何宗
人物紹介
何宗は字を彦英といい、蜀郡郫県の人である。広漢の任安に学び、その学術を深く究めた。劉璋の時に犍為太守となり、劉備が益州を平定して益州牧を兼ねると、招かれて従事祭酒となった。 正史 蜀書 巻15 §52
魏の文帝が尊号を称したのち、群臣とともに河図・洛書や讖緯を引いて劉備に尊号に即くよう勧め、劉備が帝位に即いたのちに大鴻臚に昇進した。建興年間に死去した。陳寿は彼の事績が伝わらないとして伝を立てず、楊戯の『季漢輔臣賛』の下にその始終を記した。 正史 蜀書 巻2 §55正史 蜀書 巻15 §33 · 52
楊戯は賛で「鴻臚は明らかで真実であった」と称えた。演義では全120回のうち第80回の1回にだけ登場し、名が回目に入った回はない。劉備に帝位に即くよう請うてひれ伏し拝礼する文武の官員の中に、「祭酒何宗」として名だけが出てくる。 正史 蜀書 巻15 §48–49演義 第80回 §37
正史の記録
何宗は字を彦英といい、蜀郡郫県の人である。広漢の任安に学んで任安の学術を深く究め、杜瓊と師を同じくしたが、名声は杜瓊より高かった。劉璋の時に犍為太守となった。劉備が益州を平定して益州牧を兼ねると、彼を招いて従事祭酒とした。 正史 蜀書 巻15 §52
建安25年(220)、魏の文帝が尊号を称し、年号を黄初と改めた。漢の皇帝が殺害されたという噂が伝わると、劉備は喪を発して喪服を着け、孝愍皇帝と追諡した。その後、各地から瑞兆の報告が日ごと月ごとに相次いだ。そこで議郎・陽泉侯劉豹、青衣侯向挙、偏将軍張裔・黄権、大司馬属殷純、益州別駕従事趙莋、治中従事楊洪、従事祭酒何宗、議曹従事杜瓊、勧学従事張爽・尹黙・譙周らが上書した。 正史 蜀書 巻2 §55
上書は、河図・洛書と五経の讖書・緯書は孔子が選び明らかにしたものであるとし、『洛書甄曜度』の「九世にして備に会い、合して帝の際となる」をはじめとする讖緯の句をいくつも挙げた。また、西南に黄色い気が何年もまっすぐ立ちのぼり、旗のような気が西から東の果てまで天の中ほどを通っていき、熒惑がまた歳星を追ったと奏上したうえで、大王が天に応じ民に順って速やかに大業に就かれるよう請うた。 正史 蜀書 巻2 §55–59
続いて太傅許靖、安漢将軍麋竺、軍師将軍諸葛亮らも上書し、前後して上書した臣下は八百余人にのぼるとして、帝位に即くよう請うた。劉備は建安26年(221)4月、成都の武担の南で皇帝の位に即いた。陳寿が記した何宗の記録には、彼が図讖を引いて劉備に尊号に即くよう勧め、劉備が帝位に即いたのちに大鴻臚に昇進したとある。 正史 蜀書 巻2 §60 · 65正史 蜀書 巻15 §52
何宗は建興年間に死去した。陳寿は、彼の事績が伝わらないので伝を立てなかったと記した。子の何双は字を漢偶といい、滑稽で冗談を好み、淳于髡・東方朔の風があった。双柏県の長となったが、早くに死んだ。 正史 蜀書 巻15 §52–53
楊戯は延熙4年(241)に『季漢輔臣賛』を著し、陳寿はそのうち伝を立てなかった人々の始終を賛辞の下に記した。楊戯は王元泰(王謀)・何彦英(何宗)・杜輔国・周仲直の四人をともに称えて、「少府は身を修めて慎み、鴻臚は明らかで真実であった。諫議大夫は隠れた徳行があり、儒林校尉は天文に明るかった。大いなる教化をあまねく広め、ある者は首となり、ある者は林となった」と述べた。 正史 蜀書 巻15 §33 · 48–49
演義の描写
演義第80回で、曹丕が自ら大魏皇帝となり、漢の皇帝はすでに害されたという噂が成都に伝わると、漢中王劉備は終日声を上げて泣き、孝愍皇帝の諡を奉る。孔明は太傅許靖・光禄大夫譙周と協議して漢中王を皇帝に推戴しようとし、譙周はめでたい風と雲、成都の西北の黄色い気、畢・胃・昴の分野に現れた帝星を挙げて、漢中王が帝位に即くべき兆しだと言う。 演義 第80回 §29–30
孔明と許靖が官僚を率いて上表すると、漢中王は自分を不忠不義の人間に陥れるつもりかと言い、袖を払って奥へ入ってしまう。三日後に再び請うても聞き入れないので、孔明は官員たちに計略を言い含めたうえで、病と称して出てこない。見舞いに来た漢中王に孔明は、官員たちが恨みを抱いて離散することが憂いだと言い、漢中王は軍師の病が癒えるのを待って行っても遅くないと答える。 演義 第80回 §31–36
孔明が寝台から躍り起きて屏風を打つと、外にいた文武の官員がみな入ってきてひれ伏し、日を選んで大礼を行うよう請う。演義はその一団を太傅許靖、安漢将軍麋竺、青衣侯向挙、陽泉侯劉豹らと列挙し、何宗はその中に「祭酒何宗」として名だけが出てくる。漢中王は、自分を不義に陥れたのはみな卿らだと驚く。 演義 第80回 §37–38
成都の武担の南に壇が築かれ、譙周が祭文を読み上げたのち、漢中王は帝位に即いて年号を章武元年と改める。諸葛亮を丞相に、許靖を司徒とし、大小の官僚を一人一人昇進させ賞を与えたと言うだけで、演義は何宗がどんな官職を得たかを記さず、その後は彼を再び登場させない。 演義 第80回 §38–39 · 42
演義と異なる点
兆しを奏上した者:演義第80回では、譙周が孔明と協議しながら黄色い気と帝星の兆しを語る。正史先主伝で、黄色い気と星の動き、讖緯の句を挙げて尊号を勧めた上書は、劉豹・向挙・張裔・黄権・殷純・趙莋・楊洪・何宗・杜瓊・張爽・尹黙・譙周らが連名で奉った。 演義 第80回 §30正史 蜀書 巻2 §55–59
勧め方:演義第80回では、孔明が病を口実に漢中王を呼び寄せる計略を用い、屏風を打つ合図で官員たちが入ってきてひれ伏す。何宗はその一団に名があるだけである。正史では何宗らが上書し、何宗の記録は彼が図讖を引いて尊号を勧めたと記す。孔明の仮病は先主伝にない。 演義 第80回 §34 · 37正史 蜀書 巻2 §55 · 60–65正史 蜀書 巻15 §52
官職:演義第80回では「祭酒」としてのみ登場する。正史では劉璋の時に犍為太守、劉備が益州牧を兼ねたのちは従事祭酒であり、劉備が帝位に即いたのちに大鴻臚に昇進した。演義は即位後の彼の官職を記さない。 演義 第80回 §37 · 42正史 蜀書 巻15 §52
学問:演義には彼の学問が出てこない。正史では広漢の任安に学んでその学術を深く究め、杜瓊と師を同じくしたが、名声は杜瓊より高かった。 演義 第80回 §37正史 蜀書 巻15 §52
その後:演義は第80回以後何宗を登場させず、死も記さない。正史は、彼が建興年間に死に、子の何双が双柏県の長となったが早くに死んだと記す。 演義 第80回 §37正史 蜀書 巻15 §52–53
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能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率3131±0
- 武力3131±0
- 知力4240−2
- 政治4240−2
- 魅力3838±0
- 徳4545±0
- 処世4545±0
- 文芸5548−7
- 弁舌4542−3
- 用人3533−2
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
10点以上の差がある項目はありません — 演義も正史とほぼ同じように描いています。
近い項目 10件 — 根拠を見る
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。
演義の登場回(1回)
登場登場なし 登場回の一覧 →