戦い
襄陽の戦い 襄陽之戰
事件紹介
襄陽の戦いは、袁術の命で荊州の劉表を討ちに行った孫堅が、樊県と鄧県の間で黄祖を破り、漢水を渡って襄陽を包囲したが、ただ一騎で峴山を通っていたところを黄祖の兵士が放った矢に当たって死んだ戦いである。孫堅伝はこれを初平3年(192)のこととして記す。軍が敗れると袁術はついに劉表に勝てず、孫堅の兄の子孫賁が将兵を率いて袁術のもとへ帰った。 正史 呉書 巻1 §21正史 魏書 巻6 §83
陳寿はこの戦いを呉書巻1の孫堅伝に記し、魏書巻6の劉表伝と巻22の桓階伝にも載せた。演義は第7回の回目の後半「孫堅跨江撃劉表」でこの戦いを描き、第8回の冒頭で孫策に、捕らえた黄祖と父の遺体を交換させる。 正史 呉書 巻1 §21正史 魏書 巻6 §83正史 魏書 巻22 §2演義 第7回 §26–28 · 43演義 第8回 §1–2
正史に見る経過
劉表は霊帝の崩御後、王叡に代わって荊州刺史となり、襄陽に兵を集めた。王叡は、先に孫堅が董卓討伐の兵を挙げた際、通りがかりに殺した人物である。袁術は袁紹と不和になったうえ劉表とも折り合いが悪く、北の公孫瓚と結び、袁紹は南の劉表と結んだ。南陽にいた袁術は孫堅と力を合わせて劉表の州を襲い奪おうとし、孫堅に劉表を攻めさせた。 正史 魏書 巻6 §82–83 · 73正史 呉書 巻1 §13
初平3年(192)、袁術が孫堅に荊州を征伐させて劉表を攻めさせると、劉表は黄祖を遣わして樊県と鄧県の間で迎え撃たせた。孫堅はこれを破り、追撃して漢水を渡り、ついに襄陽を包囲した。しかし孫堅はただ一騎で峴山を通っていたところ、黄祖の兵士に射殺された。劉表伝は、孫堅が流れ矢に当たって死んで軍が敗れ、袁術はついに劉表に勝てなかったと記す。 正史 呉書 巻1 §21正史 魏書 巻6 §83
孫堅の兄の子孫賁は将兵と部衆を率いて袁術のもとへ行き、袁術は再び上表して孫賁を豫州刺史とした。長沙太守時代の孫堅が孝廉に推挙した桓階は、その時父の喪で郷里に帰っていたが、孫堅が劉表を攻めて戦死すると、危険を冒して劉表のもとへ行き孫堅の遺体を返すよう請い、劉表はその義を称えて引き渡した。孫堅が初めて義兵を挙げた時、母を連れて舒県に移り住んでいた孫策は、孫堅が死ぬと戻って曲阿に葬った。 正史 呉書 巻1 §21 · 24正史 魏書 巻22 §2
孫堅には孫策・孫権・孫翊・孫匡の四人の子があり、孫権は帝号を称した後、孫堅に武烈皇帝と諡した。陳寿は巻1の評で、孫堅は勇猛剛毅で、微賤の身から身を起こし、張温を導いて董卓を誅させようとし、陵墓を塞いだ忠壮の気概があったとしながらも、孫堅と孫策はともに軽佻で性急であったため身を滅ぼし敗れたと述べた。 正史 呉書 巻1 §22 · 41
演義の描写
演義第7回で、袁紹に馬千頭を、劉表に兵糧20万を求めていずれも断られた袁術は孫堅に手紙を送り、先に劉表が道を阻んだのは袁紹の策略であったとして、劉表を討つようけしかける。孫堅は、袁術は信用できないという程普の言にもかかわらず仇を討つとして兵を起こし、弟の孫静が止めたが、長男孫策とともに船に乗って樊城へ攻め込む。 演義 第7回 §26–31
黄祖は岸辺に弓弩手を伏せていたが、孫堅は三日間、船を岸に寄せては引くことを繰り返して矢十数万本を集め、逆に射返して上陸する。樊城を捨てて鄧城へ逃げた黄祖が野に陣を敷くと、孫策が襄陽の陳生を弓で射落とし、韓当が江夏の張虎を斬り、黄祖は兜と馬を捨てて逃げる。孫堅は襄陽城外の峴山に陣を敷いた蔡瑁を破り、襄陽を四方から包囲する。 演義 第7回 §32–39
強風で中軍の「帥」の字の旗竿が折れると、韓当は兵を引こうと言うが、孫堅は聞かない。蒯良の計を受けた呂公が、袁紹に救援を求めに行くとして城を出て峴山へ逃げると、孫堅は諸将も集めずに三十余騎だけを率いて追う。山道に入った孫堅は、山上から降り注ぐ石と林の中から飛んでくる矢に当たり、37歳で死ぬ。 演義 第7回 §39–43
黄蓋は城から出てきた黄祖を生け捕りにし、程普は孫策を守って呂公を突き殺す。漢水に戻った孫策は父の遺体が城内に運び込まれたことを知って声を上げて泣き、軍吏桓階が使者として城に入る。第8回の冒頭で劉表は蒯良の反対を退けて黄祖と孫堅の遺体を交換し、孫策は曲阿の原に父を葬る。 演義 第7回 §44–46演義 第8回 §1–2
演義と異なる点
戦いの発端:演義第7回では、袁紹・劉表に断られた袁術が、先に劉表が道を阻んだのは袁紹の策略であったとして孫堅をけしかける。正史の劉表伝は、袁術が孫堅と合従して劉表の州を襲い奪おうとし、孫堅に劉表を攻めさせたと記す。 演義 第7回 §26–27正史 魏書 巻6 §83
孫策の参戦:演義第7回で長男孫策は父に従って船に乗り、陳生を弓で射落とす。正史の孫策伝では、孫策は孫堅が義兵を挙げた後、母を連れて舒県に移り住み、孫堅が死ぬと戻って曲阿に葬った。 演義 第7回 §31 · 35正史 呉書 巻1 §24
孫堅の死:演義第7回で孫堅は呂公の計にかかり、峴山で石と矢に当たって死ぬ。正史の孫堅伝は、ただ一騎で峴山を通っていたところを黄祖の兵士に射殺されたとし、劉表伝は流れ矢に当たって死んだと記す。 演義 第7回 §40–43正史 呉書 巻1 §21正史 魏書 巻6 §83
遺体を取り戻したこと:演義第7・8回では、黄蓋が生け捕りにした黄祖を孫堅の遺体と交換し、孫策の軍吏桓階が使者となる。正史の桓階伝では、桓階は孫堅が長沙太守の時に孝廉に推挙した人物で、父の喪で郷里にいたが、危険を冒して劉表のもとへ行き遺体を請うて受け取ったのであり、黄祖を交換したことは出てこない。 演義 第7回 §44–46演義 第8回 §1–2正史 魏書 巻22 §2
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