋に矛先を向けたが、配下が散って殺された。 演義 第59回 §50正史 蜀書 巻1 §13
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能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率4035−5
- 武力3833−5
- 知力3840+2
- 政治4545±0
- 魅力3540+5
- 徳2545+20
- 処世3545+10
- 文芸3133+2
- 弁舌4038−2
- 用人3538+3
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
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正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。